ロシア最新ニュ−ス
2001年4月分履歴
4月28日(土)
“日本、ペレストロイカに直面”
-日本、経済の奇跡終焉の懸念-
(独立新聞、4月25日、ヴャチェスラフ・バンチン:“ノ−ヴォスチ”通信日本特派員)
「八年前、ベンツの豪華新車に乗り、月平均3万ドル稼いでいたが、今ではつつましくトヨタの中古小型車で満足するしかない。月に8〜9千ドル売り上げるのがやっとです」と語るのは、東京にある従業員3人の小企業、46歳社長のである。彼を襲った不幸について、この経営者は日本を震撼させた経済後退のせいだと見ており、こうしたことで多くの企業は厳しい節約措置をとらざるえなくなっている。
90年代はじめ、経済の混乱がまだ始まった頃、これを景気の悪化と呼び、じきに全てうまく行くと、断定的に予想していた。1997年〜1998年頃になると、いくつかの巨大金融機関や銀行を倒産させた厳しい銀行・金融危機が日本を驚愕させ、日本人の楽観論は明らかに減少した。経済状況は“長引く停滞”として説明されるようになった。現在、二十一世紀のはじめ、春の晴れた日、3月8日先ず財務大臣宮沢喜一は、未曾有の財政危機が国を脅かしている、そう警告して国民を驚かせた。数週間後政府は、日本は不況にあり、戦後初めてデフレ−ションという怖い病にかかっていると、早くも認めることとなった。
「デフレ−ション、これはすばらしい」、最近どのテレビ局の放送を見てもこうした結論が出てくる。これは「ご覧ください、何もかもなんと安いことか」と同じタイトルでも放送できるものだ。デフレスパイラルは、企業にたいし多くの製品、サ−ビスの価格低下を現実的に余儀なくさせているが、それでも米、肉、魚、野菜、果物、洗剤、ガソリン、公共交通料金といった日常必需品はまったく安くならない。その上、実質的な意味ではこうしたものも値が上がっている。と言うのも、デフレで企業の売上も落ち、それで従業員給与も下がっているからである。将来を不安する人々は日常の支出を切り詰め、銀行口座に少しでも多く残そうとしている。その結果、GDPの約60%を占し、経済の最大牽引車の一つと思われる個人消費は低下し、新しくそして深刻なデフレスパイラルが急速に進行している。
専門家は、90年代はじめから低下する一方の消費需要を維持するために適時に何もしなかったことで、東京を非難している。まさに消費の低下に多くのものは、日本経済の地平線に雷雲立ち込める最大要因があると見ている。その他の否定的現象は全てただ当然の帰結と見なされている。
誰もが、80年代と90年代の狭間に破綻した“バブル”経済が経済混乱の第一要因であることに異議はない。それは10年の間、日本人を喜ばせ、当時高い土地価格を背景に資金は経済の現業部門というより、むしろ有価証券取引に使われ、銀行は不可解な軽率さで不動産を担保に膨大な資金を企業に融資し、企業は融資された資金を生産投資に向けず、証券相場に使ったのである。
積極的な株取引は、強い円を維持するとした1985年の“先進八カ国”の合意によりさらに加速された。これにより、日本の証券市場にたいする実質的な資金集中がその後の五年間で300%も膨れ上がった。しかしそれがどうであろうと、90年代はじめ、“バブル”ははじけ、不良債権という形で銀行に厄介な遺産を残した。その総額は、今32兆円と評価されている。そしてこの問題が解決されないうちは、エコノミストは声をそろえて、どのような措置をとっても、後退と不況期から脱出できないと言っている。
この容易ならぬ課題を解決するため、政府は4月6日、特に半ば公的な株式基金設立を前提とする経済安定措置を発表した。これは、金融クリ−ナの役割、つまり主要銀行にだぶついている不採算性の株式を買い取るためのものである。実際問題となっているのは、大株式所有者が銀行であることを特徴とする日本の所有構造を変え、同時に“不良債権”を帳消しにできる資金をこうした銀行に充填することである。
政府専門家の評価によると、この基金が今後2〜3年のうちに総額3300億ドルの株式を銀行から買い取る。(中断)
4月24日(火)
“その人は永遠に”(完)
-伝説の指導者-
(イズヴェスチヤ、4月21日、ナタリヤ・ポラト、ヴャチェスラフ・シャドロノフ)
2001年4月22日、これは世界革命と全進歩的人々の指導者の誕生日である。一体誰のことだろうか、直ぐには思い浮かばず、誰も、レ−ニン信奉者でさえ調べようとしない。と言うのも、ウラジ−ミル・イリイチ・ウリヤノフという名の歴史上人物はもう跡形もない。思想分野でただ神話的面影が生きているだけである。ペレストロイカの当初、進歩的評論家は“指導者の神格化の破壊”を求めたが、今ではそうしたスロ−ガンも聞かれなくなった。歴史学者を除けば、ロシアを二十世紀の破局に陥れた人物が誰であり、実際どのような人間であったか、誰も関心ない。霊廟からそのミイラを運び出すべきか、あるいはもう少しの間様子を見るべきか、そうした論争だけがある。それもたいして活発でない。
歴史ではよくあることだが、本当の顔が神格化された仮面と一体化している。専門家にとっては、ピョ-トル一世は実際どんな人物であったのか、祖国の救済者であったのか、それとも残忍な人間であったのか、あるいは有能な神経衰弱症者パ−ヴェル1ペトロヴィチはどうして子供が怖がる存在になったのか、そうしたことを解明することは重要なことである。しかし大衆の意識のなかでは、ピョ−トルとパ−ヴェルは天才と悪人という評価なのである。レ−ニンも同じである。ある者は、正義の創造者として見なし、ある者は悪魔のリストに入れている。またある者は、そのイメ−ジを現代化し、新しい流れに合せ、敬虔な信者あるいは中産階級の庇護者であると宣伝しようとしている。そして、こうしたところに、社会健全化の最初の兆しがあるのかもしれない。歴史上人物について口角泡を飛ばして論争されていないことは、その人物に当面、緊急性がなくなったことを意味している。
なによりも面白いのは、「レ−ニンとは誰ですか」と質問すると、サラトフの低学年小学生オレグ・プロニンは「レ−ニンはわが国初代大統領です」と答えていることである。予四年生ナタ−シャ・ヒョドロヴァは少し考えてから、「レ−ニンとは、モスクワにある霊廟の名前です」とのたまわった。スタシク・マトヴェエフ、エリ−ト中学三年生「そんな“若者”しらないよ」と言い、父親に聞くようにとのことだが、父親は「レ−ニンのような人物のおかげで、今日の暮らしが悪いのだ」と答えた。
ヴラデイ−ミル市の小学生はこの世界プロレタリア―トの指導者については若干知っている。ゲナ、6年生、「彼の名は」「ワシリ−と思うけど」と答えた。アンドレイ、一年生「僕のところには本がある、ばら色のやつだ。“イリイチの小学校幼年時代”という題名さ。彼の成績は全て5の評価だって。それに行いが立派だって。それ以上は知らない」ピョ−トル、8年生「レ−ニンですか、学校では何も教えていないよ。もしかしたら、一学年だけかもしれない」 ニコライ、8年生「それ、60年代のソ連の指導者だったと思う。立派な指導者でうまく国をおさめたらしい」 デイマ、1年生「きれいな服を着ていて、誰からも好かれ、良い結婚相手....」 ヴェラ・ボリソヴァ、8歳、二年生「レ−ニンなんて知らない。大統領かもね」
「教育分野には、子供たちがレ−ニンを知る上の資料は十分あります」と、サラロフ州教育省監督局長リュドミ−ラ・サフォノヴァは考えている。「とにかくこれはわが国の歴史なのです。もちろん、すべてこうした資料は以前のようには充実していません。もう学校にはレ−ニンの肖像も、赤のコ−ナもありません。それは最早、奨励も植え付けられてもいません。レ−ニンについてもっと知りたければ、博物館に行けばよろしいわけです」 というわけで、“イズヴェスチヤ”紙記者もそうしたわけです。
ウリヤノフスク市の住民は今でも、レ−ニンの名は商標なのか、それとも呪わしいものなのか、決めかねているかもしれない。いずれにしても、ウリヤノフスク市が国の内外で知られているとすれば、それは世界プロレタリア−ト指導者の記念碑のおかげである。町を訪れる人は誰でも遅かれ早かれ、レ−ニン博物館に行き当たる。
かつてソ連共産党ゴ−リキ−州委員会事務局はレ−ニンの故郷にしようと働きかけたことがあった。その最大の理由は、ウラジ−ミル・イリイチは1870年4月に生まれたが、ウリヤノフ一家はニジニ・ノヴォゴロド市からシンビルスク市に1869年9月に引越しているからである。9ヶ月前を計算基準とすると、レ−ニンの本当の故郷は旧ゴ−リキ−市となる。今となっては、指導者生誕地と考えるシンビルスク市の権利を侵害しようとするものは誰もいない。市名を歴史的な名前に戻す考えでさえ、十年越しで遅れている。ここは作家ゴンチャロフも生まれ、シンビルスクの地主の子、作家カラムジンもいたが、レ−ニンのほうが有名で、ソヴィエト権力は文字通り石一個々がイリイチを証明するように努めたのである。
タチヤナ・ブルイリャエヴァは父に連れられはじめてレ−ニン博物館に来た。
「わたしたちは民間住宅に住んでいますが、とてもレ−ニン館に似ています。それでここに来ますと、自分の家にいる気分になります」
タチヤナ。ミハイロヴナが史学部を卒業し、この記念館の勤務についたことは驚くにはあたらない。現在も勤務している。現在彼女は最近めっきり観光客の関心がない共産主義の殿堂を管理している。しかしまったく関心がなくなったわけではない。
