ロシア最新ニュ−ス
2001年11月分履歴
2001年
11月10日(土)
“ゴルバチョフ、権力への軌跡”(完)
−今日、八月政変十周年を祝っている。それはまたゴルビ−が打倒されてから10年でもある。これは、外部の圧力からではなく本人自らソヴィエト帝国を崩壊させ世界を震撼かせた有名なゴルビ−のことである。ゴルバチョフの政界引退は、国家元首がたんに交代しただけではない。たんに政治体制の転換ではない。たんに共産主義の破綻ではない。ゴルバチョフの引退は地球全体の根本的変化をあらかじめ決定したもので、そもそもこの人物がどのようにして権力に就いたのか、それを回顧する時が到来した。
(オゴニョ−ク、34、アンドレイ・グラチョフ:国際ジャ−ナリスト、旧ソ連共産党中央委員会勤務、中央委員会国際部副部長、ミハイル・ゴルバチョフソ連大統領報道官、現在パリ在住、著書「ゴルバチョフ」は“ヴァギルウス”出版から近々刊行)
39歳の時、国家経済貢献度から見て最大戦略地域、スタヴロポリ地方(面積的には、ベルギ−、スイス、ルクセンブルグ三つを合わせたに等しい)の最年少指導者の一人となり、ゴルバチョフ本人にとってこれはまったく新しい境遇であった。
ゴルバチョフがこの党幹部ポストについた時、ブレジネフと各第一書記との関係は、彼らが唯一誇張した盲従関係ではなかった。その著「マ−ラヤ・ゼムリャ」、「復活」、優秀な軍指導者称賛の合唱までにはまだ10年あり、そうした関係はほぼ双方のメリットの上に構築されていた。書記長の好意は各書記の安泰ばかりか、その州全体にとっても死活にかかわるほど必要であったことは明らかである。だがブレジネフ本人も、70年代初めは、ゴルバチョフが回顧しているように、まだ“滑稽物”ではなく、コスイギン首相を失脚させる機敏な闘争のため、彼個人に忠誠する中央委員の支持が必要であった。それはN.ポドゴルヌイを更迭した後、“集団指導”の名の下でN.フルショフを解任した“トロイカ”を彷彿させる不適当な存在であった。
クラコフは彼にゴルバチョフをはっきりと推薦した。それも地方の有望な指導者としてだけではなく、当然のことながら、書記長が安心して任せることのできる、中央委員会における“ブレジネフ派”部隊の保証つき貴重な補充兵として推薦した。このことは、スタ−ラヤ広場にある執務室で数時間ものんびりした会話に時間を割いた、若き出世候補にたいするブレジネフの関心や、信頼しきった調子や、ほぼ対等であらゆること、経済問題や人事問題、外交問題さえも話し合おうとし、話し相手の好感をあからさまに得ようとした、そうしたことなどから大方見当がつく。書記長のもとで微妙なすり合わせをして、彼を中央委員、第一書記の特権階級に組み入れ儀式を行い、ブレジュネフの個人親衛隊の新人“募集”作戦は完了した。それはクラコフの合図で必要な場合、ブレジネフの立場を補強するため、総会で演説し、コスイギン政府を批判するという、クラコフに幽閉された“迅速行動グル−プ”の一員となることであった(後にゴルバチョフはリガチョフと協力して、彼個人を書記長ポストに選出する問題が多くの点で中央委員過半数支持にかかっている時、この検証済みのやり方を再現する)。誰にも明らかな“支持グル−プ”一員任命セレモニ−をミハイルは、グラスいっぱいに注がれたウオッカの一気飲みを拒否し、台無しにしたので、全員に警戒心を抱かせたが、書記長との親密な会話のことを話して、自分に向けられた政治的疑いを払拭した。
なにしろF.クラコフがそれまで、彼には“壁をぶち破る”能力がると認めているように、彼はエネルギッシュに仕事にとりかかった。特記すべきは、“収穫高”や“家畜数”、“養鶏産業”のための終りなき戦いは、実は悪天候条件にたいしてというより、全天候型体制に逆らって展開された。ゴルバチョフは自己が担当する前線で突破口作りに何度となく成功した。
ゴルバチョフには、“保養地”書記出身の他の同僚と同様に、ソヴィエト体制の切り札そのものが手に転がり込んだ。彼のいるスタヴォロポリ、そこにあるミンヴォデイの保養地や山間部ドンバイには、例えばリガチョフのいるトムスクや、エリツインのいるスヴェルドロフスク、また神も見捨てたビャトカ地方やノリリスク地方は言うまでもないが、そうした地方より党幹部が頻繁に訪れた。党幹部の接待やサ−ビスでゴルバチョフのライバルとなったのは、クリミア出身者であり、中でも最大のライバルはソチの保養所のあるクラスノダル地方委員会書記S.メドウノフであった。黒海沿岸がもたらした政治的“メリット”を彼は十分利用した。彼の出すごちそう、パ−テイ−、サウナ風呂のため、党と国家最高幹部のほとんどが(家族連れで)、定期的訪れた。彼らはクラスノダル地方を離れる時は豪華な土産をもらい、自分の邸宅のようにサ−ビスする接待係りの書記に党の調査や刑事事件から彼を守る強固な保護壁を作り出した。
