ロシア最新ニュ−ス
2001年6月分履歴
6月28日(木)“超越した者”(完)
-“6月23日、ロシア正教総主教アレクシイ二世が白ロシアと訪れ、ブレスト市とゴメリ市に立ち寄る。ちょうど同じ時期、ロ−マ法王はウクライナ訪問をはじめる“-
(イズヴェスチヤ、6月22日、アレクサンドル・アルハンゲリスキ−、
ゲオルギ−・ボフト)
この二大スラブ民族国家(ロシアにつぎ)は圧倒的に正教信者を多いが、その離反は象徴的である。一方はロ−マ法王、他方はロシア正教総主教で、それは東洋と西洋のようにけして和合することはないだろう。だがロ−マ法王訪問と反対方向を行く総主教の訪問は二つの悲劇、戦争開始60周年とチェルノブイル原発事故15周年と関係していることは、きわめて演出的な深い意味あいがあるだろう。
第十五代総主教(総主教制はル−シ時代、1589年に制定)は、歴代総主教の中で最も活動的な人間である。それも、年齢71歳、さらに過密スケジュ−ルである。1990年7月10日から彼は管轄下にある124大主教管轄区の80箇所を訪れている。彼にとってこうした訪問はたんに“主教の義務”をはたすということだけはない。彼については、“自分の領地を巡回する”ということはありえない。訪問すると彼は何も言わず、任された教会の現状を学び、まるで耳を澄ますようにし、そして自己の行いをそれに合わせる。きわめて慎重である。けれども、まさに現実が要求すれば、過激で事実上単独行動もすることができる。たとえば、彼がエリツイン支持した1991年8月のように。
総主教アレクシイ二世は教会最高権力を与えられた正教の巡礼者である。彼は時代と地域がもたらした宗教政治家である。彼は教会の現実の作り手であり、担保でもある。ロ−マ法王との関係も含め、現代の多くの重要問題に関し、こうした教会の現実と彼個人の立場を区分するためには、アレクシイ二世の複雑な経歴を明らかにする必要がある。
未来の総主教、俗名アレクシイ・ミハイロヴィチ・リデイゲルは1929年2月23日、エストニアで生まれた。彼が敬虔な正教信者家族や第一波亡命者の中からただたんに生まれたわけでない、その理解はとても重要である。彼の父は早くからペテルブルグからタリンに移ったが、母はレ−ヴェリ(現在の首都タリン)生まれで、一度たりとも逃亡の経験はなかった。歴史の命令により、ある時彼女はロシア帝国の市民からブルジョア国家エストニアの市民となった。
そうしたわけで、アリョ−シャ・リデイゲルは、同年齢の信者の多くが体験した挫折を免れた。しかし、こうした挫折経験は事実上、現在の“不幸で結ばれた同志”、最高宗務院のメンバ−共通のものである。彼はソ連時代の“司祭の子”のように自分が脱落者と感じたことはなかった。さらに移民の子のように、追放者と実感したこともなかった。彼は、若干民族主義的には傷がついたとはいえ、普通の資本主義国家の中で正教徒の子供として成長した。彼にとって、信仰や生活感覚はそもそも最初から自然なものであった。その行為、考え、お勤めが自然そのものであることは、今日でもはっきり見ることができる。
しかし1940年、ソ連はエストニアを占領し、その後ドイツの占領下におかれ、やがて再びソ連軍が侵入した。そしてまったくそれまでと異なる生活が始まった。自由を奪われたロシアの教会は戦後、驚くほどの“人材不足”に見舞われた。有能、敬虔な信者、高い教養、そうしたものを身に付けた青年は出世名簿に必ず載せられた。1950年修道司祭に叙聖されたアレクシイは1961年、タリンとエストニアの主教となった。1964年渉外部副部長となり、その年大主教アレクシイはモスクワ総主教管区総務部長となり、最高宗務院の一員となった。
ロシア正教会にとって当時何があったか、説明するまでもない。フルショフ時代の雪解けにより、ひとかけらの自由が60年代進歩社会活動家に与えられると、一転して信仰全体にたいする迫害となった。こう言ってはなんだが、フルショフは正教絶滅をその目標とした。1968年に大主教になったアレクシイのような人は、うまく立ち回り、慎重に行動し、プレ−のル−ルを守らざるえなかった。そうした人をKGBに協力したとして非難することは馬鹿げている。社会主義ポ−ランドで他のやり方で身を処した他ならぬロ−マ法王の例をあげるのは、不誠実である。協力することが良いという意味ではない。それはソ連では体制に抵抗する正教の宗徒衆がいなかったからだ。信者の意識が別のものであれば、大主教たちも別な行動をとったであろう。しかも、そのような見込みがもたらす不幸な結果を否定することは意味のないことである。汚れた水に喉までつかる生活であれば、清潔さなど守れるはずもない。
そして個人の本性にソヴィエトの体験がへばり付きはじめた。最初の自由な感覚は隷属の習慣と切ってもきれないほど混ざり合ったのである。そこにペレストロイカが突然とどろいたのである。そのことに教会の世界がいかに期待をかけたことか。総主教となったアレクシイ二世本人は、登位式の演説で教会教育の復活、文化との融合などを呼びかけた。しかし、ゴルバチョフが政権を離れ、十年経った。教会は多くの聖堂を復活させ、修道院は誇り高い地域ではどこにでもある。だが文化との融合はないままである。育成もさほどうまくいっていない。経済の大変動や社会の大異変により、教会の天門には狼狽した落伍者の群れが殺到し、教会に永遠への道を求めるというより、むしろ差し迫った心の救いを求めた。中には自分勝手に、自己の無知、自己の強い恐怖心、密告するという己のソヴィエト的体質を教会のせいにした。
まさにこうしたことを総主教は、府教管区を際限なく巡りながら目の当たりにしている。こうした雰囲気を考えないわけにはいかなかった。それと言うのも、彼には状況を素通りする気持ちがないからである。もちろん、ロ−マ法王との会見を彼が拒否する最大の理由は“抵抗するという人間の性分”にあると見るのは正しくない。本質的な宗教的理由も妬み(これは、総主教の故郷であるエストニア正教会区の運命について、モスクワとコンスタンチノ−プル総主教教会との対立から明らかである)もある。いずれにしてもこの原因は存在する。教区を見れば、司祭がわかる。総主教はロ−マ法王と会うべきでない。そうしないと、多くの教区は総主教の理解をやめ、正典どおり服従しなくなり、分裂が始まるだろう。
これが今日のロシア正教の現実である。こうした状況にあるので、総主教はロ−マにたいし、一貫して厳しい態度を見せなければならない。ブレストの要塞では一歩も退けないが、しかしチェルノブイリでは一歩も前進できない。
今日行われているロ−マ法王ヨハネ・パウロ二世のウクライナ訪問は、彼の94回目か、96回目の海外旅行だろう。ウクライナは、彼が足を踏み入れた旧ソ連邦五番目の共和国(リトアニア、ラトヴィア、エストニア、グルジアの後)である。ロシアの正教界は、この訪問を過敏にとらえている。もちろん、ル−シ時代キリスト教はキエフが発祥地である。まさに1054年、カトリックと正教が分離するまではそうであった。教会間の千年戦争は、東西冷戦終結後の今日でも続いている。ロ−マ法王は第二次世界大戦終結のために、かなり多くのことをした。しかし、教会の敵意は、はるかに複雑である。高齢の法王は最早、その和平も勝利も、それどころか敗北も見ることはできないだろう。