「サイン帳を見ますと、最近の事情がわかります。キリル言語系やラテン言語系の民族にかわり、漢字系の民族が増えています。グサク、ジフコフ、ホネッカ−のサインもあります。ソ連時代の指導者でここに訪れたのは、ブレジネフだけです。エリツインも80年代はじめここに来たと言われますが、彼は中央委員会代表団の一員としてきたので、個人のサインは残っていません。今でしたら物珍しく読まれたでしょうから、残念です」
ところでサイン帳のあるペ−ジには真の告白が書かれている。例えばある教授は「終戦直後小学生の時、博物館を訪れ、いかに一人の人間が歴史の動き全体を転換できるのか、その思いに深く感銘した」と書いている。そうした深い思いが歴史学を学ばせ、やがて教授として講義するようになった。その告白で彼は、自己の人生における使命を自覚し、そのことでこの博物館に感謝している、と書いている。
現在の入館者のほとんどは、子供や立ち寄った有名人であり、また不思議なことに聖務執行者もいる。子供の印象には、きわめて尋常でないものもある。例えば、小学生ヴィクトル・セリャンキンは、記念館訪問の印象を詩の形で表現している。
「僕は博物館に行くところだ。誰に聞いても分からない、レ−ニンはプロレタリア−トの指導者なのか、レ−ニンは天才なのか、それとも悪人なのか、人騒がせな人なのか、僕は思う、レ−ニンも人間だ!」
五年ぐらい前、ロシア共産主義の責任者ゲンナジイ・ジュガノフが自己思想の教唆者の故郷を訪れたことがある。ガイドはいつもせきたてられ、部屋中を走り回っていた。博物館職員はその時、イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフ執務室の新しい壁紙購入資金を依頼した。ジュガノフは約束したが、言葉は守られなかった。1994年、“マトロスカヤ・テイシネ”から出所して間もなく、元副大統領アレクサンドル・ルツコイが訪れている。彼の訪問は記憶に残っている。「テレビ局の人間を乗せた五台の車が失脚した将軍と一緒にやってきた。ルツコイは話を最後まで、指導者の両親の経歴まで聞いていた。特にウリヤノフ一家が家畜を飼っていたか、質問さえした。
元首相セルゲイ・ステパ−シンは、ウリヤノフを訪れたのが休日にあたり、レ−ニンの冥福を祈ることはできなかった。「当時彼がここの訪問をあえて無視したのであれば、翌日首がとんでいたかもしれません」と博物館職員は憤りをみせた。だがその憤りはすぐ消えた。と言うのも、月曜日ステパ−シンが解任されたからだ。
現在博物館は困難に陥っている。一年中館内温度を18度に維持する空調システムが故障しているし、執務室からウリヤノフの部屋に繋がるりっぱな地下通路が老朽化で閉鎖されている。しかし職員の元気を衰えず、その場ですぐ小冊子「レ−ニン、Q&A」の購入を求めた。この本では、あたかもレ−ニンの出身民族がカルムイク人とする噂を否定している。最近レ−ニン館の壁にいくつかのイコンがかけてある。現在、イリイチは実際のところ幼年期、信仰心の深い人間であり、ソ連政権の責任者となった後でさえ、教会保護に腐心していた、そのように入館者に語っている。まさに何をかいわんや!
では国民はどう思っているか。ちょっと前のアンケ−トがある。“歴史におけるレ−ニンの役割について下記の考えのうち、いずれに賛成ですか”(複数回答可能):
“レ−ニンは国を進歩と正義の方向に導いた”−22%
“レ―二ンは国を誤まった方向に導き、それが多くの不幸と災難の原因となった”-17%“レ−ニンの考えは後継者により歪曲された”−28%(一年前34%)
“レ−ニンは全世界において共産主義の将来の勝利を予見した”−5%
“レ−ニンは共産主義に関し、間違っていた”−17%(一年前24%)
“レ−ニンは人々を明るい未来に導くため、その最良の考えと期待に依拠しようとした”−26%(一年前31%)
“レ−ニンは残酷な人間であり、力ずくで国を変えようとした”−12%
“レ−ニンの記憶は残るだろうが、誰も彼の道に歩むことはない”−40%
「100年ぐらい経つと、我々が現在きわめて不快に思うレ−ニンや20世紀の指導者にたいする関係は、より冷静で客観的なものとなるでしょう。こうした歴史上の人物にたいするきわめて否定的あるいは絶賛する態度は、我々(正確に言えば、最早次世代)が彼らの影響から免れるまで、続くことでしょう。今日までレ−ニンのイメ−ジは生きている人々とまだきわめて感覚的に結びついています。我々が今日、シ−ザ-や、カリグラ、ヘロデを評価しているように、レ−ニンを多面的に評価するにはさらに多くの時間をやり過ごす必要があります」と、ユ−リ・レヴァダ教授は述べた。
4月21日(土)
“良心の呵責”
-嘘発見器とロシアの永遠の問題-
(イズヴェスチヤ、4月20日、ヴィクトリヤ・アヴェルブフ、ドミトリ・ウラジミロフ)
プスコフ製粉工場でいわゆる嘘発見器で従業員をチェックしていることが明らかになった。いろいろな点から見て、工場経営陣は“ちょろまかす者”を屈服させられると本気で期待している。“ちょろまかし”は、15年前国家という経営者を悩ませたが、今日では民間経営者を悩ませている。せこい泥棒、これはロシア最大問題の一つである。現在、ロシアの刑務所には約100人が収監されている。その中、ほんの些細な法律違反で服役している者の割合は、1937年当時と比較しても増加している(現在、その数は全囚人数の約75%) ちょっとした窃盗やささいな非行行為でよく刑務所に入れられている。
この製粉工場はプスコフで六年間操業している。最近オ−ナが交代したが、新経営陣は資料を見てぞっとした。ここ数年、工場は95%まで顧客を失っている。蔓延している泥棒により、生産技術は異常をきたし、製品は基準を満たさなくなった。当初、“ちょろまかし”にたいし、強力な警備で対応しようと思った。ところが製粉工場の規模は大きなもので、いたるところに警備員を配置できない。その上、他の例の教訓があった。
「プスコフ生肉工場でもそのやり方で泥棒に対応しようとした。あそこではあやうくストライキになりそうになり、従業員が反対した。そうなるとこのやり方はどうか。我々は別の方法をとることにした」と、プスコフ製粉工場長アンドレイ・ザフレヴヌイは語った。
“別の方法”とは、警察機関や諜報機関で普及しているチェック方法のことである。
「わが社には心理学の専門家が二人います。かつて彼らはその専門を生かした機関に勤務していました。他ならぬ彼らがこうした方法を開発したのです」と、アンドレイ・ザフレヴヌイははっきりしない言い回しをした。
工場には約300名の従業員が働いている。心理学の専門家は二時間から4時間各人相手に、数百に質問を出す。「あなたは、工場に損害を与えたことがありますか」「盗むをいたことがありますか」「私利私欲で動いたことがありますか」「工場から何か持ち出す機会がありましたか」 時折、装置が回答が嘘だと表示する。また心理学専門家が返答に窮していると気づくと、問題は反復される。同じことを何度も、しかも形を変えて質問する場合もある。反対尋問のやり方もとられている。
従業員の誰も嘘発見方法に反対しないし、経営者が全従業員を潜在的泥棒と見なしていることに腹を立てていない。工場長は、従業員の嘘チェックを始めてから、窃盗はなくなったと断言している。その上、従業員はチェックをうける前に改心するようになっている。(中断)
4月20日(金)
“ガガ−リンの日”(完)
-人類最初の宇宙飛行士の知られざる真実-
(コムソモリスカヤ・プラウダ、4月12日、マイヤ・オクシコ)
宇宙飛行士は人工衛星「ヴォスト−ク」による初の宇宙飛行の四つの伝説は焼失すると思った。
伝説1:ガガ−リンの108分間宇宙飛行は故障なしに無事終了
長い間の検閲により、人工衛星「ヴォスト−ク」内の若干の混乱について、ジャ―ナリストは発表することができなかった。他ならぬソ連人工衛星には信頼性がないのではないか。実際、打ち上げ数時間前、技術者は不具合を取り除く必要があった。ガガ−リンが人工衛星に搭乗し、ハッチを閉めると、接触が悪く、コックピットに気密性がないことが分かった。それでは打ち上げはできない。慌ててカバ−のボルトを外した。幸いなことに欠陥は小さなものであった。その後ロケット上昇時になると、人工衛星との連絡が途絶えた。「ケドル、(ガガ−リンのコ−ルネ−ム)気分はどうだ」と“20番”(セルゲイ・パヴロヴィチ・コロレフ)が返事を求めた。「ケドル、応答せよ!」 だがスピ−カからは雑音だけであった。
「その時、わたしがどんな様子であったか分からないが、しかしわたしの隣に立っていたコロレフはかなり動揺していた。マイクロホンを握る彼の手は震え、声をつまらせ、顔はゆがみ、すっかり変貌していた。宇宙飛行士と連絡がとれ、人工衛星が軌道によると、全員安堵のため息をついた」、こうしたメモを日記にしるしたのは、宇宙空軍副総司令官ニコライ・ペトロヴィチ・カマニンである。
その後でガガ−リンは着陸時にきわめて動揺する事態に陥った。ブレ−キエンジン装置の圧力が急激に低下した。宇宙船はかすかに振動し始め、外壁の外側の騒音が大きくなった。オ−バロ−ドが発生した。ブレ−キエンジン装置のスイッチを切ると、降下装置と計器室は分離するはずであった。しかし分離されなかった!