ゴルバチョフの来客はそれとは違った。ミンヴォデイには気晴らしの酒宴というより、治療のためであった。そして政治局員が高齢化するにつれて、彼らとその取り巻き、様々な大臣が彼のところにちょくちょく訪れるようになった。ゴルバチョフが様々な創意と経済実験のおかげで有望な地方指導者の一人になったとすれば、M.ス−スロフやA.コスイギン、D.ウスチノフ、IU.アンドロポフ、N.バイバコフのような当時の政界重要人物と接触できたことは、ミンヴァデイやドンバイ(閣僚会議議長A.コスイギンはここでの休暇が好きであった)によるところが多かった。
レセプション専門の書記や尊大な書記は休暇中職場から解放される。こうした人々は文字通りそして精神的にも、“民間人の服”に着替え、より気さくになり、儀式ばった交際の枠の外に喜んで出て行った。程度の差こそあれ若干病気もちの人々は、クラスノダルの来客のように、底抜け酒宴やコモソモ−ルの可愛い女性活動家とのサウナの楽しみは期待しておらず、長い間の国の仕事で倦怠した日常を忘れ、現実から離れたことを考えたいと欲していた。そうしたことによっても、党国家幹部と非公式で打ち解けた話ができた。ゴルバチョフも、ライサもこうした意味では彼らにとって理想的な話し相手であった。とは言え、ライサ夫人はその回顧録でスタヴォロポリでのモスクワ幹部の接待はやっかいな勤めと回想し、家族にとってこうした接待は“高いもの”についたと述べている。まさにこの時からゴルバチョフ夫妻はポスト・ブレジネフ体制の多くの大物政治家と知己になり、家族同士も仲良くなった。
若い教養ある夫妻のいるところで、実質的にその人生の大半で正常な人間的交際を奪われている、こうした人々は“ネクタイを外し”、“くつろぎ”、だいぶ昔に忘れていたか、それともたんに側近が気づかなかったその正体を曝け出した。そうやってゴルバチョフ夫妻はユ−リ・ウラジミロヴィチ・アンドロポフが詩だけを書くのではなく、膨大な数のコサック民謡を記憶しているし、それを歌うのが好きであった、そうしたことを知ることができた。“やせっぽち”なコスイギンは、初老にもかかわらずフォクストロットやタンゴを上手に踊った。ある話の最中、コスイギンは目に涙をうかべ話したことがある。11月7日レ−ニン廟の壇上に他のソヴィエト幹部と一緒に姿を見せるために、重病で入院中の妻のもとを離れた。そして彼が出かけている時、妻は亡くなった。そのことでどうしても自分が許せないというのだ。
まだ半ば昏睡状態に陥る前、ブレジネフも彼に好意を示していた。各政治局員に自分のメモを渡し、農業総会の前で自分の支持を約束してみせ、政治局会議では「ひとたび、創意旺盛な若手を登用したら、それを支持すべきではないか」とかなり意味深いことを述べている。しかし書記長が老いぼれてくると、“下から”上がってくる考えに関心を示さなくなった。さらに首相との闘いで自己の絶対的権威が最終的に承認されると、先に触れた“迅速行動支持グル−プ”も彼にとっては以前ほどの価値はなかった。
自分の“お気に入り”にたいするブレジネフの関心が薄くなったと感じた党内エスタブリッシュメントは、“成り上がり者”をたしなめようとした。ゴルバチョフは“せかせか動き回る”意味のないことをはっきりと思い知らされ、中央委員会“最後列”のカテゴリに見せつけるように押し戻された。スタヴロポリ地方委員会第一書記の八年間、彼は毎回論争に立派に参加申し入れするが、中央委員会総会の演説権利をさずかることは一度もなかった。「常に何を発言するか前もって分かっている、ロストフ、サラトフ、チュメニの書記には“間違いなく”発言が許された」と彼はこぼした。
ブレジネフ側近がよそ者と嗅ぎつけた“非典型的”なスタヴロポリ人には、他の方面からも難癖がつけられた。当時絶対権力誇る内務大臣でブレジネフ一族の友人N.シェロコフは“おとしいれ”を始めかけていた。ゴルバチョフは彼の部下の勝手なやり方でシェロコフと対立状態であった。ある信頼できる話によると、「ゴルバチョフは殲滅する必要がある」と彼は側近に漏らしたことがある。
ブレジネフはみるみる間に衰え、ストイックなアンドロポフの時代が迫っていた。一方ゴルバチョフは未来の書記長には明らかに目をかけられ、中央委員会の後部座席から前列の席に移動するチャンスが到来していた。
ソ連共産党書記F.クラコフは自分の側近の中で際立つ新しい席に目をつけていた。彼自身も、それまでは政治局の最も若い一員であったが、代々伝わる書記長の椅子に自分が将来すわる考えで“ひと勝負”かける力は十分あった。きわめてかすかな展望であるにせよ、このためには自分のグル−プを作り始める必要があった。そして彼に多くの借りがあるゴルバチョフはここで中心的役割をはたすはずであった。ところがこの人物は政治教員であるのにせよ、決定権は神にあるとただ期待するだけで精一杯であった。