ロ−マ法王訪問は、ヨハネ・パウロ二世を反キリストの使者として烙印を押した正教プロテスタント三千人により警告された。だがこうしたことは、彼には慣れっこになっている。その上、彼を見ようと、その発言を聞こうと、二百万人近くが来ると言われている。反キリストは、天国のことではなく、地上のことを問題にする時、しばしばいたずらに用いられる。ウクライナにおけるカトリックをめぐる争いは、1054年よりも若干最近の歴史がある。1946年、戦時中の(西ウクライナ)カトリックの行為に腹を立てたスタ−リンは、カトリック教会“地方支部”(ギリシャカトリック)を禁止し、その資産は共産主義無神論を受け付けないとする考えを捨てたロシア正教会の主教たちに与えたのであった。ギリシャカトリック(ウクライナにはこれは5百万、さらに百万はロ−マカトリック信者)は資産について1991年思い起こしている。当時、ソ連共産党から歴史の見直しの許しが出ていた。その頃になると、“住宅問題”が正教間の関係も破綻させていた。その結果、今日府主教が代表するウクライナ正教会キエフ総主教管区は250万信徒(ウクライナ正教徒1千万のうち)の引渡しを要求するが、アレクシイ二世が代表するロシア教会はそれを“正当なもの”と見なしていない。府主教は、ロ−マ法王来訪を歓迎したが、アレクシイは改宗行為、つまり正教の地にカトリックを布教するとしてそれを非難した。植民地政策時代、英国、フランスの影響範囲が存在した。違反すれば、戦争であった。今日教会戦争(十字軍の行進や冷戦と異なり)は、信者の賛同なしに行われている。資料によると、ロシア人の35%(50%は無関心)はロ−マ法王ウクライナ訪問を歓迎しているが、その48%(41%は意見なし)はロシア訪問も歓迎してもよい。
ロ−マ法王は81歳である。彼は病弱であり、バチカンの仲間は隠居すべきだと、噂を流している。しかし、1978年に登位したロ−マ法王は、それを手放すような人間ではない。彼は1920年5月5日、ポ−ランドの僻地ヴァドヴィツイエで、退役下士官の家に生まれた。九歳の時に母を失い、やがて兄がしょう紅熱で死んだ。生活は質素であったものの、困窮はしていなかった。第一次世界大戦の功労者である父の年金で賄えた。中学生時代、彼は村の芝居小屋でアマチュア演劇にのめりこんだ。観衆でいっぱいになった。それは現在、聖ペトロ広場での彼の日曜説教のようなものであった。そこで、彼は宗教とハプニング劇をどのように合体するか、その手本を見せている。その上、ロ−マ法王は彼の分かる言葉(いろんな意味で)で広場と対話する。世界のあらゆるところからミサに訪れた人々は、それぞれの国の言葉でそれを歓迎している。
1938年男子だけの中学校を卒業すると、クラクフ大学に入学した。1939年9月1日、ドイツがポ−ランドに進撃した時、彼は聴悔司祭のところで懺悔をしていた。戦争当時、人々はさまざまな道を選択した。人によって地下に潜ったり、親共産主義人民軍に、ロンドン亡命政府指揮下のクラオヴァ軍に入ったり、あるいは親ソポ−ランド軍で戦ったりした。また神の思し召しで救いがやってくると、ただ期待していた人もいた。これに当てはまるのが、若きロ−マ法王であった。生活のため、労働者になり石切り場や工場で働き、読書時間をより多くとるため、出きる限り夜勤を選んだ。幸いなことに、占領軍はノルウイドの誌やキリスト関係の哲学書は禁止しなかった。
ポ−ランドのカトリック寺院は、いろんな抵抗の砦の一つとなった。武器をつかった抵抗か素手による抵抗と様々であった。クラクフの司祭たちは、若者教育のため“人の数珠班”を作った。そこに彼も参加した。戒厳令と人質が銃殺されるという中で毎週会合が開かれ、個人の自覚とキリスト教の道徳について話があった。これは抵抗と言えないかもしれない。その上、“数珠班”は地下グル−プには協力しなかった。と言っても、こうした行為でさえ、アウシェヴィッチ送りの危険があった。
カトリック司祭になるときめた彼は、クラクフ神学校に入学した。これも地下の学校であった。ドイツ人は新たな司祭募集は禁止していた。戦後1946年、“洗礼者ヨハネの教えの神学的道徳”というテ−マで学位論文を書くため、ロ−マに行った。
そこで国際神父学校“ANGELICUM”に入った。1947年、神学卒業試験にパスし、枢機卿サペガは“ヨ−ロッパ巡回”のため、彼に若干の金を与えた。それは目的とおり使われ、1948年夏、ネゴヴィツイの貧しい教区の司祭代理としてポ−ランドに戻った。大司祭ヴイシンスキ−が体制との妥協点を維持しようとあらゆることをしたが、当時すでにポ−ランドの新政権は教会に取り入ることは止めていた。1953年、彼はクラクフ神学校の講師となった。出版物にアンジェイ・ヤヘンというペンネ−ムで彼の詩が掲載された。今日人々は丁重にコメントしているが、音節詩は”難解“である。
1958年9月28日、クラクフのヴァヴェル聖堂で彼は主教に叙聖された。当時主教の数は足りず、また国家は“手なずけ”ようとはしたが、カトリック寺院を監視から外さず、自ら候補者選出をかってでた。彼がクラクフ大主教管区(ポ−ランド枢機卿の中心地)の司祭に承認されると、当局は彼とヴイシンスキ−との将来の摩擦に大いに期待した。彼はこうした期待に応えることはなかった。大司祭にたいし、宗教上の父とする態度を守り、ロ−マ法王になった後にも、彼の前でひざまずいた。バチカン史でこうした例はそれまでなかった。
戦後彼はその神学求道を愛にささげている。これについては多少彼に内在する解放性とともに、多くの論文が書かれている。「主は男女の愛情関係に崇高な使命と意義をあたえている。それ故、互いの性欲としての愛は精神的な愛と不可分に結びついており、“肉欲的”なものでも、“道徳的”、即ち新約聖書の道徳に合うものであれば、人の心を辱めるものではない」と彼は書いている。
ポ−ランド統一労働党とカトリック寺院の関係は、愛で彩られたものでないにしても、ソ連時代のロシア正教会の現実とけして似ているものではない。困難な時期、例えば1956年と1980年、国家は場合によっては譲歩もしてカトリック寺院に支持さえ求めた。枢機卿となった彼は、政治には関心なかったように思われる。普段の生活は静かなものであった。彼には財産はほとんどなかった。絵画も本でさえ収集することはなかった。彼の運転手はその擦り切れた靴と着古した枢機卿の僧衣に驚かされた。ただロ−マ法王の高い地位が結局、彼の身だしなみをしっかりとさせた。
ロ−マ法王となった最初の数週間から彼は、世界を積極的に巡り出している。現時点で実現していない夢はたった二つ、ロシアと中国の訪問である。ヨハネ・パウロ二世は平和活動の努力で名声を得た。例えば彼はフォ−クランド紛争の調停にも参加した。それでも、旧ユ−ゴスラヴィアの和平にたいする彼の呼びかけは効果がなかった。中東も同じである。カトリックの立場を強化する方針を彼は常に次のように理解している。「この使命を遂行する上で、教会は時代遅れになってはならず、政治的にも、文化的にも、道徳的にも、哲学的にも古代の遺物になってはならない」 まさにそれ故にこそ、ガリレオやブル−ノの名誉回復したわけである。そして彼は中東に赴き、洗礼者ヨハネの頭部が葬られている1300年歴史のあるウマイヤ回教寺院に入った。その後で回教徒との共同集会や説教でユダヤ人との和を唱えた。ロ−マ法王が発言していない現代のことはもうほとんどない。最も予期せぬ発言の一つは、“精神と道徳の貧困化”のおそれのある西欧の生活様式を否定するよう呼びかけたことである。ヨハネ・パウロ二世は「最先端技術の時代、我々の生活はますます無個性になり、その結果人間は最早神が創造した美を歓喜することがない“、そうしたこと危惧している。いずれにしても、この点ではロ−マ法王はそれなりに一貫性があり、カトリックでは信徒を”僕“とか、”神の僕“とさえ呼ばないことになっている。
6月21日(木)
“その時、ロシアは自尊心をもち、国民は互いに尊重しはじめた“
-“ロシア独立記念日、エリツイン、テレビインタビュ−に答える“-
(STRANA.RU、6月13日)
-国の状況と政治勢力の関係をどう見ていますか