人工衛星はわんぱくな子供が回したコマのように旋回した。回転速度は毎秒約30度である。ガガ−リンが後に国家委員会で語ったところによると、「コ−ルドバレエ」のようであったらしい。頭、足、頭、足と回転し、息がつまりそうであった。ガガ−リンは窓に射し込む強い太陽光線を避けるのが精一杯であった。長く苦しい十分間が過ぎてはじめて拍手が起きた。降下装置が計器室と分離したのだ。
しかし宇宙飛行士には新たな不安の種が出てきた。窓の外から亀裂音が聞こえ、赤紫色の炎がコックピットを照りつけた。火災だ!飛行士にとって、船内火災以上に怖い非常事態はない。たしかガガ−リンは第一次募集の全宇宙飛行士と同様に戦闘航空隊の出身であった。
「燃えている!」、ガガ−リンはすでに心の中で人生との決別をはじめていた。後日やっと特殊耐熱外板と大気との摩擦による炎に驚かなくなった。だが当時、初めての試験飛行で窓ガラスを溶かす炎は無論のこと、死の予告者であった。
「高度約7千メ−トル、ハッチ蓋の緊急切り離しが行われた。私は座ったまま、緊急だ脱出できたのだろうか、と思った。それはすごいスピ−ドだが快適で滑らかであった。何にもぶつかることはなかった。座席ごと飛び上がった。安定パラシュ−トが切り離され、主パラシュ−トが開いた。そこで座席は私から分離し、下に落ちた。私は主パラシュ−トで降下し始めた。その後で予備パラシュ−トが開き始めたが、下に垂れ下がったままであった。予備パラシュ−トは完全に開かなかった!」と、長い間秘密にされた報告書の中でガガ−リンは語っている。
宇宙飛行士はここでもまた運がついていた。
「その時、雲の層があった。雲の中で風が若干下から吹き、二番目のパラシュ−トが開き始め、完全なものとなった。その後、二つのパラシュ−トで私は降下した。しかしガガ−リンにはさらに一つの問題が待ち構えていた。空気を供給するバルブがすぐには開かなかった。」 たしか宇宙飛行士は密閉した宇宙服を着たまま着陸したはずだ。呼吸はできるのか。
「バルブは宇宙服を着せられた時、宇宙服の非気密部分に落ちてしまった。6分間ぐらいずっと私はそれを手に入れようとしていた。ようやく非気密部分を開き、鏡をつかってロ−プを引っ張り、バルブを開けることができた」とガガ−リンは後日委員会で報告している。
伝説2:ガガ−リンは宇宙船とともに着陸した-
人工衛星「ヴォスト−ク」のシステムは降下装置とともに宇宙飛行士が着陸することを想定していない。燃焼した“球体”は単に地面にどすんと落ちる。こうした衝撃は人間には致命的となるかもしれない。そこで船内には特殊カタパルト装置が設置してあった。
上空でハッチが開き、火薬装置が宇宙飛行士を“発射”した。
伝説3:ガガ−リンの飛行前、有人人工衛星が何度か打ち上げられたが、ことごとく悲劇に終わった。それでそのことは秘密にされている-
仮にそうした打ち上げがあったにせよ、それを今日まで秘密にしてはおけないだろう。ガガ−リンは宇宙を訪れた本当に最初の地上の人間である。けれども、宇宙飛行指導部が宇宙有人飛行をするつもりになったのは、まだ1957年のことで、当時人工衛星はまだ地上に帰還することができなかった、そのことはきちんと認めるべきである。その当時、エンジニア、医師、ただの情熱家は宇宙飛行ロマンにかられ、申請書を出していた。「帰還の可能性のない宇宙飛行をわたしにやらせてください.....」 幸運なことに、宇宙の虜となったこうした真心からの情熱を利用することはなかった。“ガガ−リン”宇宙飛行士チ―ムの最初の犠牲者となったのは、ヴァレンチン・ボンダレンコである。1961年3月23日、酸素が過剰に封入されている気密室で訓練中、火災が発生した。宇宙飛行士は致命的な火傷をおった。ガガ−リン打ち上げまで一ヶ月もなかった...。
伝説4:ガガ−リンは1968年に死亡したのではない。訓練飛行機事故は、ソ連共産党中央委員会政治局員にたいし、勝手に異をとなえ始めた国で最も人気ある人物を厄介払いするための演出であった-
ガガ−リンは、彼の死亡について公式報道の後でも、多くのものはそれは信じることができず、そのぐらい国民に愛されていた。ここからあらゆる“生存”説が生まれ、それはガガ−リンの遺体が発見されなかったことによりされに“根拠づけ”されていた。悲しいことだが、ガガ−リンは訓練飛行中、キルジャチ郊外の森の中で本当に死亡した。ミグ15は相当のスピ−ドで地面に激突し、ガガ−リンと訓練教官ウラジ−ミル・セレギンは文字通り粉々となった。ガガ−リンはいくつかの遺体片と私物により識別された。事故原因は完全な確証をもっては、結局確定することはできなかった。ある者は、ガガ−リンの飛行機は至近距離を飛行する別の飛行機の噴射流に巻き込まれ、キリモミ状態に陥ったと考えている。またある者は、空中で気象観測気球のような何らかの物体と衝突し、飛行機のガラス面が破壊されたと考えている。第三の説では、エンジントラブルである。
写真の思い出
何度も強く接吻したい思いでいっぱいであった!
二度だけ幸運にも、ガガ−リンに合い、写真をとることができた。一度目は打ち上げのあったまさに四月のことである。彼はレ−ニン廟の壇上に立っていた時である。二度目は、二年ぐらい後のことで、シャボロフカのテレビセンタ−であった。ドイツ企業“ツアイス”の代表者がガガ−リンと名のついた作業班が組み立てた最新モデルの双眼鏡を人類初宇宙飛行士に贈呈していた。写真撮影が終わると、スタジオにいた者全て宇宙飛行士に殺到した。レンズを換えている間に目の前は人だかりになった。やっとのことでタ−ゲットに近づき、人の輪で囲まれたガガ−リンはサインをしていた。一瞬、ガガ−リンは私に気づき、視線を向け、「撮ったか」と目配せした。否やと首を横に振った。その時、ガガ−リンは向きを変え、人の輪を広げ、葉書を受け取ると、今度はゆっくりとサインしだした。どうしたこんな立派な人にキスしなかったのか、分からない!
本紙古文書
「星への道」(本紙特派員、O.アペンチェンコ、V.ペスコフ)
1961年4月12日、“コムソモルキ”の伝説の報道記者が宇宙飛行士会館から最初の最初のレポ−トを寄せた。
10時1分:全世界はラジオを聞き、モスクワに耳を傾けた。全世界は息を殺した。人類が宇宙にいる!彼の姓名は知られているが、世界は彼についてまだほとんど知らなかった。分かっていることは、ロシア人であり、ソヴィエトの人であることだけであった。どこにでもある通り、建物、五階の階段。二部屋と厨房。花柄の壁紙、カ−テン、本棚、丸いテ−ブル。部屋には妻と二人の子供、レナとガリャ。妻の名はワ−リャ。私たちは彼女にお祝いの言葉を言った。彼女は戸惑い、喜び、不安な顔を見せた。丸テ−ブルには写真アルバムが置かれていた。半ズボンの少年が小川に向かって全速力で走っている写真だ。写真は生まれ故郷スモレンシナ村で撮ったものである。この写真には小学生仲間の中に彼が写っている。短い金髪の明るい少年。職業学校の襟章、青年の眼差し。さらにアルバムの次の頁をめくると、大きな集団写真があった。写真には「サラトフ中等工業専門学校、1955年撮影」と記されていた。ここにはさらにもう一つの写真。飛行機の翼の上にいるガガ−リンが写っていた。
さらに一つのアルバムがあった。そして我々は初めてワ−リャの写真を見た。彼女は看護婦の白衣を着ていた。その横の一枚の写真には、着飾った姿が写っていた。写真には「ユ−ラ、忘れないで、私たちは幸福な労働者です、それが私たちなのです。運命に負けないでください。待つことは偉大な能力です、それを忘れないでください。最も幸福な時までこの気持ちを持ちつづけてください、1956年3月9日、ワ−リャ」と書かれ、それを我々はメモ帳に写した。さらに彼の書いたものもある。「私の大切で熱烈に愛するワ−リャ、この写真が私たちのあらゆることに打ち勝つ永久の愛のお守りとなることを祈ります、1958年3月16日、ユ−リ・ガガ−リン」
打ち上げ前、ガガ−リンは長期間、根気強く準備した。家にはいつも疲れて帰ってきた。ワ−リャは全てではないが、任務について知っていた。それで聞かなかった。笑みを見せ、ただ一言「重要な任務なのだ」とつぶやくだけであった。
彼が27歳の頃、まだ我々の中にいた。彼は我々と一緒に映画館に座り、日曜日になると公園で乳母車をおしていた(もう一人家族が増えた)。彼はお客に出かけたり、バスケットボ−ルやビリヤ−ドをしたりして遊んだ。それが今、宇宙にいる!