クラコフが自分の“後継者”を送り込んだ後、彼がまだ出来た最大なことは、クレムリン首脳部の中で自分のポストを彼に禅譲することであった。これには彼を自由にする必要があった。それは、数日してクラコフが宿命的であった“体制違反”した後、自分の執務室で急逝したことにより、なされた。神聖な場所が空席となり、ゴルバチョフは全てにとっても、本人自身にとっても突然、そのポストの候補者となった。
ちなみに政治局会議は、全員にとってしばしば、面倒な儀式となっていた。全ての審議手続き(正確に言えば、賛成手続き)は、出席者がサ−ビス精神旺盛に「すべて明白だ」と叫び、終わらせることも珍しいことではなかった。形式上しばしば招かれた各省庁の幹部はしり込みしたと、ゴルバチョフは回顧している。何らかの議題が半ば衰弱した状態にある書記長の関心を惹くと、その審議は書記長の周りに座る“最古参”の政治局員同士の意味不明瞭なやりとりとなり、その中身はテ−ブルの端にいるものに把握することはできなかった。ブレジネフが“軽い病”にかかると、グラノフスキ−通りの病院には彼専用の応接間が用意された。手続きを省くため頻繁に例のチェルネンコも、彼の名で承認を求める政治局文書を政治局員に配り、その後で開かれなかった会議の議事録に病身の指導者のあいまいなサインを付けて、法的効力のある政令を発布していた。
スタ−リン時代、最もエネルギッシュで野心的な体制の申し子は、新たな空席ポストを用意した定期的な“粛清”と弾圧により出世したが、停滞した時代には出世のチャンスを待つのは、数十年を要した。それでも、ゴルバチョフの回顧によると、「私も、私の同僚も、当時体制の危機として全体の状況を見ていなかった」。多くのものには、国内問題はかなり以前から機は熟していたが、ブレジネフやその側近を引退させれば、比較的早く、スム−ズに解決できると考えていた。
事実、ゴルバチョフが望みどおりの反応を期待して、アンドロポフが“ミンヴォデイ”で休暇中にそのことを口にだしかけた時、彼はその若い同郷人を厳しくたしなめ、ノ−メンクラトウ−ラの賢明さを諭した。「ブレジネフを支持する必要があるよ、ミハイル、これは党と国家の安定、さらに国際的な安定の問題だ」
政治局の“ごく限られた”メンバ−の机に党人事担当の中央委員会書記I.V.カプトノフがF.D.クラコフの後継者として可能な者の名簿(ゴルバチョフの他に、そこにはクラスノダル地方委員会第一書記S.F.メドウノフ、ポルトヴァのF.T.モルグウンも入っていた)を配布すると、政治局の“大公”たちは、躊躇せずにスタヴロポリ出身者を選択した。
最高政治幹部への昇進手続きには、シンボリックなものであるにせよ、それでも“お見合い”が必要であった。彼らにとって口実がそれこそうってつけに現れた。ブレジネフがだいぶ以前から約束し、自分のお気に入りの一人、アゼルバイジャンのガイダル・アリエフのところに訪問に出かけた。特別列車の進路は“ミンヴォデイ”経由であり、地方幹部との形式的な交流にせよ、道中当然停止し、そうした儀式を予定していた。スタヴロポリの幹部とともに、“ミンヴォデイ”で休暇中のアンドロポフもブレジネフに挨拶するため出かけてきた。ひょっとしたら、彼こそ“お見合い”という舞台演出家の一人であったのかもしれない。彼はゴルバチョフを後押し、自分の力でハッピ−エンドにするため、レセプションに参加した。
“ミンヴォデイ”駅の出会いそのものは、後になって見ると、かなり神がかったものであった。列車の停車中、プラットフォ−ムにはソ連共産党中央委員会の四人の書記長が一堂に会した。それは現書記長と未来の三人の書記長である。ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコ、ゴルバチョフであった。さらに駅に向かう車中ではユ−リ・ウラジ−ミロヴィッチ(アンドロポフ)は、あたかも“自分の子分”をせっつくように、「話題を奪え」と説き聞かせていた。だが“奪う”ものはなにもなかった。いかなる会話もなかった。かなり遠ざけられた取り巻きを伴い、四人はプラットフォ−ムをぶらぶら散歩した。ブレジネフは、ゴルバチョフのお決まりの“報告”をぼんやりと聞きながら、ほとんど何の反応も示さず、列車の手すりをつかむと、突然随行者の誰かに向かって「ところで話はどうなっている」と聞いた。ゴルバチョフは最初何も分からず、書記長がバク−で予定している演説のことをさしていのかと思った。後で分かったことだが、ブレジネフは脳卒中後、しばらくの間、言語障害が起こり、周囲のものが彼を理解しているのか、まったく自信をもてなくなっていた。早くも中央委員会総会で満場一致承認された後(通常、書記長が推挙すると、誰からも疑問を起きなかった)、職務意欲満々の新書記は、仕事の基本方向を話し合うため、書記長にしつこく頼み込んで面会した。話し合いは、駅のプラットフォ−ム以上に内容のあるものとはならなかった。彼は執拗な新人の話を終りまで黙って聞くと、明らかに当面のことより将来のことを考えながら、たった一言呟いた。「クラコフは惜しいことした」
