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2001年7月分履歴

725

“十三年間で一度負けた男、アレクサンドル・カレリン”(完)

(アガニョ−ク、727号、アンドレイ・バタシェフ)

彼が最早スポ−ツ舞台に戻ることは無いとは誰も信じたくない。シドニ−で“盗まれた”金の後で引退できるとは、誰も信じることはできない。彼はそうしたことに甘んずることができるだろうか。いや、これはカレリンの性格の中にはない。カレリンの現在のポ−ズはこうした期待の根拠となっている。彼は国際オリンピック委員会名誉賞をもらったが、スポ−ツ専従職員にはならなかった。まだ国会議員であるが、官吏にはなっていない。カレリンは一風変わった、際立ち独特な人物で、結局組織のかけ引きに引き込むこはできなかった。それだから、公式声明と言っていいほどの引退発言があるにもかかわらず、ファンの期待がかすかに残っている

1967919日生まれ、身長198cm、体重130kg、三度オリンピック金メダリスト(ソウル、バルセロナ、アトランタ)、シドニ−オリンピック銀メダリスト、世界選手権9回チャンピョン、ヨ−ロッパ選手権12回チャンピョン、教育学修士、税務警察大佐、国会議員)

シドニ−オリンピック、レスリングス−パヘビ−級決勝戦で、ノボシビルスク出身アレクサンドル・カレリンは01で米国のルロン・ガ−ドナ−に敗北した。これはまさに信じがたいことであった。何故延長三分間でも、誰も予想しなかった米国選手から1ポイントも奪うことができなかったのだろうか。後にカレリンは「気持ちが十分でなかった」と述べている。この発言を聞いて、レスラ−にとって疲労とは何か、数年前したこの質問にたいする彼の答えを思い出した。

 

「まるで身体全体がくもの巣でがんじがらめになったような感覚だ」と当時カレリンは言った。「何もかも無関心になる。あらゆることにたいしてだ。横になると、心臓が打っていないように思う時がある。最も恐ろしいのは、お前はもう何も欲していない、と突然諭されることだ。」

 

シドニ−大会後、カレリンはあれこれの理由をあげ敗北説明し、弁解する気にはなれなかった。多くの専門家は、オリンピック9ヶ月前の国内大会ではカレリンが40度近い高熱で出場したことや、オリンピック直前、肋骨を傷め、さらにインフルエンザにかかっていたことを記憶している。それでも当時こうしたことが、勝利の道では一度ならずもそれ以上の困難を克服してきたカレリンに影響するとは誰も思わなかった。例えば1993年の世界選手権を思い起こせば十分である。彼はかなり肋骨を負傷していたにもかかわらず、優勝した。これについてカレリンは「第一回戦は米国のマット・ガファリとぶつかった。1ポイントとり、相手を反転させようとし右側肋骨二本を折ってしまった。この肋骨が動き、肝臓を圧迫し、ずっと口の中で胆汁の味がした。それでも30で勝った。マットからは茫然としたまま降りた。横になるとトレナ−たちがやってきて「どうする、まだやるか」と聞いてきた。

 

彼を助けたのはドイツ人トレナ−であった。ロシアチ−ムには医者はいなかった。ソ連チ−ムにかわり、ロシアチ−ムが結成されたが、どうしたわけか医者は忘れていた。20分後カレリンは最大の敵スエ−デンのト−マス・ユハンソンと戦わねばならなかった。

 

「ト−マスはすぐさま1ポイントを奪った」とカレリンは話を続け「傾くと折れた肋骨が動いた。ここ一番で体を伸ばすことができなかった。それでも、三度バックをとることができた。これは得意技だ。ポイントが121になった。残りの対戦相手は多少楽であった。大きな困難はなかった。ポイントを少しずつあげ、ようするに全力ではやらなかった。決勝戦ではモルダヴィアのセリョ−ジャ・ムレコに一本勝ちした。」

 

「肋骨がつくには長い間かかりましたか」

「二ヵ月半試合も、バ−ベルトレ−ニングもできなかった。走ることもできなかった。深く呼吸することも大変だった」

世界選手権後カレリンは、折れた肋骨では試合できないと全てを意図的に勘違いさせた。三年後カレリンは胸筋を切断し、この時もまた勘違いさせ、実際腕一本でヨ−ロッパチャンピョンになった。

 