ガガ−リンと...、今度は地上で何度も普通のロシア人の名が呼ばれることだろう。ガガ−リン少佐と.....。だが彼女にとってはただのユ−ラだ。娘レ−ナにはただパパなのだ。地上では彼を息子と呼び、永遠の誇りとするだろう。
ガガ−リンの姪、タマ−ラ・フィラトヴァの話
-死の三ヶ月前、彼は別れにやってきた-
人類初宇宙飛行士の親族のほとんどはスモレンスク州の小さな町、旧町名グジャツカ、現在名ガガ−リン市で今でも生きている。ここにあるもの全て、ユ−リ・ガガ−リンを偲ぶものである。ホテル「ヴォスト−ク」、彼の名のついた博物館、記念碑、胸像、ユ−ラが議員として支持者に応対した建物の表札。ユ−リ・ガガ−リンの上の姪は最早博物館で30年間勤務しているが、残念なことに今日ではほとんど人が訪れない。
宇宙飛行後、親族には早速三台の電話機が設置
人類初宇宙飛行士の故郷は物悲しげで、殺風景に映った。寒いのは街路地だけでなく、博物館の中も寒かった。暖房が止められていた。「服は脱がないほうがよろしいです」と、スカ−フにすっぽりと包まれたタマ−ラ・ドミトリエヴィチは言った。40年前、この町は都市の様相はほとんどなかった。むしろ村であった。
「町にはテレビはほとんどありませんでした。宇宙飛行のことを知ったのはラジオです。通りの大半は玉石舗装で、後はぬかるみ。4月12日は道が最もぬかるんでいる時期でした。その日、あらゆるところから記者や、州の幹部がやって来ました。自動車が町の中心まで数珠繋ぎでした。ヴォルガ川にはまりこんだ自動車の写真もありました。車輪が半分、ぬかるみにはまっていました。当時わたしは14歳でした。両親と祖父母、兄と一つ屋根で暮らしていました。いっぺんに三台もの電話機が設置されました。一本は専用の国際回線用でした。」 そんなふうにタマ−ラ・ドミトリエヴィチは昔のことを述べた。
1961年4月12日、タマ−ラは学校から帰ると、祖母が見当たらなかった。息子が宇宙にいることを知ると、アンナ・チモフェエヴナは何もかも投げ出し、モスクワに向かった。駅につくと、10ル−ブル紙幣を窓口に出し、切符をつかむと列車に飛び乗った。切符売り場の駅員は「そこの御婦人、戻ってつり銭を受け取って」と叫んだ。車内で追いつき、つり銭が渡された。10ル−ブルはかなりの額であった。頭の中は息子の嫁と孫のことで一杯であった。「大変な出来事だ、ワ−リャ一人だけだし、二人の子供をかかえている。ガロ−チカはまだ生まれて一ヶ月」
「祖父ときたら、長いこと事態がのみこめなかった。祖父は大工で仲間と町をまわり、住宅や農場を作っていた。男達は立ちながら、川を渡ってくるのを待っていた。誰かがあきれて「アレクセイ・イヴァヌイチ、どこにいくんだ。あんたの息子、宇宙を飛んでいるぞ!」「やめなよ!どんな宇宙だ。頭でもおかしいのか」 あらためて「あんた、ガガ−リンだろ!」「そうだとも」「息子はユ−ラか、少佐か」「いや、中尉だ」
ユ−ラが特別に階級をもらったことを知らなかった。党市委員会が車を差し向けた時になってやっと分かった。ガガ−リン一家は普段、つつましく暮らしていた。他の人であったら、もしかしたら不意に手にした幸運を利用したかもしれないが、彼らの生活はほとんど変わらなかった。あらゆる優遇のなかで、結局家族に残った唯一のものは仕事であった。タマリナ(ユ−リ・ゾイの実妹)は看護婦の仕事を続け、37ル−ブル50カペイカを貰っていた。父は工場で働き、兄は運転手をしていた。
「あらゆる特典の中で唯一なものと言えるのは、祖父母が三部屋の家を新築したことぐらい。今思えば、なんとこわいことだったか!でも、当時は当たり前でした」
アンナ・チモフェエヴナは四人の子供を育て上げ、働いていなかった。家族は常に大所帯であった。牛、子豚、ウサギ、鶏を飼っていた。牛乳を売り、菜園の余ったものは人にあげた。収穫は十分あり、ガガ−リン一家は困っていなかった。
両親、近縁者への愛情、尊敬、そうしたものを宇宙飛行士は人生の最期まで持ちつづけた。世界的に有名になった後でさえ、母親は彼を叱ることができた。まだ青春時代、彼がサラトフの中等工業専門学校で学んでいた頃、彼は贈り物をする習慣があった。たいしたものではなかったが、全ての者に贈り物をした。奨学金では足りなかったので夜は船荷下ろしの仕事をした。夜間の仕事は多くもらえた。
「祖母は子供たちに多くのものを与えた。歩く百科辞典で、稀に見る記憶力の持ち主で、すごい読書家でした。ペトログラ−ドで三年しか学んでいないにもかかわらず、きちんと文章を書き、私の兄に算数を教えていました。毎日寝る前になると、子供たちに本を読んでいました。プ−シキンや童話が好きでした。ご存知かもしれませんが、当時村の生活は大変なものでした」
<美しく、賢明に!だが夫の死後、身のふり方を決めかねていた>
「タマ−ラ・ドミトリエヴナ、ユ−リ・ガガ−リンの妻は今、どんな暮らしをしていますか。たしか、彼女はマスコミの取材を拒否しています」
「ユ−ラの死後、彼女はマスコミの取材を受けるのがつらかった。夫を少しでも思い出すと、いてもたってもいられなかった。ずっと後になって、90年代のはじめ、ガガ−リンについて作り話が書かれるようになると、彼女はまったく内にこもってしまいました。夫の死後、その生活はすべて子供と孫にためにありました。」
「とても若く、聡明な女性でしたが、ユ−ラの死後、結局彼女は身を固めることはなかった。本当に彼女は美人で、すらりとしていましたよ!大きな茶色の目、黒いまゆをしていました。一緒にお風呂に入った時、髪をとかしていました。床につくぐらい長く、髪は編んでいました。想像できないでしょうが、豊かな髪でした。そしてりっぱな主婦でもありました。彼女の父は料理長でしたので、料理は上手でした。あそこには大きな犬がいたわ」
「毛糸を梳き、それで自分と娘のカ−デガンやワンピ−ス、ソックスを編んでいた。宇宙飛行の後も、夫が死んだ後もそうやっていました」
「生活のためにしたのですか」
「いいえ、彼女は並みの生活でした。夫が死ぬ以前、家でじっとしているのを嫌い、研究所の助手をしていました。しかし、その後彼女は自分の生活でなにか愚痴をこぼすことはありませんでした。人が変わりました。ある時、彼女に家に行くと、壁紙が新しくなっていました。「誰が貼ったの」と聞くと、「自分でやったの」と言いました。助けも借りずに、一人で四部屋の壁紙を貼り替えたのです」
「ガガ−リンは娘に怒鳴ったことはありません。もちろん、手上げることなどありませんでした。娘はいたずら好きというより、むしろおしゃべりで笑い上戸でした。何かしでかすと、母親は「お父さんに何もかも話します」と言ったものです。すると涙をいっぱい浮かべて「ママ、いわないで!」 これが最高のおしおきだったのです」
「宇宙飛行前、家族の生活はおそらく大変だったのではないですか。結婚後、すぐ北部に引越しましたね」
「上の娘レナはそこで生まれたのです。重い病気にかかり、グジャツク村に来ました。母親は小児科の看護婦として働き、治療をはじめました。レナは快復しました。」
<記憶に残る葬送曲と人々の行列>
好きなおじさんの死後、何が行われたか、タマ−ラ・ドミトリエヴナはよく覚えていない。それほど落ち込んでしまったのだ。事故については、翌日になってはじめて知らされた。
セレギンの遺体はすぐ発見された。ガガ−リンはわずか28歳だ。誰しも、もしかしたら脱出装置で脱出し、助かったのではないか、そう願った。しかし、飛行機事故の奇跡はきわめて稀である。
「両親の苦悩はどのようなものでしたか」
「どのようなもって!原潜“クルスク”号の遺族の見たでしょう。私たちもそうでしたわ」
「ガガ−リンには予感みたいなものがありましたか」
「そんなこと誰もわかりませんよ。彼が最後に来たのは1967年12月5日でした。いくになく長い間、わたしたちと過ごしました。皆を集め、抱擁しあい、遅くまでお喋りをしたり、冗談を言ったり、歌をうたいました。その後で表に出て、雪を投げあい、雪の上に転げまわり、おおはしゃぎでした。昼はわたしがせがみ、おじさんたちと狩りに行きました。こうした時は普通は女性は連れて行きませんでしたが、ユ−ラは私にはいつも甘かったです。ユ−ラは私の父親代わりでした。本当の代父でした。彼自身も洗礼をうけていました。言うまでもなく、おじさんたちは何も射止められず、わたしが責められました。めめしいことったら。それで休息をとり、時間を過ごしました。ユ−ラは帰り道、いろんなアナクド−トを聞かせてくれました。後になって、彼がこの世にいなくなると、わたしたち家族みな、別れに来たのだと、理解したのです」
4月15日(日)
“ガガ−リン広場”(完)
-ユ−リ・ガガ-リン、世界初宇宙飛行40周年-
(モスコ−スキイエ・ノ−ヴォスチ、4月10日〜16日号、セルゲイ・フルショフ)
ユ−リ・ガガ-リンはわが国の栄誉と偉大さだけでなく、イリヤ・ム−ロメッツや、ペレスヴェト、イワン・スサ−ニンに匹敵する全ロシアの英雄神話の一部分でもある。しかし彼がまだ銅像になる前、我々、とりわけ彼の同時代の人々にとってその功績ばかりか、日常の些事、例えばどのように育ち、どのように学び、どのように生活し、何を飲み、何故に宇宙飛行士になったのか、どうして最初となったのか、どうように死んだのか、大きな関心を抱いていた。だがこうした疑問についてすでに答えはでているし、そうしたことでガガ-リンについて書くことは難しい。