<ミ−シャ、事をせくな>
新書記の生活でゴルバチョフに待っていたものは、彼に付けられた個人警備員であり、玄関で待つ公用車「ジル」であり、スタ−ヤラ広場にある応接間と休憩室のある広い執務室であった。中央委員会総会から戻るまでには、新しい主人の扉には、そうした人物には暗黙の儀式が必要なように、彼の名入りプレ−トが目立つところに貼られることになっていた。“書記の持ち物”にはさらに、モスクワの住宅、警備当局と同じ官庁に勤務している躾の良いメイド、二人の交代当直書記官、一ニ名のアシスタント、病院、療養所を持つ保健省付属の有名な第四管理本部、“クレムリンセット”と言われる食堂、当時の常識ではほとんど奇跡に近い食品を揃えた売店が付いていた。
国有別荘の雰囲気は兵舎の空気そのものであり、その住民は巨大国家の支配者と見なされたとはいえ、事実上直属の護衛隊により隔離されていた。多少とも個人的な秘密話は、別荘の周りの道を散歩した時や、護衛で“密着”している護衛隊が遠慮してかなり離れた位置にいる休暇の時行われたことも偶然なことではない。中央委員会の執務室でも、デリケ−トな問題の意見交換は、中央委員会書記間でもメモ交換の方法がとられた。その結果、党の大御所の仲間入りし、それにより多くの専従党職員最大の夢を実現したゴルバチョフだが、彼本人によると、スタヴロ−ポリにいた時より自由が少なくなったと感じたのである。
さらに大きな病的な異変をライサ夫人は体験することになる。それはおそらく、彼女がモスクワに戻ることに特別な期待を抱いていたせいかもしれない。亭主の出世に自分の専門性や教師としての仕事を犠牲にしていた彼女は当初、何か仕事が見つかると期待していた。こうした活動的、自発的、そしてとりわけ若い婦人の出現、それ自体彼女が入った世界にとっては挑戦であったが、中央委員会の“貴婦人”の間ではきわめて説得力あるアレルギ−となった。田舎出の女は、まさにその文字通りの意味で用意された場所にただちに配置する必要があった。初期の頃のパ−テイ−でも、モスクワのやり方の疎い上品なライサ夫人は亭主の地位から見て相応しくない場所にいると、キリレンコの妻はすかさずそれを指摘した。お仕置きをうけ唖然としたライサ夫人はその後で当惑しながら亭主に「この人たちはどういう人たちなの」と訊ねた。
ゴルバチョフ本人もクレムリンの習慣について、実際さほど侮辱的ではないが、それなりに教えられた。と言うのも、そうした訓戒は彼に好意をもつアンドロポフから出たものであったからだ。モスクワに居を構えて間もなく、ゴルバチョフは幹部の一人としてアンドロポフ夫妻を客に招待した。彼は長い間親しい関係であったので、こうしたことは当然のことを考えていた。驚いたことに、アンドロポフは断っただけでなく、自分の“子分”に訓戒を述べた。彼らの関係は現在では公式な性格があり、“正式に決められた以外”に会うことは、不必要な粗探しのたねになるかもしれないと、説明した。「私はまだどうにかお前のところに出かけるよ(彼はゴルバチョフ夫妻の隣の別荘に住んでいた)。だが何もかも全てブレジネフには報告される。」と、KGB議長は仕事を熟知した調子で語った。
さらに価値ある一つのアドバイスを彼はしている。今度は政治的なものである。それは、当時ほとんど公然となっていたコスイギンとブレジネフの隠れた勢力争いでは、自分の立場をよりはっきりさせる必要があるというものであった。党の“将軍”に昇進するにはさらに働く必要があった。ある意味ではコスイギン自身がゴルバチョフの手助けをしたことになる。当時彼はいつのもドライなやり方で中央委員会の新書記が求めた農業部門向け追加予算について批判した。この部門発展に人生の大半を捧げていたので、これは資金の無駄使いと考え、彼は国家の介入によりコルホ−ズを底上げする考えには懐疑的であった。ゴルバチョフは世襲農民のように、中央委員会のこの分野の責任者として追加予算獲得のため、彼と論争した。