「よく覚えている。今目の前に、人々の中でロシア連邦国家主権宣言を採択した様子が浮かびます。圧倒的多数が賛成した時、すかさず全員立ち上がり、「ロシアは自由になった」と叫び繰り返しました。しかし、これは単なる宣言ですが、その後本番が始まったわけです。ロシアを作り変える必要がありました。ロシアを解放し、人々を解放し、それらを自由にする必要がありました。マスコミを自由し、まさに市場そのものを自由にする必要がありました。こうしたことは全て最初の歩みでしたが、その後続いた改革、そうしたものの基礎となった。まさにこの基礎が私の時代に敷かれ、これがしっかりした基礎であると誇りに思っている。これは何世代にもわたって建てられる家でも持ちこたえられるはずです。実際マスコミはこのプロセスの直接参加者であり、マスコミはより自由になったことも誇りとしている。多元論はそのまま残った。しかしそれはより敵愾的なものとはならず、より温和なものとなった。この多元論とは対立のことだが、今やその対立はなくなったとさえ、言えるだろう。つまり政治状況がより穏やかなものになり、人々が自信をもてるようになった。何故なら国会を見て人々はそのことで興奮状態になっていた。と言うのも、国会では政治争いが始まると、喧嘩、本当の喧嘩になってしまった。覚えているのでしょう、ジリノフスキ−たちのことを。今はかなり穏やかになり、今はいずれにしても、中道主義が機能している。中道主義と言っても、単に漠然とした意味ではなく、専門家、つまり国の出来事にきわめて責任感のある人々の選択としての中道主義のことです。そしてまさにこうした中道主義者が現在主に国会でも取り仕切っている。これはとても良いことです。正しい決定がされていますし、国会は今、以前よりはうまく機能していると考える。私はロシアを愛していましたし、愛しています。ロシア人を愛しています。ロシアが自尊心を持つようになり、国民が互いに尊重し合えるようになったロシアの日、ロシア独立の日、自由ロシアの日を喜んで祝います。何もかも目下順調で、あらゆる問題が解決されている。しかしかなり徐々にではありますが、それでも解決されている。こうしたことは政府も分かっていますし、大統領もよく分かっています。親愛なるロシアの人々、おめでとうございます。生活、家族、仕事の無事といつまでも幸福であることを祈ります。
-プ−チン大統領と米国ブッシュ大統領の第一回会談が間もなく行われます。初めての会談ですので、きわめて重要な会談です。閣下には確か、米国首脳との交渉でのつき合いに大きな経験があります。露米首脳交渉で何か特殊なことはありますか-
「あります。一つは、米国人は交渉前の期間を重要視します。彼らは何らかの優位性をもって交渉にのぞむため、すこしでも何か得点をあげるため、状況を作り出そうとします。つまり、そうやって力の立場からプレッシャ−をかけるのです。簡単に言えば、これは強迫であり、あの青年を直接見定めるためにプ−チンと会いたいという、若いブッシュのこうした発言さえ、大統領サイドから乱暴に聞こえてくるが、しかしこれがアメリカのスタイルなのだ。こうしやり方には慣れる必要があります。どんなことがあっても、このような圧力に屈しないために、こうしたやり方に慣れる必要があります。彼らは一度たりとも、私を屈服させたことはないし、こうしたやり方は通用しなかった。今回、プ−チンにたいしても通用しないと思う。我々は、私が彼に政権を禅譲した時、予め合意したように定期的に会っている。
-どの程度、頻繁にお会いしているのですか-
「だいたい、月に一回程度です。この前会ったのは、5月10日です。これはすばらしい会談です。相互に尊敬し、相互に支えています。もちろん、私は彼と話しはしますが、有無を言わせぬ助言はしていません。そういうことはすべきではない。彼が大統領だ。彼が決定し、彼が全てに、全ての自分の決定に最終的に責任がある。だから、私の経験でさえ、助言しないほうがいい。しかし、話し合い、自分の見解を述べることは面白いことだ。彼は深く考えている。彼は自分の決定を考え、他と比較し、そして下す。もちろん、この前会った時、中ロ関係にも触れた。それと言うのも、私が中国に行くたいを言ってあったからだ。彼は私の旅行を歓迎し、それは政治的にとても重要だと言い、この旅行や江沢民との会談について述べた。さらに我々は対米関係の若干の問題についても意見交換し、また多くの問題についても意見を述べあった。人事問題は、これは彼の選択問題だ。自分のチ−ムが従順で、忠誠心があり、人間的で朝から晩まで働くように、自分のチ−ムをそろえる必要がある。まさにそうしたものがチ−ムであるべきで、このチ−ムは自分のチ−ムでなくてはならない。彼は今そろえています。最初はまわりの様子を見て、よく考え、なにもかも研究した。今は徐々に自分のチ−ムをそろえている。そうだとも、これは大統領の仕事だし、権利だ。
−現在の大統領と閣下がうまく共有しているような何らかの大統領の秘密は存在しますか−
「あのね、話には前置きがある。古い指導者と新しい指導者が会う。そこで新しい指導者が古い指導者に、もし困難でうまく事態が進まない場合、どうしたらよいか、とたずねる。古い指導者は彼に答えて、「俺はお前に二つの封筒を手渡している。困難な場合は一番目の封筒を開けなさい。まったくだめな時は二番目の封筒を開けなさい」と言う。そこで事態が困難で耐えがたく悪くなったので、若い指導者は第一の封筒を開けることにした。そこには「古い指導者を非難しろ」と書かれていた。彼は古い指導者を非難し始め、事態は好転した。しかし暫くして、事態は再び悪化した。彼は二番目の封筒を開けてみた。そこには「二つの封筒を用意しろ」と書かれていた。ついでだが、プ−チンが古い指導者を非難していない、つまりこれは彼の仕事がうまく行っているということだ。すくなくとも、悪くはない。だから、なんらかの助言も秘密もない。はっきりとした目的をもち、動揺しないことです。プ−チンは多くの仕事をこなし、粘り強く働いている。スケジュ−ルは一杯だ。このスケジュ−ルからはずれずに、最大の目的を見逃さず、今後は緊張感をもって働くべきだ。最大の目的とははっきりしていますが、ロシアの改革です。改革の実施、改革の継続です。まだ軍部や、行政関係、住居・公共サ−ビスその他の分野の改革には手がついていません。もちろん、今は国会でのやりとりも容易になり、国家国民に必要な法案の通過も容易です。したがって、当然のことながら、情勢はより穏やかにで、政治的にはより安定している。こうしたことや、プ−チンのことをよかったと思っている。
-閣下は大統領のチ−ムについて触れました。これはどのようなものであるべきですか。マスコミではいわゆる人事の継承性問題が活発に議論されてきました。閣下が任命したかのような人々、つまり大統領時代、閣下がそれぞれにポストに任命した人々は、今そうしたポストに何らかの期間、例えば一年間とか、残る義務があります。閣下自身、このことについてどう思われますか-
「ばかげたことだ。そんなことはない。継承性などありえない。大統領ごとに自分のチ−ムをもつべきだ。彼は誰かを残すかもしれないし、彼が気に入った者、適材のもの、専門家、国のことを憂慮する者、多く根気よく働く者などを。新人や若手、もっと若い人を選ぶかもしれない。これは彼の権利だ。私のチ−ムもあった。立派なものだった。多くの仕事をし、よく働いた。
-“家族”という言葉についてたずねないわけにはいきません。各紙が、あたかも閣下大統領時代、家族が現実には国を牛耳っていたかのように、多く書いています-
「“家族”なんてまったく作り話だ。これは当たり前の現象だ。(続く)
6月13日(水)
“核貯蔵所の秘密”
-“ロシアに核廃棄物持ち込む米国諜報機関とフリ−メ−ソン“
(VESTI.RU、6月11日、ドミトリ・スタロスチン“
ウランをめぐり、石油ガスや金ダイヤモンド輸出以上の金が動いていることは、多くの人は知らない。1998年5月、原子力省大臣ヴィクトル・ミハイロフは当時“ウラン・ゴ−ルデン・アダ”と呼ばれた“プレヤデイス”社との疑惑でそのポストを失った。身代わり役をしたのは、雑誌「ペントハウス」ロシア語版元発行者米国市民アレクサンドル・シュステロヴィチであった。
シュステロヴィチが設立した会社“プレヤデイス”は社員3名ではあるが、ロシア原子力省が国外に設立した会社「GNSS-デラヴェル」の株式49%を25万ドルで購入した。この会社は米国内にウラン倉庫を建設し、そこに持ち込まれたロシアのウランで商売するはずであった。ミハイロフに代わって原子力省大臣になったエフゲニ・アダモフにより協定が破棄されなければ、契約条件では「GNSS-デラヴェル」社の社長となるシュステロヴィチ氏がロシア製ウラン売却手数料役4億9千万ドル手に入れるはずだった。さらに彼は、米国における全ロシアウラン原料資産をとりしきるはずであった。(続く)