私個人にとってガガ-リンは彼の名が現在付いている広場と多くの点で結びついているし、当時この場所はカル−ガ関所と呼ばれていた。40年前、1961年、私はウラジ−ミル・ニコラエヴィチ・チェロメイ設計事務所で働いていた。我々もロケットを製作していたし、かなり優秀なもので、軍事用に転用され、いくつもの賞も貰った。しかしこうしたこと全て、名前は伏せられていたが我々にはよく知られている主任設計者の絶大な栄誉とはとても比べものにならなかった。我々はあからさまにコロレフのグル-プに嫉妬をおぼえ、宇宙に突進し、大型の有人宇宙ステ-ション、“ソリュ−ト”や“ミ−ル”の原型を考えていた。しかし、人類は地球から離脱できるのか、はてしない天空で発狂しないのか、そうしたことが不明なのに、どうして本格的に宇宙ステ-ションの設計ができるだろうか。我々は息をこらして本番の発射に期待した。まさにベルカとストレルカという犬の宇宙飛行士が飛び立ち、“喋る”マネキンが地上に戻り、ユ−リ・アレクセエヴィッチの時代が訪れた。けれども、一体誰が飛行するのか、それについて我々は知らなかったし、さほど関心はなかった。しかし有人飛行が間近にせまっていることは、国中が感づいていた。
1961年4月11日夕刻、よき知人、昆虫学者ニコライ・フィリポフにところに立ち寄った。彼はカル−ガ関所の近く、“雑貨店”の裏に住んでいた。我々には共通の趣味があり、ニコライ・ニコラエヴィチは学者、“昆虫屋”であり、一方私はずっと蝶を蒐集していた。ところがその晩、我々はこの友人が予定している極東旅行のことより、むしろ宇宙飛行のことについて話した。とうとう彼は我慢できず、慎重に質問した。「セルゲイ・ニキ−テイチ、いつ人間を宇宙に送り込むか、ご存知ないか」 飛行時期は秘密事項であったが、私はおおよそだがその時期を知っていた。私は考え込んだ。“知らない”とは言いたくない。確かに私は知っているし、彼も私が知っていることは分かっていた。私は冗談で表現することにした。
「明日朝」と答え、私の冗談から判断するように居合わせた人たちに求めるように笑みを見せた。翌朝、ユ−リ・ガガ-リンは宇宙に飛び立ち、ニコライ・ニコラエヴィチは電話をよこし、変人の彼がどうした私を信じなかったか、辛そうにこぼした。多くのものが何故か関心をもったのが、「誰がガガ-リンを選択したか」である。若いパイロットを宇宙飛行士として集めていたカマニン将軍なのか。セルゲイ・コロレフなのか。国防大臣、マリノフスキ−元帥なのか。それのとも私の父、ニキ−タ・フルショフなのか。彼らは互いに誰も結びつきがないと思える。
コロレフが父に飛行できる状態にある全パイロットの写真を送り、父がガガ−リンを選択したという説がある。最初の飛行士選択を父がしたとは思わないし、政府首脳にこうした伺いをたてると、コロレフが思いついたとは信じがたい。会議では彼らは別の次元の問題を議論していた。最初の宇宙飛行候補を写真で選ぶわけにいかないし、人物を知る必要があった。選択は官僚的手順で進められ、一歩々おこない、最終的にユ−リ・ガガ−リンと交替要員ゲルマン・チトフが中央委員会幹部会で承認された、そのように思う。当時全員か、ほとんどの者が承認した。もちろん、飛行候補者の身上書には写真がつけられ、したがって父もその選択に手をかしたと、言えるかもしれない。
打上げ当日、4月12日、父はアプハジ共和国プツインダ村で休暇をとり、秋の定期党大会の報告書を準備していた。その日、報告書には手がつかず、父は電話のこと、コロレフのこと、我々を待っていること、つまり勝利なのか、敗北なのか、万人の歓喜なのか、それとも葬送行進曲の痛ましいメロデイ−なのか、そうしたことを考えていた。そして待望の電話が鳴り、勝利の歓喜に満ちた甲高い声のコロレフの報告があった。それはたった一言であった。「生きています!」 勿論、飛行について話し、父の質問に答えたが、しかしこれは小さなことで、肝心なことは、“生きている”ことであった。
誰も前もって、最初の宇宙飛行士出迎えの式典を計画していなかったし、特別の祝賀行事の予定もしなかった。縁起をかつぎ、運だめしをしようとはしなかった。もう一つは、官僚の前例第一主義によるもので、課題を遂行し賞をもらい、新たな偉業に邁進する、それ以外のやり方はなかった。コロレフの電話の後、父は国防大臣に連絡をとり、「元帥、ガガ−リンの飛行の祝いについて、どう考えているか」と質問した。
「表彰する必要があります、ニキ−タ・セルゲエヴィチ、大尉の位を与えるつもりです」と大臣は返答した。
「けちけちしているな、ロデイオン・ヤコヴレヴィチ、これほどの事にただの普通の星勲章なのか」
「少佐にします!」とマリノフスキ−は二つ返事でこたえた。
「ソ連邦英雄の称号だけでなく、何か特別の称号を考えなければいけない」と父は頭の中で思い描いた。
そこで生まれたのが“宇宙飛行士”という称号であった。しかし父にはこれだけでは不十分に思えた。彼はガガ−リンの前代未聞の歓迎会を思いついた。護衛戦闘機を伴う飛行機、歓迎時に人で埋めつくされたモスクワの通り、赤の広場の集会。何度も語られ、見せられた祝典は実際、全国民的なものとなった。目の前の出来事で大変当惑したユ−ラと妻ワ−リャがヴヌ-コヴォ空港でパレ−ド用オ−プンカ−“ジル”に乗り込んだ時、父はどうしたらよいか、判断しかねていた。彼は夫妻と同乗し、喜びを分かち合いたかった。たしかに彼もこの喜びにかかわっていた。しかしもう一方でこれは彼らの祝祭であり、余分な第三者が必要だろうか、と迷った。全てはガガ−リンがきめた。彼はすでに自動車に乗り、自分の部隊パレ−ドを観閲する元帥のポ−ズとっていた。ユ−ラは父に笑みを見せ、あたかも父を車に引きあげるかのように、手をさし出した。「どうしてためらっているのですか」 父は後部座席におさまった。こうして彼らは一緒に全行程を走った。レ−ニン通り、歓声が響いた将来のガガ−リン広場などを通過し、クレムリンに入った。ユ−ラとワ−リャは立ち、父は後ろで座っていた。
この後、赤の広場の集会やゲオルギ−ホ−ルのレセプションは昨日までの中尉に雪崩のような栄誉を浴びせかけた。新しいことだか、それでも厄介な経験の時が続いた。表彰、歓迎会、数々の宴席、招待、乾杯、こうしたことで消耗しないものはいなかった。ガガ−リンも大変であった。
1963年6月、私はチェロメイ設計事務所主任弾道学者ヴォロ-ジャ・モデストフのところで誕生日にユ−ラとワ−リャに会った。ヴォロ-ジャはレ−リン通りとカル−ガ関所の角に住んでいた。我々の仲間はロケット研究者やその同僚、それに設計者L.ツポレフもいた。彼は自分の父の会社で巡航ミサイルにたずさわっていた。さらにチェコの記者イルジャ・プラヘトカもいた。その年、ヴォロ-ジャはまだユ−ラとワ-リャを招待していた。
几帳面なガガ−リンは妻と招待の6時きっかりに来た。建物の玄関入口には群衆が殺到した。ユ−ラは笑みを見せ、差し出された手に握手すると、玄関口の中にすばやく姿を消し、部屋に上がると、その主と一緒に座り、他の客が来るのを待った。そうしている間、ユ−ラはヴォロ-ジャの娘カ−チャに何かの本にサインし、またヴォロ−ジャ本人の運転免許書にもサインしていた。さらにちょっとした技術文書にもサインした。その時、ヴォロ−ジャの手元にはそれ以外のものがなかった。ガガ−リンのサインは後に、魔法のような威力を発揮した。それを見ると、交通警官は長々と話すこともなくヴォロ−ジャを放免し、敬礼さえした。現在ガガ−リンのサイン入り免許書の効力は切れているが、家宝になった。
やっと客がそろった。こうした場合におきまりの宴会が始まった。ユ−ラは主のとなりに座り、ワ−リャはユ−ラにあまり酒が注がれないように注意して見ていた。彼はまだあらゆる試練をくぐりぬけていなかった。我々、若きぼんくらは彼女を騙すことにした。ヴォロ−ジャが自分のグラスにウオッカを注ぎ、ワ−リャがよそ見しているすきにユ−ラがそれを飲み干した。こうしたことは、ワ−リャを除けば皆を陽気にした。だがこうしたパ−テイがユ−ラとワ−リャには毎週あり、重い負担となっていたとは、誰も思いもよらなかった。
ユ−ラが試練に耐え、あらゆる評判をかいくぐり、おのれを維持できたことはワ−リャのお陰である。これはおそらく、宇宙に飛び立つ以上に困難ではなかったろうか。やがてガガ−リンは新たな飛行許可を手に入れ、訓練に入っていった.....。
このパ−テイ−の二三ヶ月後、1963年秋、米国大統領ジョン・ケネデイは月の有人飛行で協力し合う提案を父にしてきた。父はこの提案を好意的に受け止めた。月面共同飛行は双方の利益に適うものであった。ケネデイは保険をかけたのだ。突然月にもロシア人が一番乗りになるかもしれない。共同飛行し、リスクを犯さないほうがよい。父は月飛行プロジェクトの費用は膨大であり、一方農業や住宅建設、化学工業の発展にはかなりの資金が必要である、そのことを心配していた。そこで米国人とうまく資金分担できるかもしれない。