十三年間カレリンは敗北を知らなかったが、それでもおそらくブラックデ−が近づいていると感じていたのかもしれない。さらにカレリンの驚くべき直感が、これが何時、何処で起きるか、彼に知らせていたと時々私には思える。だからこそ、当時すでに統一の国会議員となったカレリンは彼にとって四回目となるオリンピックの前に、スポ−ツに全面集中しないで、さらに政治活動にもかかわったのかもしれない。

 

シドニ−でもおそらく、何が彼を待っているか予感し、四回戦、準決勝で勝っても彼はとても喜んでいる様子ではけしてなかった。78年前カレリンは、当時その勝利は誰しも当たり前のようになっていたが、ある時笑みさえ見せて「再び注目されるには、もしかしたら負けたほうがいいのかもしれない」と述べたように思われる。その時は冗談としてとらえた。今となると、この発言は真面目なもので、当時カレリンは、まだはるか遠くにあるにせよ、危険が迫っていると感じていたと思う。

 

1987年、国内選手権決勝戦でカレリンは二度世界チャンピョンになったイゴリ・ロストロツキ−に01で負けた。推測だが、その時からカレリンの運命を操る力は彼にさらにもう一つの敗北を用意していたのかもしれない。そして13年間が経過した。そのようにひょっとしたら、今度も再び13年間無敗でいられるかもしれない。残念ながら、その期待はかなわなかった。9月に34歳をむかえるアレクサンド・カレリンはスポ−ツ界から引退する。このニュ−スを聞くと、8年前彼と初めて会ったことを思い出す。当時カレリンは記者に腹を立て、インタビュ−には応じなかった。私を助けたのはオリンピックチャンピョン、ミハイル・マミアシヴィリで、ノヴォシビルスクに発つ前に若干の質問に答えると、サ−シャと約束をとってくれた。

 

私はホテル「北京」の入口で待った。そしてついに彼がドアに姿を見せ、部屋の鍵を受け取るため、受付けに向かった。その時、ホテルバ−のウイスキ−やジンの値段も平ちゃらと思われる、がっしりとした体格の騒々しい若者グル−プがエレベ−タから降りてきた。彼らもまた受付に用があった。彼らは順番を待つ気はなく、脇に出そうと彼の肩をぽんと叩いた(サ−シャは彼らにたいし、背を向けて立っていた)。カレリンは振り向くような者ではない。かすかに顔をニ三センチ動かし、無表情に彼らをちらっと見た。普通、騒ぎは徐々におさまる。その時は、まるで剃刀で切断されたように瞬時に止んだ。カレリンを見て、すぐに理解したのだろう。彼に想像を絶する力があると。これは長期にわたる日常鍛錬の結果とは思えない。神の賜物と考えたほうがすっきりする。おそらくだからこそ、数年前カレリンのレポ−トを米国誌タイムに載せた記者は、彼が1.3kgで生まれたことを付け加えないわけにはいかなかったのだろう。奇跡の赤ん坊が6.8kgになると、彼はロシアのス−パチャンピョンという自己のイメ−ジに現実を合わせ、その勝利全ては宿命である、そうした想念をもつようになった。

 

カレリンは鍵を受け取ると、私と一緒に部屋に入った。私は前もって用意した質問を彼にぶつけた。カレリンは辛抱強く雨が止むのをまっている人間のように見えるが、ちょっとまったく意味のないことを言った。それで話の腰が折れた。その日私は体温が非常に高く、それで救われた。もちろん、何も考えることができなかった。何が起きているかも分からず、自己の崇高なる自制心もなくし、自分にとって最大の乱暴な調子でサ−シャに言った。

「なぜ、あなたは私の質問から逃げるのですか。私があなたに質問しているのは、有名人と交際したいという熱望からではない。これは私の仕事なのです。自分の仕事をしなければなりません。たぶん、あなたは私のことをそのように見ていません。パパラッチではないのです。諸手を上げての歓迎など期待していません。その上、ハンサムでもない」

 

さらに何を言ったか、覚えていない。カレリンは注意深く私の独白を聞き、突然まったく異なる音調で語りだした。「あなたがハンサムでないなら、俺は何者だ。モンスタ−か。今、骨に筋肉がついたところだ。もう少し様子を見ている。以前はまったく悪かった。想像してみてくれ。痩せて皮膚のつっぱった顔、深く窪んだ目。トレ−ニングが終わり、電車に乗ると、おばさんたちは皆、包みを抱きしめる。「どんでもないギャングが乗り込んだ」と見ている。今でも、よくあることさ。最初の印象が大きい」

 