6月12日(火)
-“独立新聞の読者、パ−トナ-、執筆者、スタッフへ”
(独立新聞、6月10日、ヴィタリ・トレチャコフ:独立新聞編集長)
優秀なソヴィエト時代のジャ−ナリスト、ヤロスラフ・ゴロヴァノフには小説があった。今では知る人もほとんどいないだろうが、覚えているし、読んでもいる。間違っていなければ、題名は「雷鍛冶屋」だ。小説は半ば空想的で、半ば現実的なもの。主人公はソヴィエト宇宙飛行士で金星飛行の準備している。だがこうしたこと全てまったくありふれた日常事として、この小説が書かれ、読まれた当時そのものの記録として描写されている。一言でいえば、「雷鍛冶屋」は魅了するソヴィエトロマンチズムの最も純粋なモデルであり、その好みは誰も、いかなる時も実感できないものである。私は、ヴィカ・ショ−ヒナが表現したように、“ソヴィエト古典美時代”のこの単純な小説がとても好きであった。しかし今問題としているのはそのことではない。この小説の中のたった一節、私の全生涯の記憶に刻み込まれたたった一節のことである。
「何もかもいつかは終わる。隣人の歯磨き粉でさえいつかは終わる」 まさにゴロヴァノフ「雷鍛冶屋」の主人公は正しい。全ていつかは終わる。際立って興味を引き、比類ない、そして絶えず人の心を惹きつける仕事も、“独立新聞”編集長で終わる。私以外、誰もこれまでこうした幸せを味わったことはない。それ故誰も、オリュンポスやパルナックスの神々に匹敵するこのポストを私が捨て味わうこと全ては理解できないかもしれない。
ロシア民主主義の無慈悲にて優雅な古典性(1990年代)、当時カオスからいろいろな秩序が生まれかかった(結局誕生することはなかった)。きわめて幼稚なものも含めいろいろな秩序が“独立新聞”も生み出した。私はただ産み落とされたものを手にし、それを育て上げた。今や、一人歩きできるだろう。
けれども、感傷はもうよそう。社会進化論は有無を言わせない。自由になったほうがよい。ただ冷静にそれもまったく誠実に起きていることを分析するだけだ。いかなるセンチメンタリズム、ロマンチズムも最初に滅びる。真実のところ、厚顔無恥な人も最終的には勝利することはない。健全なオプチミズムとは何だろうか。ただそれは、すくなくとも健全なペシミズムの裏返しである。
私は“独立新聞”の城壁と紙面から去る。これが最終号であり、これからの数号でもしかしたら、私にたいし反響があったとしても、これまでの2412号と同様私に全ての責任がある。
ここ数日(6月6日から)私の電話は鳴り止むことはなかった。時々同時に受話器を置くか置かぬうちに、再びベルが鳴ったこともある。ここ数日最も耳にした言葉は“ショック”であった。そして援助の申し出がいつまでも続いた。
私はなにかこうした事が起きると知っていたし、確信していた。しかし、そのスケ−ルは予見できなかった。
ありがとう!しかしより平常心になる必要がある。そして若干浅はかだとあえて認めたい。民主主義も、言論の自由も、思想の自由も“独立新聞”だけに限るものではない。そしてそれがいかに私の自尊心を満足させるものであろうと、私だけではない。それでもまさに“独立新聞”こそが今日までその手本を示してきた。それも他紙より頻繁に、他紙より体系的に示してきた。
“独立新聞”の多くの弱点を私以上に知る者はいない。しかし最早それを語る道理は私にはない。若干のことについて語る(書く)べきかもしれないが、ある出来事やある人々は、“独立新聞”のここ数日の私の運命にたいし、それ以上やる時間はないと、そうした調子で迫った。
一つのことは、言わないわけにはいかない。1995年(どんな考えかは重要ではない)ベレゾフスキ−が“独立新聞”復活を支援した。そして最も重要なことは、彼は物理的に限られた枠内で私が欲しなしえたこと、そのことに干渉することはなかった。これに関してはベレゾフスキ−に本当に深く感謝する。私の見解では、彼の間違った、そしてロシアにとっても、ロシアジャ−ナリズムにとっても、彼本人にとっても為にならないこの決定とそこからくる不可解な振る舞いがあるにせよ、この感謝の大きさに変化があるもではない。
“独立新聞”全読者に感謝する。特に読者の方々の関心事には我々は完全に満足できるように努めた。いつもそうとはいかなかったが、それでも常に努めてきた。
我々のパ−トナ−にも感謝する。実際、全てにたいし、我々の約束を遂行したわけではない。許してくれ、これは悪意からではない。特には形容しないが、“独立新聞”執筆者の方々(数千人)には感謝する。私は編集員にたいし、常にただひとつのことを指針とするよう求めた。「面白い記事は何も削除せず、ましてや何も加えずにそのまま記事にしろ。つまらない記事はゴミ箱にすてろ」
こうしたスタッフなしで“独立新聞”が存在しないのと同様、本紙のレギュラ−執筆者なしには“独立新聞”は存在しなかったろう。執筆者は無数いた。
スタッフと記者の諸君は私のことをとてもよく知っていた。だから無駄な言葉はいらなかった。必要なことだけを言った。ありがとう!
私が多くの苦境から諸君をうまく守れなかったことを知っている。生活を快適し、仕事はこうした生活のただの心地よい補完物にする、そのように諸君にしてあげることができなかったことは知っている。
しかし、(ジャ−ナリズムと政治における)自由と裕福は両立しえないものだと、多くの者は主張している。分からないが、もしかしたらそうかもしれない。
特に諸君の働きにはとても感心している。しかしこのことを日々言うことはできず、もしそうすれば、諸君は自己への憐憫の情をつのらせるだけだろう。自己を哀れんではいけない。諸君は自己を誇りとおもうべきだ。諸君は最高だ!
この点だけは諸君は私を非難できないかもしれない。私は諸君が思っていないことを書かせはしなかったし、諸君が思っていることを書かせないようなことはしなかった。この十年半、ロシアに“独立新聞”より自由な新聞は存在しなかった。そしてこれは諸君と私の自由であった。
厳密に言えば、“独立新聞”はとにかく“自然の法則”に逆らい、生き続け、生き抜いたのである。この新聞はとっくの昔に滅んでいるはずであったが、しかし生き続けた。これは奇跡だ!
時間が足りなくなり(ここ五日間)、その熟考には数日必要な決定を瞬時に呑まざるえなかった時、瞬間熟慮すべき言葉が脳裏をよぎった。こうした決定や発言はお前の運命だけでなく、その他数百の人々の運命もかかっている(“独立新聞”には300人以上の人がいる)。お前とお前に関わり、自分だけのために決定できる人たちでは、時間は異なる速さで流れていると、肌身で感じはじめた。こうした時、トップの人間の責任は計り知れないものだが、それは特に厳しさと冷酷となってしばしば現れる。私は多くの人と話し合うことはできず、多くの人に電話せず、多くの人に感謝することができなかった。きっと、ある人やある事については忘れてしまってさえいたのかもしれない。それは知っている。だが私は誤りをおかしていないと思いたい。少なくとも、重大で許しがたい誤りはしていないと思いたい。
私は欲したが、“独立新聞”で為しえなかったこと、それはあらゆる人々にたいする私の義務である。自分の全ての責務は私と共に持ち去るつもりだ。
何もかもいつかは終わる、隣人の歯磨き粉さえいつかは終わる。これは正しい。しかし、この歯磨き粉で最後だと、誰が言っただろうか。チェ−ホフだろうか。我々は新しい園を作るつもりだ。もちろん、私はこの立派なフレ−ズのもつ意味は分かっている。それも最も悲観的意味も含め分かっている。しかし、何よりも面白いのはチェ−ホフそのものを読むことであり、それと同じように私にはこのフレ−ズを文字通り読む習慣がある。
新しい園、そこで再会する!
追伸:今私をどこで探せるかと多くの人がたずねる。友人や“独立新聞”執筆者を介して探してくれ!!