だがこの目論みはうまくいかなかった。間もなくケネデイは暗殺され、それに続いて父は解任された。新しい指導部はロシアも、米国も協調より軍拡を選択した。残念なことだが、ヴォロ−ジャの誕生日、1969年にア−ムストロングとガガ−リンが一緒に月面着陸したこともたしかにあり得たことである。あり得たかもしれないが、しかしそうはならなかった。
最後になって我々とすでに大佐となったガガ−リンの人生は、1967年秋に一緒になった。彼は国家委員会のメンバ−としてチェロメイ設計事務所に将来の有人宇宙ステ−ション“アルマス”を“調整”するためやってきた。数年の間にそれは夢から現実のものになっていた。私とユ−ラは当時会うことはなかった。父が解任された後、チュロメイは“目立つ”ことのないようにと私に忠告した。ヴォロ−ジャも委員会の会議でガガ−リンの横に座り、冗談を言いながら、昔を思い起こし、そして将来のプランを作っていた。その頃、ガガ−リンは早くも新たな宇宙飛行の準備をしていた。それは月ではなかった。残念なことに、彼はどこにも飛び立つことはなかった。1968年3月27日ガガ−リンは死亡した。
彼の死後、カル−ガ関所はガガ−リン広場の名がつけられ、運の良いことに、改革の真っ最中でも名前が元に戻されることはなかった。広場には記念碑が立っている。ユ−ラの顔のついたタイタンの彫像で、飛び込み台から水中に飛び込む兵士のようでもあり、映画「サ−カス」に出てくる“大砲から月に飛び出す”アトラクションのサ−カス芸人のようでもある。私にはそうしたガガ−リンは気に入っていない。
私の家には別のガガ−リンが立っている。エルンスト・ネイズヴェスヌイ作記念碑の模型である。1975年ネイズヴェスヌイはのっぴきならぬ事情で亡命の準備をしていた。無論、ガガ−リンの功績を永遠なものとする彼の作品は“パス”しなかった。惜しいことに、彼の作品では本当のガガ−リンが再現されていた。そこにはその寸法にかかわらず、大空を目指すタイタン像、星を見つめる顔、知っているユ−ラの笑みがあった。私はいつも満足しながら、この彫像を眺めている。それで私は他のモスクワ市民より幸せである。
参考資料:
回想の著者:セルゲイ・ニキテイチ・フルショフ(1935年生まれ)、ソ連共産党中央委員会第一書記、ソ連邦閣僚会議議長ニキ−タ・フルショフの息子。モスクワエネルギ−大学卒。1958年よりアカデミ−会員ウラジ−ミル・チェロメイが指導するロケット設計事務所OKB-52に勤務。1968年、ソ連邦計測器省電子制御機器研究所に移籍。同研究所はヴァヴィロフ通りに位置し、ユ−リ・ガガ−リン記念像の近くにあった。現在、米国在住。
4月11日(水)
“モスクワは口蹄疫から保護されている”(完)
-EUは一時的に最大の農産物市場の一つを失った-
(独立新聞、4月3日、ヴィクトル・クウジミン)
この数ヶ月、世界経済の事態の進展に注目しているアナリストは、二つのきわめて嘆かわしい傾向を指摘している。その一つは米国の危機の発展であり、経済成長テンポが鈍化し、ここ数年はじめて景気後退の可能性があると語らざるえなくなっている。
第二番目は大西洋の向こう側、ヨ−ロッパのことである。危険なウイルスが一度に西ヨ−ロッパ四カ国の農業一部門全体に襲った。人類にとってこのウイルスの危険性や感染を局地化する試みのむなしさからすると、西ヨ−ロッパ全体の経済にとって本当の災難となるおそれがある。
ヨ−ロッパ諸国からの食肉の全面的あるいは部分的輸入禁止措置は、すでに約60カ国にものぼる。先週ロシアもその一カ国となった。おそらくこの出来事は一時的に巨大市場を失ったヨ−ロッパ経済ばかりか、わが国にとっても警告的なものである。
今日までは口蹄疫ウイルスはわが国を避けて通った。だがロシアを囲む輪はしだいに狭まり、その結果政府は西側からの食肉輸入を全面的に禁止する措置をとることになった。禁止措置は一度にEU及び東欧、バルト諸国の食肉輸入にたいしとられた。だがウイルス進入の恐れは、その他の“フロント”、たとえばアジアからにせよ、まだ存続している。通信社の報道によると、先ず輸入食肉にきわめて多く頼っているチェリャ−ビンスク州が被害にあう可能性がある。その危惧は、モンゴル、中国、キルギスの家畜感染の発覚報道でさらに高まっている。
ロシア副首相、農業相アレクセイ・ゴルデエフによると、EU、東欧、バルト諸国からの食肉輸入禁止は、少なくとも21日間予定している。「ロシアは、この禁止措置を延期するか、それともどこかで中止するか、感染状況の推移を注意深く見守る」と同副首相は発言した。
この声明は直ちに農産物市場を過熱させる噂の波となった。品不足状態で商品を探す苦い経験に学んだ市民は今後の価格高騰を予想し、急いで冷蔵庫に肉を詰め始めた。だが農産物市況研究所の専門家によると、価格が大きく上がる根拠はない。市場におけるこの農産物の需要供給デ−タに基づき、彼らは価格上昇の可能性幅はせいぜい6%であると見なしている。
専門家はこのことをいくつかの理由をあげ説明している。一つは、食肉の在庫は現在ロシアでは、価格上昇するには十分すぎるほどある。例えば、モスクワとモスクワ州だけでも、牛肉の在庫は1〜2ヶ月間の需要にたえることができる。翌月の供給は国内品で賄うことができるだろう。実際問題、伝統的に四月になると国内農業関連企業では家畜の不良選別が行われ、市場への肉供給を増やす。さらに春の田畑作業の準備期に播種用資金を補うため、家畜の一部を売却することになっている。
その三番目は、四月は伝統的に食肉需要は低下し、国内市場を救う。多くの国民は節制することを優先する(宗教的な考えにせよ、痩せる目的にせよ)。その結果、なじみのソ-セ−ジも、ハンバ−ガもサラダや豆類にかわってしまう。やむを得ぬ場合でも、魚である。
さらに専門家の考えだと、ヨ−ロッパ諸国からの輸入品の大半は、他の国からの輸入品で補うことができる。特に白ロシア、ウクライナ(ロシアの牛肉輸入におけるこの二国の割合は約50%)、さらに中国から補うことができる。とは言え、中国は口蹄疫感染例がすでに報告されているが、発生源は局地的にくい止められ、現在すでに製品はロシア極東とシベリアには入ってきている。
ロシア政府の決定によりロシアの一般消費者の懐により実感が出てくるのは、ヨ−ロッパからの食肉輸入禁止措置が延期されだ場合だろう。例えば、牛肉だけ見ても、全輸入総量の中、ヨ−ロッパ製品の割合は約28%である。そしてロシア企業からの食肉供給量が従来減少する夏季になると、この失われた部分を補うことはかなり難しくなるだろう。
ともかく、ロシアの決定の影響が最も大きいのはヨ−ロッパ自身であろう。EUは最も大型で安定した食肉購入者を事実上失っている。例えば、ロシアにはヨ−ロッパが輸出する全牛肉の40%以上と豚肉の三分の一が納入されている。ドイツだけでも、毎週約8千トンの食肉をロシアに輸出しているし、これはドイツの食肉輸出の95%にあたる。現在までヨ−ロッパ食肉の輸入禁止措置をとっていない他の国、モロッコ、レバノン、ユ−ゴスラヴィアの消費量は、ヨ−ロッパ輸出量のたった0.3〜1.6%である。
EUがその直後にEU諸国の畜産品や飼料の輸入禁止措置の再考をロシア政府に求めたのにはそれなりに訳があるのである。EUによると、家畜、食肉、肉製品、牛乳、乳製品、魚類、魚製品(加工品も含め)、畜産用飼料をEU加盟国全体から輸入禁止するとしたロシアの措置は、“ゆき過ぎた”措置なのである。
モスクワにあるユ−ロ委員会代表部の説明によると、「口蹄疫の発病の報告がある国、英国、フランス、オランダ、アイルランド“からの輸入禁止すれば十分であったろうに」としている。さらにEUは、病気拡大のおそれのない製品、奇蹄類の家畜肉、加工された乳製品・肉製品、魚類、魚製品、特別の国際基準で加工された製品にたいする輸入禁止措置は”不適当な措置“と考えている。
EUは“ダブルスタンダ−ド”の適用さえしている。その代表者はWTOの基準があり、こうした制限措置をとる場合、それに従うようにロシアに求めたことことがある、これについては記憶している。ところが、彼らはロシア製品の輸入禁止措置では、こうした基準を無視したことは何ゆえか忘れていることも事実である。
と言っても、ロシア自身もその決定を若干緩和するはめになった。問題は食肉・乳製品の輸入禁止は長年かけて形成したロシアへの製品供給システムを破壊しかねないことにある。獣医学者はさらに、ヨ−ロッパ経由の食肉・乳製品の輸入も禁止した。ところが、ヨ−ロッパ経由によるコンテナ輸送拒否はロシアにはまったく不可能であった。と言うのも、他のル−トだと、輸入品価格が何倍にもはね上がるからである。
いずれにしても、ロシアがした禁止措置はヨ−ロッパ諸国にたいする貿易宣戦布告にとてもよく似ている。当然のことながら、輸入縮小とそれによる価格高騰は国産品の魅力を増大させるはずである。
おそらくはじめてロシアは西ヨ−ロッパ当局にたいし、効力のある正真正銘の圧力ハンドルを手に入れたのかもしれない。経済がロシアへの農産物輸出にきわめて依存しているバルト諸国は言うに及ばない。