やがて彼らの間では、他の政治局員のいる前で直接の衝突も起きた。首相のいつもの意地悪い指摘にたいし、ゴルバチョフはいきりたち、分不相応にも党機関のかわりに、政府機関の力により現場で収穫することを彼に提案した。政治局最長老の一人にたいし公然の挑戦は、出席者に包囲される形となった。しかし後に分かったことだが、ブレジネフはその反撃対象も主題も正確に選択していた。党機関を擁護したのだ。ブレジネフははっきりと彼を支持した。「アレクセイ、あなた、いずれにしても収穫についてはあまり精通していない」 ゴルバチョフはこの出来事をとても気にしていた。と言うのも、彼はコスイギンを尊敬していたし、かつてスタヴロポリ時代にどうやら培われた、そうした個人的関係を貴重なものと考えていた。もっとも、コスイギンは直に、自ら率先して和解するため、彼に電話をしている。
ベテランの党官僚にとっては、ゴルバチョフの行動は書記長にたいする個人的忠誠心を公然と誇示したものと解釈された。このエピソ−ドの直後、瞬時に状況を見極めた組織部は、政治局員選出にあたり、農村担当の中央委員会書記を候補にあげた。ただ慎重なス−スロフだけが、準政治局員の資格にとどめることが彼のためと考え、スタヴロポリ出身者を少し手控えさせた。
1982年1月25日、M.A.ス−スロフは死んだ。不滅のものと思われた政治局の一枚岩にすぐに亀裂が生じた。党指導部2の実力者、“キングメ−カ”、ブレジネフを権力の座につけ、その維持を保証していたような人物が確かに去ったのである。ス−スロフの死は、他の政治局員や同年代の者に地上に存在することの無常感を与えたが、しかしそれだけでなく書記長の後継者問題を引き起こした。
ブリッジにいる船長に交代が起きても、唯一正しい船の航路に影響してはならなかった。現実にはこれは、第一書記あるいは書記長のポストは自動的に2に引き継がれるが、交代そのものは国を騒乱させず、張りつめた労働から国民の気をそらさないように最短期間で行うことを意味した。これは実際理屈からすると、利害と野心の真っ向から衝突、言い換えると将来の権力闘争のことだが、それは党内公認の2、ス−スロフの後継者決定をめぐり展開されることを意味した。それ故にこそ、80年代この“忠実なレ−ニン主義者”の死は、この訃報で悲しむ他の劣らず忠実なレ−ニン主義者の間で激しい電話合戦となった。
このすぐ後でゴルバチョフにアンドロポフは電話し(モスクワに移り住んでから、彼らは実際毎日のように話をしていた)、グロムイコが突然電話してきたことを話した。「ミ−シャ、彼が私に何を求めたか、分かるか。彼をイデオロギ−担当の書記にするようブレジネフと話してくれと頼んできた。ス−スロフは彼と同じく、国際問題を担当していた、だから彼の分野はうまく処理できると....。」 「それで何と答えましたか」とゴルバチョフはたずねた。「アンドレイ、分かっているだろうが、これは書記長の問題だ」「天才的な回答ですね、ユ−リ・ウラジ−ミロヴィッチ!」とゴルバチョフは声を張り上げた。書記長執務室から彼にとって望ましい方向に吹き出した弱い風をつかまえ、アンドロポフはス−スロフ死の直後、レ−ニン生誕日記念の伝統的集会で演説するよう彼に提案されたことを熱い思いで受けとめた。
演説者に選ばれたことを知ると、ゴルバチョフはすかさずアンドロポフに祝いを述べた。「2書記問題は決まったと解釈しています、どうですユ−リ・ウラジ−ミロヴィッチ」「ミ−シャ、事は急くものではないよ」と、人生のほとんどを待ちの状態で過ごしたアンドロポフはこたえた。政治局の“地位では最下位”であるが、しかしそれ故に 明らかに将来の新たな権力ゲ−ムのメンバ−となったゴルバチョフは、自分の後見人が中央委員会ビルの第一番目玄関のある五階に引越しする、その興奮を隠そうとはしなかった。「貴方はこのポストを辞退できません」と、先輩同志にむかって主張した。当の本人は辞退などする気はなかったが、こうした発言を聞くのは気持ちよかった。“友情”、彼らの明らかに特殊な関係を表現する上でこうした言葉を用いることができるにしても、一見それでは説明できるものではなかった。ましてや、年齢差や、そもそも最初からある、党機関の尺度から見て、ほとんど越えがたい政治局員と地方の党書記の距離、それに較べようのない人生経験、そうしたものを考えるとなおさらである。若い同郷人にたいするKGBボスの個人的弱みや、キスロヴォツカで彼を接待した、のみこみが早く愛想のよい“保養地書記”に好感をもっているせいだと見るのは真面目な態度ではない。保養地に養生にくる党のお偉方にまといつき、あらゆる接待をしようと前もって準備していた、こうした“同郷人”はどれほどいたことだろうか。何かもっと本質的なものが、こうした異なる二人を親密にさせた。