6月10日(日)
-ロシア政府、“金で支持する”よう日本に求める-
(イズヴェスチヤ、6月9日、エカテリナ・グリゴリエヴァ)
プ−チン大統領と日本経団連とはすでにそれなりの歴史がある。昨日クレムリンで日本企業代表は昨年東京訪問時に述べたプ−チン大統領の言葉を回想した。「私はロシアを変えるつもりです。だからわが国がどのように変わりつつあるか、自分の目で確かめるため、わが国に来てください」
そして彼らはやってきた。総勢250名、三つのグル−プに分かれ、一週間各地域を遍歴し、最終ゴ−ルとして、13名の企業代表がクレムリンのエカテリナホ−ルでロシア大統領と会談するため派遣された。
ロシア副首相や大臣、アレクセイ・クウドリン、ヴィクトル・フリステンコ、ゲルマン・グレフは愛想のよい笑みを見せ、プ−チン大統領は日本の“財界人”と握手した。会談はとても短いものであったが(通訳をいれた意見交換は、一時間もなかった)、双方はこの会談には真剣に準備した。日本側は予め、日本企業にたいし、ロシア経済でとりわけ何が怖いのか、アンケ−トをとった。回答幅は大きなもので、法律が総じて不備であるや、製品分配協定に一部欠陥があることなどである。
法律に関し、日本経団連代表は昨日国会ではっきりさせることができた。「議員は状況改善に文字通り意欲をもっている」と彼らはロシア大統領にその印象を述べた。製品分配協定問題に関しては、閣僚らは早急に取りかかると約束した。
ロシア側は具体的投資プロジェクトよりもむしろ、協力の全体的方向性に関心をあった。大統領も、閣僚も本質的には、同じ願望を示した。プ−チン大統領は会談開催にあたり、日本経団連は日本の貿易方向の決定に著しい影響力をもっていると来賓に思い起こさせた。その後でこの考えをヴィクトル・フリステンコが引継ぎ、「日本経済界はロシア側にシフトすることを金によって明確にすべきである」と述べた。
今のところ誰も特に支持しようとしていない。日本からアジア太平洋地域に投資された総額(数百億ドル)の中、ロシアにはほんの数パ−セントである。
会談の中心には経済問題はまったくならなかった。日本経団連会長今井敬は日本首相小泉純一郎の親書を手渡した。この親書で同首相は二国間今後の関係について繊細でダイナミックな見通しを述べている。「常軌を逸した決定を恐れず、既存の利害関係に臆せず、過去の経験に縛られるべきでない」
6月9日(土)
“通貨市場自由化と予想される結末”
-輸出企業売上金強制売却廃止後の危機は、1998年事件に匹敵するかもしれない-
(独立新聞、6月5日、ヴャチェスラフ・パンフィロフ)
通貨管理政策のどのような変更も、国内経済発展総合プログラムの枠内で検討すべきである。こうした理由により、各々の施策の予想される結末の分析は重要である。これには国内経済にたいするその影響の数量的分析も含まれる。
外貨売上金の強制売却基準の低下もしくは放棄すれば、輸出業者は長期間国外に膨大な資金を保持しておくことができる。ロシア国内でこうした資金の換金は、特に国内において強制支払いの必要性によるものとなるだろう。ここでは企業にとって大規模支出項目は先ず、納税であり、第二に輸出品生産と関係する経費補填である。強制支払い額は明らかに輸出総売上の75%以下であり、基準引き下げは十中八九、国内市場への外貨供給量を減らすことになる。
国外に売上金保持に輸出業者を走らせるさらなる要因は、止むことなく強まるル−ブル切り下げ期待である。国内市場における外貨供給がはっきりと低下し、投資家の平価切下げ期待高まると、特にロシア中央銀行の金外貨準備高が減少する形で現実に確認されると、国内経済は利率が急激に上昇し、貸付価格が高いものになる。
こうした条件で政府は、新規の国債発行が困難になるおそれがあり、当然内債問題を深刻化させ、通貨当局はロシア銀行から予算にたいする直接貸付け額の増加を余儀なくされる。最も悲観的シナリオでは、国内通貨レ−トの不安定性増大と絡み中央銀行の増刷が1998年〜1999年危機規模に匹敵する平価切下げ・インフレスパリラル形成に拍車をかけるかもしれない。
通貨市場自由化影響の数量的評価
2000年、市場にたいする実質通貨供給量は581億ドルもしくは、国外輸出額の約64.1%であった。この内、約383億ドルがモスクワ外貨取引所(MMVB)の枠内で売却され、約198億ドルは輸出業者から直接中央銀行が購入した。(続く)
2001年6月7日(木)
“独立新聞、三度目の死”
-トレチャコフ時代の終焉-
(イズヴェスチヤ、6月7日、アンドレイ・コレスニコフ、ミハイル・ルイビヤノフ)
昨日ロシアの新聞“勢力図”を大きく塗り替える事件が起きた。“独立新聞”の株式80%所有するボリス・ベレゾフスキ−がその常任編集長ヴィタリ・トレチャコフを解任した。トレチャコフ解任は6月8日、株主総会の日に発表される予定。スタッフ所有株式はたった20%なので、決定は分かりきっている。
双方の不満はだいぶ以前からつのっていた。オ−ナと編集長の政治方針は対立していた。ベレゾフスキ−はとっくに大統領反対勢力であるが、トレチャコフは多かれ少なかれ政権に忠誠であった。その結果最近、ベレゾフスキ−は独立新聞にたいしほとんど資金提供しなくなり、交代の編集長をひそかに探していた。一方トレチャコフはおそらく赤字だが権威ある新聞に資金援助する代わりの財閥を探していた。失脚したメデイア王が最初に動いた。編集長候補はすでに何人か知られている。“独立新聞”元部長、元ORT放送責任者タチヤナ・コシカレヴァ、“セヴォドニャ”紙元編集長ミハイル・ベルゲル(第一候補と言われる)、ORT元責任者イ−ゴリ・シャブドウラスロフ、それに雑誌“イト−ギ”元編集長セルゲイ・パルホメンコである。
トレチャコフが去ると、改革時代の最も輝かしい、そして矛盾に満ちた編集長の一人、その時代が終わったことになる。彼以外、大手新聞の古老では“A&F”編集長ヴラヂスラフ・スタルコフだけが残ったことになる。
実際には、“影響ある新聞”の模範である“独立新聞”は再生するために、少なくても二度ほど死んでいる。最初、1993年独立新聞から、同新聞をおそらく最高の新聞に作り上げた初期のスタッフがほぼ全員退社した後、“質の良いマスコミ”の名が飛び出した。その後、若干後のことだが、“変革”、つまり編集長解任の試みがあった。同紙がストップした時代もあった。それは長い間であった。しかし1995年、再び立ち上げ、その時からまさにヴィタリ・トレチャコフが同紙に課した形態と論調で発行され続けた。
ボリス・ベレゾフスキ−はきわめて過激でリスクのある決定を下した。それと言うのも、誰が編集長に就こうが、“独立新聞”の名はトレチャコフの名と堅く一体だからである。そして新聞のイメ−ジ、つまり読者を維持することは並大抵のことではない。
2001年6月7日(木)
-“ノ−ヴォスチ“通信、6月7日、-
日本経団連今井会長を団長とする日本経済使節団は木曜日モスクワ入りする。本日日本側代表はヨ−ロッパ、米国の企業人、ロシア財界代表と会談する。大使館によると、金曜日ロシア大統領は彼らと面会する。さらに使節団一行と国会議員の会談が予定されている。
同使節団は2000年9月プ−チン大統領の日本公式訪問の際、今井経団連会長との会談で出されたロシア大統領の招待をうけ、三グル−プ構成でロシアを訪れている。現在、その一グル−プはロシア欧州地域、別のグル−プは極東・シベリア、第三グル−プは科学技術グル−プで今日にはモスクワ入りする。金曜日、第二回日露科学技術フォ−ラムに参加する。
経済使節団のロシア訪問の目的は、ロシア経済状況の十分な視察であり、経済関係の今後の拡大である。ロシア外務省第二アジア局によると、露日間の経済関係は全体としては順調に発展している。1990年代、露日貿易動向は不安定となり、またロシア市場にたいする日本企業の投資活動は不十分で、貿易高は変動しやすいものであった。2000年度貿易高は51億ドルであった。
モスクワ、サンクト・ペテルブルグ、ハバロフスク、ウラジオストック、ユジノサハリンスクに日本改革推進センタ−が設立されている。ここでは約6500名のロシア専門家が教育をうけ、その中約1000名が日本に教育実習に訪れている。
2001年6月6日(水)