実際、このチャンスは政治的動機で逸する可能性もある。米国に対峙し、ヨ−ロッパと“親密”になりたいというロシアのあからさまな願望はわが国当局に政治決断をさせるかもしれないし、その結果ヨ−ロッパにたいする経済圧力のハンドルを手放すかもしれない。
4月9日(月)
“双眼鏡では日本人は何も見えない.”(完)
-南クリル諸島は、かつてのカリフォニアのようなゴ−ルドラッシュ“
(イズヴェスチヤ、3月26日、ドミトリ・ソコロフ、ミハイル・クリメンチエフ(撮影)
ロシア大統領ウラジ−ミル・プ−チンはイルク−ツクで日本の森首相と会談した。会談の結果に基づく文書が作られた。南クリル諸島の今後も含め、交渉継続が決められた。一方同じ頃、クリル諸島では、日本からクリル島民に贈与された地域発電所で、日本人が気前よくふところをはたいて贈与したデイ−ゼル燃料も終わった。それも会談直前、3月23日に終わった。次の人道支援燃料は五月にならないと入ってこない。会談後日本首相の国民向けメッセ−ジ発言を聞いているのは、病院職員や軍人、それに自家発電機を所有している少数のものだけだろう。その他のものは、クリル諸島で最も恵まれない島の一つである国後の普段の生活である。だがここは、ブリャンスク州やヴォロネジ州よりはましではある。クリル経済の窮状は真実ではあるが、クリル島民そのものの貧困状態は虚構である。まさにこれがロシアなのだ。これについては、日露首脳会談前に係争中の領土を訪問し確認してきた。
南クリルの中心地、ユジノ・クリリスク町の人口は約四千人である。大部分の家屋はル−フィングフェルトぶきの平屋か、二階建て。若干の住民はプラスチック製の屋根材を用い、バラックもほぼ西洋式に見えるようになった。まったく西洋建物に見えるのが、数十のいわゆる“カナダ式家屋”であり、きわめて快適で内部も外部も白色に塗られた豪邸である。州政府は連邦プログラム資金“クリル”により、これを島民に贈呈すると決定した。一軒の価格、80万ドルである。この豪邸には現在、クリルのエリ−トが居住しているが、それにより常にいがみ合いが起きている。
空にカラスが飛びまわり、“カア!カア!”と鳴いている。ここは何故か、カモメよりカラスが多い。そのくちばしは驚くほど大きく、缶詰に穴をあけてしまうほどである。地面には牛がうろうろしている。冬はごみ山に放し飼いされ、直接ごみ箱に首を突っ込んでいる。あらゆるもの、ポリエチレンさえ食べている。
旧都市計画企業、コルホ−ズ「ロ−デイナ」は操業していないが、ほとんど各棟には、もっともきたない棟でも、数台のジ−プがある。ロシア本土よりここはその値段は安いが、それでも相当する。10年もの“ハイデラックス”は約7千ドルする。国後に唯一のガソリンスタンドのリッタ−当たりのガソリン価格は、25ル−ブルで、密漁船主(この地にはそれ以外は存在しない)は安い価格でガソリンを購入できる。隣り村に行けばもっと安い(モスクワと比較して)。そこでは戦車連隊が駐留し、兵士は大陸行きの切符代を稼ぐため、燃料を盗んでは売っている。
外国ブランドの数で海で働いている人の数が分かる。他の収入では自動車は無理である。シ−ズンともなると、ここではまさに漁の熱気が出てくる。国後沿岸で“事業”をしている資本家の出身は様々だが、モスクワ出身のものもいる。ここには監視機関が十以上ある。最も厳格なものの一つは、いかに不可解だろうとも、サハリン漁業海洋学研究所の研究員と思われている。漁期が終わった時でさえ、翌年の割当量を確定するための研究員の“学術調査”を認めないものはいない。これは次のような仕組みなのである。研究員が後援している会社は研究員に依頼し、一緒に海に出る。研究員は密猟者が相当な額の外貨を受け取り、何かあると漁民は監視員に彼を見せ、「権利はある」と主張する。
こうした猛烈な活動から地方行政に入る税収は滑稽なほどの金額で、登録会社600もあるにもかかわらず、年間7百万ル−ブルである。問題は海を管轄しているのが連邦政府であり、沿岸を管轄しているのが地方行政機関であることにある。漁獲割当量は多額の賄賂による本土で配分される。税務署員がちょっとでもその権利を発言すると、きわめてもっともな回答に出会う。「我々はすでに全員に支払った。いくらならいいのか」 ところが住民は怒っていない。ウニを採るため海に潜る漁民に最も多く支払う。シ−ズンの一ヶ月間に努力すれば、5千から1万ドル稼ぐことができる。だから、誰もかも、まったく経験のない者まで潜水夫に殺到する。そして経験のないものが死亡する。その遺体はひっそりと家に運び込まれ、親族は自分の寝床で死んだように装う。このことは書面のない契約で予め取り決められている。普通の船員は、船主が“見放さない”かぎり、月に2〜3千ドル稼ぐことができる。“見放す”ことには、どんな歯止めもかけられない。島はネヴェレスク、コルサコフ、コムソモリスクの犯罪組織が勢力分割していると言われている。しかし、彼らは些細な仕事をしており、海の仕事には介入しない。生きていたいのである。船主の収入についてのイメ−ジは、サハリン裁判所が審理した最近の“ユ−カル”社事件から浮かべることができる。この事件には三人が関与し、その中二人はユジノ・クリリスクの行政機関と特別海洋検査局に勤務していた。彼らの漁業セイナ−“ムリモレツ”は連邦保安局に拿捕され、そこで金額で千三百万ル−ブル以上のウニ、834700個が発見された。被告は恩赦で釈放された。こうした船はユジノ・クリリスクだけでも、十隻以上停泊しているし、さらに数隻埠頭にいる。
一坪たりとも渡さない!
ユジノ・クリリスクで選挙に巻き込まれた。我々が到着した翌日、地区住民は議員と首長を選ぶことになっていた。何があっても皆よく知っている。前市長ゼマには、住民全員、役所の職員でさえ不満をもっている。ホテルに入った時もまた不快なめにあった。このホテルは選挙戦指導者の一人、地域建設会社役員オフチンニコフの所有物であった。マスコミの代表として我々はただちに猛烈な煽動の対象となった。「ニコライ・セルゲエヴィチは、たいした人で、賃金をきちんと支払った..」と選挙要員の女性が喋りまくっていた。オフチンニコフ本人は支持演説をした色丹島から船で航海中であった。彼の執務室はこの建物の隣の入口にあった。そこには何もかも隣合っていた。オフチニコフの建設会社の事務所、オフチンニコフの水産会社「ナタリ」のオフィス、海洋検査局が並んでいた。建物のその他の部分は、人気のない窓が開いていた。事務所には時折小型トラックがやってきて、人が降りると、火山岩製の壁を砕いては、彼らだけが知っている場所に高価な建設資材を運び出していた。
わずか七千余りの有権者に八人の市長候補が立候補している。南クリル地区は二つの有人島、国後、色丹と小クリル群島から構成されている。選挙戦は静かに進められたが、最近競争相手同士でビラ作成を始め、どうにか和解した。面白い部分は、どの候補者も選挙戦の政策では、日本への島の返還あるいは返還しないことについて、おくびにも出していないことである。我々がホテルの掃除係り、オフチンニコフの運動員であるオリガ・レオニドヴナに、“何故に”とたずねると、「ロシアが日本に我々を渡すぐらいなら、我々がロシアをユダヤ人に売ったほうがましよ」と答えてきた。
選挙前夜、我々はこの地区唯一の新聞“境界線上”の編集部にいた。そこでロシア式歓待につきものである、くつろいだ話しを編集長プロトニコフ氏として時間を過ごした。彼は選挙には州行政が送り込んだニキ−チン候補か、“きさくなおやじ”イワン・サンジャロフ候補のうち、どちらかが勝利すると立証してみせてくれた。同紙はこの両候補を支持し宣伝活動をしていた。「だが皆、オフチンニコフを賞賛している」とそれとなく言ってみた。それにたいし、彼はKGBの素振りで、“人物プロファイル”と書かれた書類をファイルから取り出した。これが古典的な手法なのである。
彼自身、まだ70年代の頃、ブリヤ−トから国後に学生建設隊の一員としてやってきた。彼は最初の月給3600ル−ブル受け取ると、当地にずっと残る決心した。90年代、彼もまた南クリルの多くの島民と同様、きっと困窮しなかったに違いない。現在彼は四台の自動車を所有している。白い“高級”ジ−プを持ち、人との付き合いで疲れた彼は適当な場所にいっては、エンジンをかけたまま、よく居眠りをしている。さらに二台の“マ−ク2”を持ち、それに壊れた“ザポロジェツ”、これをだいぶ前から日本人にお土産として売りつけようとしている。この十年間にもたらされた困ったことと言えば、彼に関してはたった一つ、1994年の地震であった。この震源地は色丹島ではあったが、国後でも80%以上の家屋が現在非常状態にある。村全体を作り変えないですむように(どれほどの金が盗まれたことか!)政府は、島民に補償金を出すことにした。島民は2千万から2千5百万ル−ブル受け取った。もちろん、一部の島民はこうした金を簡単に飲みつぶしてしまったが、多くのものは本土の家を買い、島を去った。例えば、彼はモスクワ郊外のカリニングラド(現在のコロレフ市、航空管制センタ−のある町)に住居を購入した。「あそこは入口通路全体に“クリル島民”が入居している」 ところが最近国後島民が戻り始めた。それも一人ではなく、親族、知人と一緒である。彼もそこから戻ってきた。「万が一の拠点として、あそこに住居を所有していることはよいことだ。しかし、月二千ル−ブルであそこで生活はできない」