−あなたの髪型のことですが、何故丸坊主なのですか

「これは親父のせいだ。七年生のある時、親父と喧嘩した。本当の男は体が頑強で何事にも自分の信念があり、強い意志がある。一方髪は短く刈っている それから俺は禿頭だ。本当は生まれつきのちぢれ毛なんだ。前髪がコサックみたいな時もあった。

 

−お父さんはコサック出身ですか

「いや、彼はシベリアの男だ。生涯運転手だった」

−髪型変えるつもりはありませんか

「今となって、変えたところで何になる」

−外見で損したことありますか

「いや、そうしたことはない。物事には全て潮時がある。あんたが理解するには、まだ時間がかかる」

 

今日、人間カレリンをすべて理解できるとは思わない。レスラ−カレリンの理解ははるかに容易いように思われる。と言うのも、彼はマットに上がると、ことの核心は何か、敵にも観客にも分かりやすく説明した。88年のソウルオリンピック、カレリンはブルガリアのランゲル・ゲロフスキ−と対戦した。玄人はカレリンを好んだ。その理由の一つは、彼が格闘技の正統派を代表していること、もう一つは、この戦いの前にヨ−ロッパチャンピョンになり、本人自ら多少のものを証明していた。ところが試合開始早々、ゲロフスキ−はかつてのジュニア選手をマットに投げ、3ポイント獲得した。32でゲロフスキ−優勢で休憩に入った。

 

「後に本で処刑前夜の描写に出会うと、著者が本当のことを語っているか、すぐ分かる。何故なら、自分が決闘中に常にこのことを感じていたからだ。第二ラウンドで、私の処刑前夜がもうすぐ終わりそうだと感じたので、発作的に組み手を変えようとした。私にはいろんなやり方を試す余裕はなかった。すべてを自分の得意技に賭けた。試合終了15秒前のところで得意技バックベルトがきまった。」とカレリンは回想している。

 

レスラ−はこの技をあまり好まない。誰も二階から落下するのが好きなわけない。バルセロナでも、金メダルの運命はわずか数秒できまった。ソウルと異なる点は、試合開始直後である。カレリンとスエウ−デンのト−マスの対戦は19秒後に終わった。ト−マスはその時、カレリンにたいし何もしようとさえしなかった。

「私は試合には参加していなかった。ただ脇からス−パ−スタ−を眺めていただけだ」と彼は決戦後述べていた。

「初めてカレリンと話をした時、自分の声が聞こえなかった。小さくか細いものであった。サ−シャと話した時、彼と会った人は茫然となり、そうしたことに慣れっこになったか、それを彼に聞く勇気はなかった。しかし数年後、やはりその質問をしてみた」

「こうしたことに慣れるのは大変さ。しかし、時には違ったことも起きる。ある人たちがどのように私を見ているか、それがわかると、自分が茫然自失したこともある。たとえば、スウエ−デンでのことだ。そこであるレスリングファンと会った。試合が終わると、彼女は明らかに一杯きげんで我々の更衣室まで入ってきた。私を見ると言った。「映画ロッキ−4”に出てくるロシア人ボクサ−、イワン・ドラガには驚いたわ。以前はこう思ったの。映画製作者が観客をロシア人で脅かそうと、故意にこの役にちょっと怖い俳優を選んだと思ったの。しかし今あなたとを見ると、まさにその通りだと分かった」 私は彼女と並んで座り、大笑いした。このスウエ−デン女性はたしかに私をひどく陽気にした。と言うのも、あの映画で怖いロシア人を演じていたのは、スウエ−デン人俳優ドリフ・ルンドグレンだったからだ」

 

−ところで、自分の外見をどう思いますか

「なんでもない。ひげを剃っていても、失神しないよ」と真顔でカレリンは言った。この話をして、彼が誰をからかっているか分からせようとした。そのスウエ−デンファンや自分自身、もしかしたら彼を怖いロシア人と見ている全てにたいしてかもしれない。思うに、カレリン本人はこうしたことはあまり気にしていないようだ。彼には美人の妻と六歳と一歳の二人の子供がいる。

 

カレリンは自分の家族の話をしたがらない。私が根掘り葉掘り聞こうとすると、「隣に家族がいれば、何も心配しないかもしれない。自分自身も完全にオ−プンになれる。家庭生活では私は何がしかの役になっている。釘もきちんと打てるし、料理は好きだ。特に野菜と蒸し煮した魚が上手だ。もちろん、魚は良いものでないといけない。例えばスズキとか。」

 

あるアメリカの雑誌でカレリンの秘密について読んだことがある。そこではカレリンは腰まで雪につかりながら、冬のタイガをよろこんで走っていると書かれている。それでもひょっとしたら、このロシアの怪物に本当は何か秘密があるかもしれないと、考えたこともあった。

 

−熊を撃ったことはありますか

「シベリアの猟はやり方が違う。板と金槌でやるんだ。この方法知っているか」と彼は言った。

−いいえ

「熊を立ち上がらせるんだ。熊は後ろ足で立ち、突進してくる」

−????