あるはっきりとした打算がゴルバチョフにあったとも思えない。アンドロポフの禁欲的な性格、こうした問題では厳格である性格は広く知られているところであり、その上ゴルバチョフの出世に直接影響力をもたないKGB議長が彼の昇進を実際後押しすることはできなかったであろう。おそらくその反対だろう。世代も関心事もかけ離れている、こうした非凡な二人の元々の疎遠性が彼らを引き合わせたにちがいない。彼らは1969年に知り合った。当時にスタヴロポリの第一書記L.エフレモフは、クスロヴォツクに第二書記を派遣した。これにはお決まりの使命があり、それは休養中の政治局員に敬意を表明し、形式的に地方の仕事について報告し、形式的な質問に答えるためのものであった。自分でも驚いたことに彼は、おそらくソヴィエト僻地問題に成り行き上疎遠であるせいかもしれないが、それについてしつこく根掘り葉掘りたずねだす、そうした人間に出会った。
彼らは、スタヴロポリ領内だけは“けしてモスクワ”でなかったとはいえ、しだいに定期的に個人的に会うようになった、とゴルバチョフは証言している。彼らは長いこと、二人だけであるいは家族一緒に散歩し、野外に出かけたり、ピクニックに出かけたり、そうして時に“酒を飲み、歌をうたった”かもしれないし、ドミノゲ−ムをしたりした。(さらにアンドロポフは、彼ら二人組み、他の者を敵としてゲ−ムする、そうするように常に言い張った) そしてヴィズボルやヴイソツキ−の歌を聞いたりした。勿論、“何もかも話し合った”。家族同士で出かけたある時、アンドロポフは学生に取り囲まれた環境に興味をもち、三時間ぐらいしつこくプロの社会学者であるライサ夫人に質問したことがあった。この時、全員彼らの邪魔にならないよう、ゴルバチョフも含め聞き役に回った。
しかしゴルバチョフとの交際にたいする彼の知的、実利的関心とは、地方で彼が発見した党の天才にたいし、あからさまでほとんど親族にたいするような愛着心、そうしたものでけして説明できるものではない。すでに当時ゴルバチョフは自分の個人的資質や開放的な性格ばかりではなく、出身や学歴、経歴により、アンドロポフ自身が熱心に強化に励んできた体制の模範的見本をあたかも体現していたことにもよるかもしれない。
この明らかに肥大化した体制の指導者たちは、その生涯にかかわることがどうなるか、無関心なわけはなく、若くエネルギッシュで彼ら以上に教養があり、その上この体制の合理性とその潜在的可能性を確信している、そうした後継者の存在を夢見たにちがいない。まさにこうした“若木”こそが、彼らから見れば期待を具現化し、費やした労力だけでなく、アンドロポフのような“党の兵士”の人生の中心にあった本来の願望と良心を裏切ったこと、そのことも正当化することになっていた。おそらくまさにこうした理由により、あたかも自分の弟子があまりにも早く失望しないようにその交際の間ずっと、彼は国家活動の“闇”の側面、つまり彼が任務として管理したKGBの警察機能についてはほとんど触れることはなかった。「彼は天使でもないし、彼のオフィスは幼稚園でなかったことは、たしかに知っていた」とゴルバチョフは認めている。
モスクワでの彼らの交際は公式的なものとなり、そこにはピクニックも、ヴィソツキ−の歌も、家族同士のつきあいもなかった。ましてやドミノゲ−ムなどなく、アンドロポフがKGBの責任者の時は電話で連絡し合い、中央委員会に移ってからは正規に会って話をした。ゴルバチョフは時々、日に何時間か自分の執務室で過ごすことがあった。性格も手法も異なる二人の政治家のこの“独特の職場のロマンス”を振り返ると、歴史の皮肉にただ驚かされるかもしれない。アンドロポフは体制の敵や反対者を探し、しばしば最も厳しいやり方で彼らの活動を芽のうちに摘み、そうして仕事の時間を過ごし、休暇の時は、幼年時見舞われた数々の不幸から逃れたヘラクレスのように、指定時間になると自己の歴史的偉業を開始するはずである、おそらく比類ない真に有能な反体制者を自分の後継者として教育し、訓練し、育て上げた。
ソ連邦が崩壊し数年後、KGB長官の後の一人、V.A.クリュチコフに質問したことがあった。「党の隊列にこっそり潜り込み、ワシントンと呼応して“ソ連邦を計画的に崩壊”させる、そうした人物を“裏切り者”と長官自身が呼んでいたが、どこにでも介入する組織がそうした人物を見落としたということはどうしたことか」と質問されると、「はっきりした根拠があったとしても、ソ連邦中央委員会書記長の逮捕は我々にはできなかった。(と言っても、91年8月ソ連邦大統領は実際逮捕されている) しかし、ゴルバチョフと党・国家指導部にいた彼の共犯者が手にした行動の自由は、我々職務の大きな手落ちであったと見なすことができると思う」と彼は答えている。