別れの乾杯をした後、彼は「突然地震があったら、建物から出ずに、素早く戸口に立つようにしたほうがいい。そうすれば、少なくとも頭上に何も落ちてこない」と忠告してくれた。
翌日の選挙がどのように行われるか、そのことについて地域の女流詩人、舞踊サ−クルのインストラクタ−、社会活動家ガリナ・ジリンスカヤがある誌を作っている。誌の題名は「ラズボルキノの選挙」である。ラズボルキノとは、ユジノクリリスクの隠喩表現である。
最も興味を惹いたのは、夕方、正確には夜のことであった。真夜中、色丹島からオフチンニコフ候補がやってきた。二時ごろになると、オフチンニコフ候補が勝利したことが早くも判明し、次点と二倍も差をつけていた。選挙本部では祝勝会が始まり、朝になると建設会社事務所に回りには、火山岩を運び出していたトラックのかわりにジ−プが勢ぞろいしていた。昨晩我々がその親切に甘えた編集長プロトニコフ氏も、自分の白いジ-プでやはり来ていた。しかしオフチンニコフの事務所にはスパニエル犬一匹が残され、寂しい目をして玄関階段をうろついていた。「今日はあなた方はオフチンニコフには会えませんよ。喜びの余り、自宅に帰ってしまったよ」と海洋検査局の検査官が我々に呟いた。
朝食、昼食、特に夕食にいたってはこの日、どこにも場所がなかった。朝昼と、食堂のある四つの建物全て勝者や敗者で一杯であった。彼らが去ると、その席は一般住民がうめた。これはまさに、ゼマの四年間が過去になったことの喜びであった。「今日はパリコミュ−ン祝いの日です」とウエイトレスが叫ぶ。その親切な編集長が我々にカフェのオ−ナを紹介してくれた時には、我々は最早空腹で死にそうであった。このオ−ナは人を押しのけ、我々のために個別のテ−ブルをころがしながら運んでくれた。
カフェのオ−ナは、ボグダンと言い、姓はアブアムであった。したがって、ボグダン・アブアムである。何故に彼がアブラムの姓なのかは、アブラム本人も知らないだろう。彼は西ウクライナ出身である。ロマンチックな気分で当地にやってきた。ある時軍隊で整列していた時、隊列にそってある将軍が歩いてきた。将軍の視線が勇壮なボグダン・アブラムにとまると、「名前は」「アブラム二等兵です、閣下」「勤務地の希望はあるか、アブラム二等兵」「出きる限り遠いところを望みます、閣下」。それでボグダンはユジノ・クリリスクにきたわけだ。
彼は五年ぐらい海を航海し、そして消防隊の隊長となった。“ブリガンテイン型帆船”が彼の夢であった。88年、海岸に土地を手に入れ、将来のカフェのための屋台骨を建てた。そして建設資金を稼ぐため、一時農場主になった。友人と一緒に彼は牛50頭と豚140頭を飼い、同時に消防士も勤めた。しかし、そこに本土から肉やその他の人道支援物品が入ってきた。これを展開したのが、役所出身の人たちで、地域生産者ボグダン・アブラムを代表とする競争相手がいるのは不利であった。一方、農場経営振興向けに島に拠出された融資金はこうした人たちの間で分けられ、“農場主協会”を設立した。そこで彼は“ブリガンテイン型帆船”の建設を決意した。消防署の給料1500ル−ブルは建設資材用にとっておいた。時には中断した。地震が味方した。ボグダンは破壊された建物残骸を集めた。我々が当地にくるちょうど一ヶ月前に“ブリガンテイン型帆船”は帆を上げたのである。ところが選挙が終わり、ボグダンには新たな頭痛の種ができた。彼は他の候補を推したので、オフチンニコフの仕返しを恐れている。ましてやボグダンは彼の商売敵である。オフ人ニコフもカフェを所有している。
水深53m
勝者オフチンニコフは肘掛け椅子に座り、ちょっと苛立ちながら電話やら、直々の祝辞から逃げ出そうとしていた。こうした役人をモスクワ市庁舎で山ほど見ることができる。彼の選挙運動につくした娘さんには「額にキスし、根気強く丁重に追い払った」と彼は言った。私には自分の選挙政策を反復し、国後に魚市場を作ると約束し、今年中にゴロヴニノ村では寒天採取を始めると、ほらを吹いてみせた。
彼の前任者ゼマは一見、感じがよく頭もよさそうさえ見えた。モスクワで知恵をつけた。現地人の彼に対する最大の不満は、市長四年間の中、一年間島外で過ごしたことである。大統領府付属経営アカデミ−で学んでいた。それも公費を使ってだ。見返りとして、日本人とメリットのある関係をもてるようになり、日本人はこの地域にすでに1千8百万ドル投資し、近いうちにさらに1千2百万ドル投資する予定である。デイ−ゼル発電所や日露友好会館、埠頭が建設され、児童用バスや数百トンのデイ−ゼル燃料、その他いろいろ多くなものを購入した。ゼマによると、新しい物件ごとに、日本人はクリルを日本に返還する請願書をプ−チンに書くように要求した。そしてゼマは手紙を書いた。手紙は無論のこと効力はないが、それで島はよく整備された。こうしたやり方をオフ人ニコフもとるのかと質問すると、新市長は「そういうことはしない。彼らは結局、金は出すだろうし、それは彼らにメリットがあるからだ!」と言った。
さらにゼマはゴロヴニノ村の寒天採取と引き換えに、コルホ−ズ“ロ−デイナ”の残党が所属するあるモスクワの会社が現実に5千万ル−ブルを受け取っていると述べた。我々はゴロヴニノ村に行ってみた。そこまでは53kmあり、その半分は潜水艦に乗って行けと、そのように地元住民がクリル道路のある区間の走行を呼んでいる部分である。
あちこちからはねが飛んでガラスを覆い、潜水艦乗組員になった気分となり、ただそれは泥の海である。ゴロヴニノ村は国後の最南端にあり、肉眼では日本は見えなかった。ここには150人住んでいる。村はイズメナ湾の海岸にあった。湾の名の由来は誰も知らない。最も賢い者の意見だと、ゴロヴニンという航海者がかつていて、そこで彼が裏切られたということだ。
湾内には貴重な二種類の生物資源がいる。こえびと寒天である。イズメナ湾は、イタニグサ(寒天の原料)が純粋種で生息する場所としては、ロシア唯一の場所である。これはジェット燃料の製造や、香水や食料品に用いられる高価な寒天製造に用いられる。ソ連当時、ここでイタニグサや海老をとっていた。今は海老だけである。5月12月の間、望むものは誰でも海老をとることができた。150名の住民には五箇所の貯蔵所がある。イタニグサはもう長年の間誰にも必要ないかのように、浜辺に散乱し、海水浴の邪魔をしている。需要はあり、サハリンのコルサコフ市にはイタニグサの必要な工場がある。必要なことはポンプ付きの採取船であり、さほど高いものではない。イタニグサの採取季節はもうすぐやってくるが、拠出された5千万ル−ブルを使ったどのような形跡もゴロヴニノ村で見ることはなかった。コルホ−ズ“ロ−デイナ”の旧出張所は、今では有限会社「パルトウソヴォ」と名乗り、コルホ−ズ株主を切り捨て、適当に埠頭を管理し、海老を出荷している。社長はユジノ・クリリスクに住み、ここには何ヶ月もやってこない。現在、そこには二名の従業員と7名の上司がいる。
しかし住民は海老だけでも十分暮らすことが出きる。例えば、ウラジ−ミル・ムラヴィエフは金のネックレスをつけ、日本の密猟者がまだこの地にいた頃、彼らからかっぱらったエビ漁セット一式をもっている。話をしていると、日本に50回ぐらい行ったことがあるとうっかり口をすべらせた。ここから日本に観光のため行くことはない。漁期になると、半年だが、雇いの猟師は月に7千から1万5千ル−ブル稼ぐ。やがて湾は凍てつき、住民は稼いだ金で半年暮らす。「ここで漁をするため、法律にしたがうとユジノクリリスクに行き、サハリン漁業局から一匹4ル−ブルのライセンスを購入せねばならないが、実際には検査官本人が当地に訪れる。なぜならこれは我々でなく、彼には必要なのである。彼にはプランがある。我々も残忍ではないし、人は生活する必要があることを理解している。“どのくらい売ればいいか。一万か。それで翌年まで彼はここには現れない」とムラヴィエフが笑った。
南クリル諸島で起きていることは全てゴ−ルドラッシュ時代のカリフォルニアにとてもよく似ている。新しいロシア西部劇を撮ろうと夢想しているかけだしの映画監督は、まさにこの地にくることをすすめる。択捉は最早こうではない。そこでは“ギドロストロイ”とう一つの大会社が何もかも手中におさめ、無秩序を若干沈静化させている。国後の場合、相変わらず止まることを知らない海賊的冒険心が支配している。土地と神の掟の前で冒険心に燃える彼らを正当化する唯一のものは、驚くべき連帯精神である。
どんな西部劇でも必ず登場する人物は、牧師である。国後にも牧師はいる。聖職名はアレクセイで、朝鮮人である。彼はここに6年前来て、年々西部劇の神父に似なくなっている。西部劇の神父は普通は生活環境に逆らわず、その一部となっているが、アレクセイはむしろ“カラマ−ゾフの兄弟”のアリョ-シャに似ている。捨て鉢の時には、彼は「私は朝鮮人だが、あなた方以上にロシア人だ」とさえ言う。
クリルにはカラマ−ゾフだけは多くいるが、彼一人では無理だろう。