“バイオリニスト小野アンナ三姉妹展示会”(完)
-国立東洋美術館でブブノヴァ三姉妹の人生と芸術、“日本-アプハジア”展示会が紹介-(“ノ−ヴォスチ”通信、6月5日、エレナ・チタレンコ)
展示されるものは、ブブノヴァ三姉妹の芸術作品とその輝ける生涯と多岐にわたる活動に関する古文書。ピアニストマリア・ドミトリエヴナ(1884〜1963年)、画家ヴァルバラ(1886〜1983年)、バイオリニスト小野アンナ(1890〜1979年)。ヴァルバラと小野アンナは日本で長い間生活し、今でもそこに彼らの記念碑が保存されている。
小野アンナは日本でバイオリン教師と有名で、その教え子は立派なバイオリニストになっている。“小野アンナ教授記念音楽協会”は1946年からある。日本文化に顕著な足跡はヴァルヴァラも残した。ロシア語とロシア文学の講師、多くのロシア文学翻訳者の教師。彼女は日本におけるプ−シキン研究発展に大きく貢献した。“エフゲニ・オネ−ギン”を日本語に訳した翻訳者6人は全て、彼女の教え子か、親しい知人である。しかし、彼女最大の遺産は、絵画であり、プ−シキン、ゴ−ゴリ、ドストエフスキ−、L.トルストイ、パウストフスキ−作品の石版イラストである。
日本でのブブノヴァ姉妹の活動は高く評価されている。長女のマリアだけがロシアにいた。1930年代、彼女はレニングラ−ドからスフミに移り、音楽学校の主任教師になった。アプハジ共和国名誉教師ブブノヴァは数十人の有名な演奏家、指揮者、作曲家、音楽評論家を育てた。晩年アプハジに三姉妹が全て集まった。
“日本経済使節団、ロシア地域視察終え、モスクワに向かう”(完)
-“ノ−ヴォスチ“通信、6月5日、アレクサンドル・イワシェンコ”-
二十五年ぶりの日本経済大使節団はロシア各地の視察を終え、木曜日モスクワに到着する。駐ロ日本大使館によると、代表団は総勢200名をこえる。
経団連今井会長を団長とする日本経済使節団は日本の閣議決定によると、政府レベルのものである。同使節団の訪ロは五月末から始まった。使節団はすでにサンクト・ペテルブルグ、レニングラ−ド州、サハリン州・プリモ−リエ州各地域を訪問している。
モスクワで予定している会談で日本財界代表は貿易経済、投資協力問題について話し合うつもりである。
2001年6月6日(水)
“日本人墓地、桜が泣いている”(完)
-“ウラジオストック新聞、6月5日、タマ−ラ・カリベロヴァ”-
プリモ−リエには最早18回来た。これは80歳になる元日本人捕虜川崎氏のことである。二年と十ヶ月、彼はロシアで過ごし、アルチョ-ム炭鉱で労働した。現在は“ダリネヴォスト−ク”炭鉱と言う。ソホ−ズの畑で野菜を栽培し、黙々と涙を流すこともなく悲しい眼差しで故郷を思っていた。故郷は目の前にあった、されど遠かった。
川崎ヤスユキは生き残った。彼は肺をひどく病み、ロシアの医者が救った。最後は故郷で健康回復することができた。しかし1945年捕虜となった元日本兵の多くは、病気や寒さ、飢えでロシアの大地で永遠の眠りについてしまった。現有する資料によると、プリモ−リエには100ヶ所以上埋葬地があり、約6千人の遺骨が眠っている。いくつかの日本人墓地がアルチョ−ム市郊外にある。10年前、元日本兵捕虜会とプリモ−リエ平和基金支部は協力して墓地を手入れし、そこに墓碑を立てた。そして日出る国から頻繁に代表団が訪れるようになった。
元捕虜兵と遠い異国の戦争から結局戻ることのなかったその遺族、妻や息子、兄弟がやってきた。供養の蝋燭を灯し、線香に風を送り、墓に酒の入った杯をたむける。さらに日本人は祖国から生けるもの代わって桜の苗木をもってきた。
「今回川崎さんは、この桜がどこまで成長したか、日本で見せたい、それで樹木をカメラにおさめたいと言っていた」と、元日本兵捕虜が家に長いこと逗留していた公立小学校「ラ−ドウガ」校長リマ・オトヴェルチェンコは語った。
「墓地に行きますと、恐ろしい光景を目にしました。最も美しい、そしてすでに花もつけている木々が掘り返されていたのです。これを川崎さんに丸一日言う決心がつきませんでした。どれほどの気遣いと愛情をもって桜をここに運んできたか、肌身で知っています。最初の苗木はほとんど枯れてしまいました。南部地域の品種だったのです。それで北海道の苗木を選択しました。約400本の苗木が厳しい冬にもかかわらず、根をおろしました。いったい誰が、死者から盗みをしようとしたのかしら。」
80歳の川崎氏は驚くほどよく動き回り、礼儀正しく、にこやかなで、そしてロシア語をよく知っている。通訳なしでも彼とは話ができる。彼自身、半分はアルチョ−ムの人だと自分のことを言っている。復員すると、川崎氏は小学校教師として働き、度々ロシア船を見るために港に行っては、常にたずねる。「アルチョ−ム出身者はいますか」 ある時、1971年のことだが、この問いを聞いて貨物船「ホルムスク」機関士イワン・ピサエフがタラップに姿を現した。直ちに彼らは抱き合った。遠い昔の捕虜時代、川崎氏はロシアの少年と友達になった。ほぼ四半世紀経過し、少年は成長し大人になり、船乗りになった。運命は再び二人を引き合わせた。残念なことに、イワン・ピサエフは早死にで、とうとう息子を見ることもなかった。今イワン・ピサエフの息子は大学で学び、日本語を学習している。
同胞の墓に日本人はいつも、春と秋にやってくる。春分、秋分の日である。その多くは遺骨をプリモ−リエから日本に移している。故郷でないと死者の魂は安らぐことはないと言う信仰がある。そのうち1300体はすでに安寧の地を見つけた。だが残りの遺骨はどうだろうか。
「日本人墓地が再び荒廃しているのを見るのも痛ましい」とロシア平和基金プリモ−リエ支部代表ヴァレンチナ・ブラヤは語った。「以前、我々の組織が国の援助でこうした事業をしていた時、古い荒れ放題の墓地を探すだけでなく、その修理もしました。状態にも気をつけていました。現在こうした力は我々にはありません。日本人は旅行会社の手助けで自分たち親族の墓参りに訪れます。旅行会社はこうした慈善事業に寄付してもよろしいではありませんか。ましてや、彼らはこのことで相当儲けているからなおさらです。もちろん、こうしたことには先ず、地方自治体、社会団体の支援が必要です」
五月親族墓参りに茨城県から来た人たち各々にも、プリモ−リエのアルチョ−ムにそれなりの過去がある。石井フミオ88歳にはここに弟がいる。今回彼は一人ではなく、孫を連れてきた。彼らは父の墓に初めて訪れる。感じの良い若い婦人、鈴木ゆきえは病気のためこの訪問が困難な父の指示で当地にやってきた。かつて彼女の父はアルチョ−ムで捕虜となり、森林伐採や道路工事をした。国に帰る時、ロシア人は餞別にウオッカをよこし、「もう戦争はすべきではない!」と言った。まだほんとうに若い僧侶コハタ・セイヤ、彼は再建されたプリモ−リエの墓地をきよめたある大きな寺住職の息子であるが、宗教使節団とともに当地にやってきた。
いつの時代も、一般庶民はその為政者の政治の被害者であり、身をもって人生の重圧に耐えながらも、それでも人情を失うことはない。だらか、ソヴィエト時代の捕虜体験した古い日本人が先ず思い浮かべるのはおそらく、辛い日々のことではなく、普通の人々が彼らに示した心からの情のことだろう。家では子供たちは食うや食わずの生活だが、それでも女主人は最後のパン一片を分け与え、厚手の靴下を編んでやり、たまねぎをごちそうしたことだろう。
平和の時代、京都から運ばれた記念碑の青銅板をせこい儲けのために盗み取ることはとても恥ずかしいことである。この青銅板にはウラジオストックで生まれた日本の歌人与謝野晶子の愛の歌が刻まれていた。無慈悲にも、仏像の鼻をたたき落とし、日本墓地から花咲く桜の木を掘り返し、墓から供養の花を盗み、それをバザ−ルで売る。それにしても、こうした人たちに心はあるのだろうか。
6月5日(火)
“判決は大統領令ではない”(完)
-ガスプロム、役員候補名簿変更せず-
“イズヴェスチヤ、6月4日、オリガ・グベンコ“-
二つの判決にもかかわらず、役員候補名簿に変更はない。これに関しガス巨大企業首脳陣は、法律どうり行動していると自信を見せている。本紙の取材により、こうした行動の理由がわかった。初代大統領ボリス・エリツインの大統領令は誰が疑おうと、裁判所の裁定より優先される。