おそらく当時政治局員の一人、A.キリレンコだけが関係なかったのかもしれない。党機関のこの長老は、“若僧の書記”の自由な振る舞いや、ゴルバチョフ本人も認める、年上の者にたいし敬意をもって相槌を打つことが“感覚的に出来ない”こと、そうしたことで激怒していた。もちろんのこと、ある時ゴルバチョフが彼とした会話で、彼がアンドロポフのように哲学的な態度をとったとは想像し難い。「たしかにあなたも、あなたの同年代者も永遠ではない。誰にあなたは党と国をゆだねるつもりですか」 しかしたいていの場合、こうした直截性や振る舞いは、急激に老いぼれた幹部には強い印象を与え、 老人の感動となり、また後継者問題を思案している者には、こうしたエネルギッシュで待ちにまった後継ぎが育ったので、バトンを渡すべき相手が存在すると確信をもつようになった。
全体として見れば、この英雄は“党のお気に入り”としたレ-ニンのN.ブハ−リン評価に近いかもしれない。ゴルバチョフの党内格付けは80年代初めきわめて高く、組織本部が彼の登録書を定期的に“取り出し”、中央本部の指導で利用するよう提案したほどであった。人事課職員は彼のアンケ-トには常に法律の知識が見られるとわかり、提案は主に法律分野となった。彼をソ連邦の検事総長にしようとしたり、最高裁判所の長官にしようとしたりした。しかし何故かどれも決まることはなかった。ある時、ゴルバチョフにプロパガンダ部長のポストが提案された時、“きりもり”していたキリレンコは、「またゴルバチョフか。手っ取り早いやり方だな!彼は後で、別のことで必要なのだ」とぶつくさ不満を述べた。
まさに彼を必要としたのは、最早キリレンコではなく、1982年11月危篤のブレジネフのポストに就いたアンドロポフであった。早くも12月になると、アンドロポフはキリレンコの名で辞表を書き(当人は既にこのことに抵抗する力はなかった)、ゴルバチョフと入れ替え、K.チェルネンコに次ぐ“第二番目”の書記に事実上仕立てた。この地位は長年の間、キリレンコのものであった。
アンドロポフの政治アシスタントとして、また事実上第二番目の書記として働いた期間は、たった数ヶ月であった。中央委員会にまだいたある時(晩年はすでに病院で会っていた)アンドロポフは「ミハイル、何事も深く考えるようにしなさい。そして全ての責任をとることになったら、とくかく行動しなさい」と述べた。こうした話し合いは1983年夏、書記長の健康が急激に悪化するまで続けられた。もちろん、彼の人生において新たなステップがそんなに早く来るとは思ってはいなかった。
アンドロポフは1984年2月に逝去した。おそらく夢は実現できず、党と国家の指導部に信頼に足る人物をうまく残せなかったかもしれない。この意味ではブレジネフのほうが責任をもって、実のある行動をした。けれでも、アンドロポフが最高権力の座に束の間座ったことによる最大の成果は、国の指導部に新しい世代が入ったこと、これは否定できない。ゴルバチョフのまわりに考え方はかなり異なるが、リガチェフやルイシコフからヤコヴレフといったそうした人々を集め、この外見が陰気で慎重な人物は、ブレジネフ主義ときっぱりと決裂する考えをもち、最早過去の荷物とその責任が無いことにより、彼本人よりはるか遠くに進むことのできる人たちに最初のきっかけを与えた。
K.チェルネンコが書記長に選出されると、政治局におけるゴルバチョフの立場は一気に複雑化した。アンドロポフが彼に“贈与”した、書記局を牛耳る権利は、公然非公然に異議が唱えられるようになり、彼の将来も再び不確かなものとなった。
書記長のあからさまな後押しの中で反撃の筆頭はN.チホノフであった。その後に続いたのが、V.グリシン、G.ロマノフ、V.ドルギフ、M.ジミャニンであった。チェルネンコの芳しくない健康状態を理解したこの精鋭部隊は、将来の決戦のため、つまり次期書記長をめぐる戦いの橋頭堡を確保するために、出来る限り早くアンドロポフの門弟を追放しようとした。ところがこの筋金入りブレジネフ一派の部隊には司令官に問題があった。チェルネンコは“決定的な話し合い”をするため、何度かゴルバチョフを呼び出したが、いつも尻込みし、政治局会議で彼にたいする苦情の検討を求めるのが精一杯であった。最終的には最初の反ゴルバチョフ“ミニク−デタ−”は、D.ウスチノフが自分の威光で抑え込んだ。彼は悪名高い“狭い世界”の古参の一人として、書記局運営からゴルバチョフを追放しようとする目下の試みを知ると、個人的話し合いをするため書記長のところに行った。その後で“問題は収拾した”とゴルバチョフに伝えた。
式典前夜
あれやこれやの理由をつけて半死の書記長は、政治局会議を仕切る権利を誰であろうと正式禅譲することは執拗に拒んだ。彼は車で運ばれ、会議室に運び込まれ、配布された書類の前に座らされ、政治局員を入場させる、そうしたところまで事態は進んでいた。別の例で言えば最早最後の段階だが、補佐の誰かがゴルバチョフに電話をし、チェルネンコに成り代わってその代行をしてくれと頼み込んだこともあった。第四課責任者E.チャゾフの情報のおかげでチェルネンコの現実の状態がはっきり想像できたので、ゴルバチョフは万一に備え各々の会議に臨んだが、書記長やその周辺のせこい陰謀には立腹しないわけにはいかなかった。