“ガスプロム”新経営陣は、今年6月29日株主総会で選出される役員の候補名簿から誰も除外するつもりはない。“ガスプロム”は、シモノフ・モスクワ仲裁裁判所がレム・ヴャヒレフその他五人を株主総会の役員選出投票にかけることを禁じたのは、決定ではなく、ただの裁定であると主張している。この裁定に“従うことは望ましいが、しかし必ずしも履行しなくてもよい”。さらに“ガスプロム”では、役員候補名簿からこうした人たちを除外することは法律に違反するのではないか、そのように考えている。同社はこれに関し、大統領国家法制局と相談したと主張している。
“ガスプロム”理事長公報担当者ドミトリ・ダンキンは、若干の事情により役員会で承認された形で株主の票決にかけられると発言した。第一にこの名簿は2月14日に承認され、裁判所の裁定は5月29日であること。第二に株主総会前日まではいつでも名簿から国家派遣役員候補の誰でも変更及び削除できる大統領があること。経営陣自体や株主代表にたいしては、そうした規則は一切ない。この変更は禁止されている。
ちなみに、“ガスプロム”は小口株式代表も名簿から削除する意向はない。と言っても、有名な小口株主擁護者ボリス・フョ−ドロフが支配する統一金融グル−プ所有の“ガスプロム”株式は、株主権利擁護協会の告訴後、5月4日裁判所に差し押さえられている。ところがこれには若干他の理由がある。ある情報によると、株主擁護者の告訴はガス独占企業を補佐することを目的としている。二名で構成されるこの協会のことを市場関係者大半は“ガスプロム”の操り人形と見なしている。
“ガスプロム”は、何の変更もしない意向だと主張している。どうやら、“ガスプロム”傘下のどの組織も、例えば“ガスプロムバンク”、民間年金財団“ガスフォンド”、ZAO“レ−デル”など、こうし組織の株式も裁判所は差し押さえの決定を出しているが、裁判所の裁定に異議申し立てするつもりはないだろう。ましてや、裁定は簡単には執行できないからなおさらである。同社は皮肉をこめて、こうした組織を告訴した株主スヴェトラナ・イヴレヴァが持っている株数はたった120口であると語っている。
6月4日(月)
“日露財界会議開催”
-“ノ−ヴォスチ”通信、6月4日、エフゲニ・ブガエンコ“
一連の投資プロジェクトが月曜日ハバロフスクで開催された経団連使節団と“極東・ザバイカル”地域間経済協力連合会及び極東経済界代表との合同会議で検討されている。ノ−ヴォスチ通信特派員が伝えるところによると、日本企業代表85名の団長は、ロシア東欧貿易会会長高垣佑。この会議のロシア側共同議長はハバロフスク地方知事、“極東・ザバイカル”連合会会長ヴィクトル・イシャエフ。
ロシアで業務している日本企業代表のアンケ−トによると、その多くはロシアビジネスと経済が安定し始めたと考えている。このことは、我々の協力に好条件が存在することを意味している、と挨拶辞で日本代表団団長は述べた。ハバロフスクの後、日本代表団は同じような会議をイルク−ツクで持ち、その後モスクワに向かう。
6月4日(月)
“強い酒の規則”(完)
-イズヴェスチヤ、6月1日、イ−ゴル・イワノフ)
度数の高いアルコ−ル飲料水に新しい規則。今後ウオッカは特別税倉庫から小売取引に出荷されることになる。新システム考案者に意図では、アルコ−ル市場改革により、密造者に大きな打撃を与えるはずである。実際はいつもの通りとなった。現在までウオッカ消費税はボトル価格のほぼ三分の一で、製造者から直接徴税していた。ところが“やみ”ウオッカが市場に出るのは、当然卸しからである。卸業者にとっては本当のところ、合法なものでも、無許可のものでも、どちらでもかまわなかった。商人が少なくとも非合法製品により大きな利益をえたことで、それを好んだと言わなければならないかもしれない。
改革の意味は、ウオッカ消費税の半額を卸業者に転嫁することにある。こうやると、一度に二つの課題を解決できる。一つは、国家が卸業者を監督できること。もう一つは、やみウオッカ商売がずっと儲けのない仕事にできる。
以前、やみ製品の生産者と流通業者は度数の高いアルコ−ル飲料水消費税を脱税し、儲けていた。小売では“やみ”ウオッカは合法ウオッカより若干安い。真面目な製造業者はその消費税を支払っていたが、不正直なものは払わないし、この金はヤミ関係者の間で“山分け”されていた。消費税半額が卸し段階で徴収されると、不正直者の利益基盤は半減した。
卸し段階で消費税徴収の監督用に、消費税倉庫システムが設けられた。この倉庫には酒造向上から製品が納入され、ここから小売に出荷される。
消費税倉庫システムは税法第二部によると、2001年1月設立されるはずであった。ところが、この時期までに作ることができなかった。それで改革は五ヶ月間延びたわけだ。だが法的基盤は現在にいたっても用意されていない。最高裁の決定ではこうした倉庫開設許可規則はやっと今日から効力を発する。それ故、200ヶ所倉庫開設(5月末現在の開設数)の合法性は裁判で争われる可能性がある。このような不明確な結果、多くの地域で流通業者がウオッカを買い付けをやめ、その空白をやみ製品生産業者が埋めている。
6月3日(日)
“ハバロスク日本総領事、ロシア極東と日本には大きな協力の可能性あると確信”(完)
-“ノ−ヴォスチ”通信、6月3日、エフゲニ・ブガエンコ“-
ハバロフスクに日本経団連大代表団が到着した。ハバロフスク総領事ツノザキ・トシオは“ノ−ヴォスチ”通信の求めでこの訪問を解説し、「昨年9月訪日時プ−チン大統領は経団連今井会長と会談し、ロシア訪問を求めた」、と述べた。まさにこの会談の結果、今この使節団が実現され、経団連会長を団長とする使節団の訪ロは25年ぶりであると強調した。
ツノザキ・トシオ総領事は「日露経済関係はその能力からすると、まだ低い発展段階である」と思っている。こうした状態の原因の一つは、日本経済界指導者が現ロシアの現況を知らないことであると、同総領事は考えている。「使節団の大きな課題は、今後ロシアの経営者と日本財界指導者の交流を頻繁にすることで、二国間経済関係を活発化させることにある」と同領事は強調した。
日本の外交官によると、極東には豊かな天然資源と高い教育水準の住民がいる。一方日本は財政力、技術力をもっている。ツノザキ総領事の見解だと、両国は「補完し合えるので、基本的には経済協力には大きな潜在的可能性がある」。ロシアが税制度、投資法、通商法などを整備し続ければ、「日露経済関係は極東も含め、大きく発展するだろう」との確信を表明した。
日本経済使節団は三グル−プから構成され、シベリア地域、極東地域、欧州地域に各々訪問する予定。
6月3日(日)
“プ−チン、財界に通貨法自由化約束”(完)
-財界代表は大統領との会談に満足-
(独立新聞、6月1日、デニス・プロコペンコ)
プ−チン大統領と財界代表の最初の会談は大統領就任直後に行われた。クレムリン高官の比喩表現で言うと、「当時大統領は財界にとってパンペロ(南米アンデス山脈の強い寒風)に似たものであった」。この意味はきわめて単純だ。財界は新たなロシア指導者の下では特別なことは起こらない、このことを理解することが求められた。財界との二回目の会談でプ−チン大統領は経済と国家発展基本方針について中心経営者の報告を聞き、具体的提案作りを彼らに指示した。
昨日クレムリンでプ−チン大統領はロシア製造業者・実業家連合会加盟の経営者と会談をもった。会談にはロシア最大大手企業22名の経営者が参加した。財界と大統領の一回目会談は政治的色彩のものであったが、今回会談参加者は具体的経済問題について話し合った。課税、通貨法自由化、WTO加盟問題などである。
会談構成メンバ−について言えば、これはすでに事実上固定化している。参加者は国家予算の基本収入源となっている基幹部門大手企業や銀行を代表している。例えば、燃料エネルギ−関係では9名、鉄鋼・機械製作では6名、銀行関係では6名、ハイテク部門は企業代表はたった一人である。
会談開始前に、“ガスプロム”から誰が参加するのか、わかりきった問題が持ち上がった。ところが新しい経営者アレクセイ・ミルレルと数日前辞任したレム・ヴャヒレフが招待された。ヴャヒレフには独特のプレゼントまで用意された。プ−チン大統領は会談で彼に“祖国功労賞”授与する大統領令に署名したと発言した。と言っても、ヴャヒレフの表彰は現在の状況ではひいき目に見ても、“ル−ル通りのプレ−する”心つもりにたいし、彼へのお礼としか思えない、そう指摘しておく。