おそらく事実上召集されたイデオロギ−問題代表者会議、ここでゴルバチョフは自分の真価を示したり、差し迫った葬式ではなく体制には別の展望があると証明したり、そうしたことを期待し、党の中心イデオロ−グとして活動報告演説の準備をしていたが、1984年末この会議を中止しようとしたことは、これもまたチェルネンコを“表に出さない”とする試みのせいである。ブレジネフ一族のこうした攻撃も撃退すると、ゴルバチョフは確信をもって会議を遂行し、報告の中で自分の将来政治について若干の方向を初めて示した(彼の報告はプラウダ紙の大幅に縮小し掲載された)。その後おそらく、最後の力と抵抗の意志を失ったチェルネンコは、ゴルバチョフがかつての党最高イデオロ−グの執務室に引越しすることをついに認めた。
しかし書記長本人は降伏したが、彼に最も近い戦友たちは終局を前に投降しようとはしなかった。死に瀕している老人は、病院にいても静かに過ごすことはできなかった。モスクワ市委員会第一書記V.グリシンは、最高会議選挙の投票をチェルネンコに演出させ、数日して彼の手から議員証を受け取ることをやらせた。この冒涜的芝居の演出家はこうしたやり方で去り行く書記長の後継者として自分を承認してもらうと期待していた。
当然のことだが、(当時国家が関与した全ての国葬を寄せ集めると)テレビシリ−ズ化した党幹部の死は、体制の断末魔の苦悶へ向かって行進が始まったことを意味した。権力の新たな移動は政治騒動となり、それに関わる者ばかりか、体制そのものの威信失墜となると懸念し、ソヴィエトノ−メンクラトウ−ラのいくつかの“ファミリ−”は、老化した体内の血管に新鮮な血液を注ぎこめる、彼らにとって最も有望と思われる人物を王位につけようとし始めた。彼らの選んだ人物がゴルバチョフであったことは、きわめて自然なことであった。
さまざまな党国家エリ−ト族、つまり州委員会書記、閣僚、軍高官から学界出身のリベラリストにいたるまで、根本的に異なるばかりか、ほとんど相容れない願望と新たなリ−ダ像とを結びつけていた。それでも自分の今後の運命に不安なことで団結している彼らは、その活動方針よりむしろ容貌や年齢で袋小路からの脱出に期待を抱かせる人物を共同で支持する意向であった。
政治局内も情勢も不安定なものとなった。ブレジネフ時代、基本的決定を下していた政治局員の“狭い世界”の中で生きていたのは、一人A.A.グロムイコだけであった。それ故こうした状況の中では、彼の意見は決定的瞬間にチェスの勝負結果を左右しかねないようなものであった。まさに彼に直ちにいくつかのグル−プから観測の糸がのばされた。ゴルバチョフ支持グル−プからは、ミスタ−“ニエット(ノ−の意味)”を必要な瞬間にゴルバチョフに“イエス”と言わせようと口説き落とす決意をしたヤコヴレフ、プリマコフ、クリュチコフ、リガチェフなどが接触した。グロムイコの息子を使い接触したの後、次期書記長選出問題は、政治局に提案する準備が整ったと見なすことができた。あとは現書記長を運び出すだけであった。このミッションは自然の成り行きにまかせた。
チャルネンコの死はこうした場合予め決めておいた通りに、アカデミ−会員E.チャゾフが党2のゴルバチョフに直ちに連絡した。彼は政治局に通知するよう指示し、クレムリンに向かった。胡桃材の一室に集合したソヴィエト幹部は、いつものように当面の葬儀準備について話し合った。もちろん、全員の頭の中はまったく別な問題が支配していた。次期書記長の選出はどのように行われるのか。ゴルバチョフが書記長になることは、彼の先までの反対者やライバルも含め、誰しも明らかであった。
無論、ゴルバチョフ本人も、彼の支持者も、政治局員の良識や責任感だけに頼るほどナイ−ブではなかった。それ故予防策がとられた。これについては他ならぬエゴリ・クジミチが第十九回党大会の演説の中で触れた。彼の応接間には1957年のシナリオで奮い立っている“伏兵”、つまり戦闘気分の中央委員会委員、州委員会書記が集合していた。必要となれば彼は連絡がとれる状態にあった。しかし“予備の案”に頼る必要はなかった。政治局会議開始20分前にA.グロムイコと会い、“別のポスト”で一緒に働こうと提案し、ゴルバチョフはブレ−カのスイッチを入れた。回路に電流が流れた。
ただちにゴルバチョフを候補として推薦したグロムイコに続き、忠誠でないと疑われることを避けるため、最後の瞬間までゴルバチョフの書記長ポスト就任阻止を目論んだ人物、N.チホノフとV.グリシンは前言を翻した。残りのものはその後を列になって続いた。
アンドレイ・グラチェフ