昨日会談の最大テ−マは通貨政策の自由化について、大統領議会教書で述べられている考えの事実上繰り返しになった。プ−チン大統領は、政府と中央銀行にたいし、通貨法修正案を仕上げるようにすでに指示してあると伝えた。六月末、法案は国会審議に提出される。
大統領は、少なくともここでは、自由化に関しいかなる措置が話しに出ているか、明らかにしなかった。“損害を出さない”という原則で徐々にやる必要があるとだけ伝えた。通貨法自由化のテ−マは、財界により何度となく提起され、しかも議論は真っ向から対立した。輸出に近い部分は、輸出売上金強制売却の廃止も含め、通貨法の緩和を主張している。この反対論者は、この提案を実行すると、規模的には1998年事件に匹敵する危機となると考えている。
こうした点で若干の発言が大統領との昨日の会談でも出た。例えば、通貨市場自由化提案作りをしていた持ち株会社“インテルロス”社長ウラジ−ミル・ポタ−ニンは、自由な資本移動を認める必要があると発言している。彼によると、これはロシアからの資本流出停止に役立つ。ポタ−ニンの考えでは、ロシア国外に資金が流出するのは、現行の規制を嫌うからである。“インテルロス”社長は、政府と中央銀行の立場は、通貨法にて現状維持する方向であると述べた。
昨日の会談では原料部門の問題も取り上げられた。これに関し報告した“ユコス”理事長ミハイル・ホドルコフスキ−は、税の上限を定める必要があると述べた。彼の見解だと、この件に関する財務省の提案は具体性に欠く。一方ホドルコフスキ−も、これに関し公聴会を開き、その結果双方受け入れ可能な水準を確定したらよいと提案した。
ロシアのWTO加盟問題で発言したのは、“セヴェルスタリ”社長アレクセイ・モルダショフであった。彼の意見だと、WTO加盟はロシア輸出企業にとっても、ロシア企業競争力を高める上でも有益である。彼の発言によると、RSPP枠内で作業グル−プが昨日設立され、その課題には、この問題に関し財界全体の要求をまとめることも入っている。こうした作業はWTO加盟交渉におけるロシアの立場を確立する上で今後役立つだろう。WTO加盟問題は既に決着済みであり、モルダショフの意見では最大の問題は、この組織にたいするわが国加盟条件である。
全体として財界代表は会談に満足している。と言っても、彼らの立場は関係法案作成にあたり政府によりまだ完全には考慮されていない、という若干の発言が相変わらず出てきた。財界人自身は少なくとも公には、こうしたことは決定する人たちの仕事量が多いせいとしている。例えば、ある企業経営者によると、今政府は六つから七つの戦略分野の一斉改革に取り組んでいる。一方先進国では、新政府はたった二三の経済部門の改革を実施しているだけだ。
6月1日(金)
“日本人遺骨、祖国に帰る”(完)
(“ウラジオストック”新聞、6月1日、時事)
ナホトカに埋葬されていた日本兵捕虜遺骨が日本に戻る。同市には日本兵542名の墓がある。このようにナホトカ市広報部は“ヴォストク・メデイア”紙に伝えた。
5月28日〜30日、日本厚生労働省戦争犠牲者社会福祉・援助局代表が同市に埋葬された同胞遺骨発掘と祖国移送のため、滞在した。日本側の意見だと、ナホトカ墓地は旧ソ連内の同様な埋葬地の中でも最も手入れが行き届いている。墓地の日常維持に、市予算から年間6万ル−ブル割り当てている。遺骨の移送はいくつかのステップで実施される。日本の専門家は二つの墓を開け、遺骨状態を検討し、調査のため土壌サンプルを採取した。6月、遺骨発掘方法が最終的に決定される。
6月1日(金)
“何故に日本はロシアが必要となったか”(完)
(STRANA.RU、5月29日、アレクセイ・イゴレフ、日露フォ−ラム)
18年ぶりに日本財界代表団がロシアを訪れた。このことは、ロシアとの経済協力が当面、日本にとって戦略的に重要な方針となるかもしれない、そのことを証明するものである。それも、日本側が常に第一義的と見なしている領土問題解決でいかなる実質的進展もなかったにもかかわらずである。このような方向転換の原因は、ロシアが日本を必要とする以上に、日本は今ロシアが必要だからである。
60年代、経済奇跡創造者の一人となった日出る国はその発展程度では西側主要国と同じ水準となった。さらに日本の飛躍こそが、いわゆる“アジアのタイガ−”のかくも急激な出現を可能にしたのであり、北東隣国を見習い、80年代稀に見る発展を遂げたのである。日本経済は、今日に至っても“世界経済の未来”、つまりその成長の拠点と見なされているアジア太平洋諸国の一種の牽引車であった。ところが十年前になると、日本経済は深刻な景気後退のサイクルに入った。何故に最も力強く発展している国の一つで、巨大な能力を持つ国が10年以上たっても、結局この状態から抜け、景気後退を克服できなかったのか、これについて際限なく論議することも可能だ。しかし事実は事実であり、日本経済はもはや、東アジア経済発展の牽引車ではない。専門家に続き、こうしたことを日本政府も認めざるえなかった。
五月初め、日本経済産業省専門官がその年度“白書”の中でこの事実を認めている。執筆者によれば、国民経済は出口のない停滞にあり、中国が執拗に取って代わろうとしている地域の厳しい競争に太刀打ちできない。同省によると、大陸隣国の力強い発展は、日本の平安にとって最大の脅威となっている。状況を克服するためには、同白書は地方の企業が思い切ったリストラを実施し、有望な情報技術を重点に、外国市場に果敢に突入するよう助言している。さらに白書執筆者の意見だと、日本は他の発展諸国との関係を広く発展させる必要がある。
ロシアに関して言えば、わが国東近隣諸国には露日関係を前進させる上で、少なくとも三つの最重要根拠がある。その二つは最新の“白書”から出てくる。その第一は、わが国には日本も含め、アジア太平洋諸国から欧州への“輸送回廊”となる大きな可能性があることである。この方面での二国間協力は最近、急激に活発化した。数日前、日出る国からロシア運輸省代表団が帰国したが、その参加者の評価では鉄道路で日本から欧州への貨物輸送プロジェクト実現を大きく前進させた。少し前だが、長い間の中断後、サハリン−北海道間の連絡路建設交渉が復活した。さらに、ロシア運輸省がバム鉄道路の完成工事に着手した報道があり、これは極東から欧州への陸上貨物輸送をさらに魅力的なものにするだろう。第二の点は、最近中国との関係できわめて積極的に動いているロシアの示唆を日本はよく理解していることだ。中国はロシアのような同盟国が、特に米国との対立が急激に先鋭化している環境では、きわめて必要なのである。日本人にとって、こうした傾向はきわめて危険なシグナルであり、特に日本がロシア極東の最大貿易パ−トナの地位を失ったことを考えるとなおさらである。そして第三の点は、近々日本にとって、燃料エネルギ−分野の協力がきわめて魅力的なものとなる可能性がある点である。ロシアの電力をこの国に輸出する考えは実現こそしていないが、生きつづけている。日本は極東のパイプライン建設に積極的に参加する意向である。
日本財界代表がモスクワを訪れたことは、二国間発展の経済的論拠が領土問題より上に立ちはじめている証拠であると、十分考えられる。無論、日本新首相小泉純一郎は南クリル四島一括返還をロシアに求める意向だとすかさず表明した。だが、こうした立場は内政重視以外の何ものでもないとの主張がおそらく正しいだろう。領土問題にたいし強い調子の発言は、日本政府の高い人気維持要因の一つで常にあった。今も同じ状況ではあるが、一つ大きな違いがある。国内能力だけで長引く不況からの脱出の希望は事実上完全に潰えた。そしてロシアのような巨大な潜在能力をもつ隣国を無視することは、日本は最早できない。新内閣発足後一ヶ月し、同国の金融“幹部”の訪問は、方針は変えないが、他のプライオリテイが出てきたことをはっきりと示している。そこではロシアは末席の位置ではない。今最もはっきりしていることは、出会いの一歩はあったが、この一歩が最後でない、そのことのあらゆる根拠があることだ。