「熊に向けて板を立てると、それを爪で突き破ってくる。そこで金槌で正確にへし折るんだ。それでおしまいだ。」

 

私を板猟法に釘づけにすると、カレリンは薄笑いし、話を続けた。「猟に行けるのは、年に一度はない。実際、先祖からもらった猟師の血は、最初の頃猟した後ではしだいに薄れている。猟をするのは、例えばシカを追跡し、殺したいという欲望からではない。猟とは追跡している時間のことで、これはタイガでの越冬生活であったり、焚き火だったり、そうしたものだ。これは生活の中で唯一最も満たされたもので、知己と会うようなものだ。結局、こうしことは、大昔こうした場所でも過ごした先祖との血縁関係では、伝えられぬ感情なのだ。」

 

カレリンはシベリア人には何か共通なものがあると確信している。

「彼らやっていること全てに、ある種独特な規則性や慎重さがある。彼らが凍てついているからではない。この人たちはそうなってしまった。何故なら彼らの心はシベリアやその壮大な空間、そのスケ−ルの大きさにより作り上げられているからだ。こうしたものは、自分のしたことを誇張して過大評価することを防いでくれる」

 

だからこそおそらくカレリン本人は、これについて根掘り葉掘り聞き出さないとしても、さらに彼が教育学修士になり、税務警察の大佐になり、国会議員になったことはけして話すことはないだろう。カレリンのいる前でその多才なことで感激しないほうがいい。そうした言葉を聞くとカレリンには「普通の人と同じように何かやるべきだし、やれるはずだ」と、親切なささやきに聞こえるらしい。

 

「時々、何か熊の剥製のようなものに自分が思える時がある。街頭写真家の格好の餌食だ。誰しも私と写真を撮りたがり、自分たちの妻を連れてきては、子供を私に乗せたりする。こうしたことは嫌ではない。人気というのはたしかに、邪魔になるより、しばしば救われるものだ。どこかに私の写真が掲載されると、例えばシェレメ−チイエヴォ空港で警官が私を制止せず、何故この禿げた頑丈な男がここでぶらぶらしているか尋ねないと、誇張されるかもしれない。しかし私は何事もあっという間に過ぎ去ってしまうことをよく理解している。私が引退すれば、誰も私のことなど思い出さないだろう」

 

−そうした悲しい考えによく陥るのですか

「そうでもない。しかし時折夜、そうしたことを考えることがある。何もかも突然、陰気な色で出現することがある。時々、何故今はニコライ・ベルドヤエフや英国作家の作品をロシアの古典作家(ドストエフスキ−は別格だが)より好んで読むのか、考えることがある。おそらく、西側の作家やロシアの思想家はまだ前世紀初めに、今日わが国社会で起きていることを描写しているせいかもしれない。」

 

何もかも答えてくれる本があったらいいのだが、そんなものはない。だから、多くの本を読んでいる。読みすぎと言えるかもしれない。たしかに、生活の知識は本からだけでは得られない。例えば私は面白味のある人や、驚くほど誠実さのある善良な人にめぐり合う点では常についている。この言葉はまるでピアノの鍵のように私の記憶に刻みこまれた。世の中がどのように変わろうとも、お互いに特別な誠意を見せることは、我々のあいかわらずの性格だ。そしてこれがおそらく、ロシア人の最も魅力的な点ではないだろうか。

 

−特に気分がよいのは、どのような時ですか

「普通の人がまわりにいる時だ。特に腰を曲げたり、頭を下げたりしないですむ人。穏やかで規則的な生活が好きだ。例えば、ただカフェに行き、座ってコ−ヒを飲み、新聞をちょっと読む、そんな生活のことだ。私のまわりにいる人も自分の明日を信じることができたらいいと思う。常に強い不安に怯える人々の中で生活するのはたしかに大変だ。誰しも温かい心があればいいと思う。そうなってはじめて、たんなる日常の幸せも話すことができる。」

 

その有名な作品「ロシアの理念」でニコライ・ベルドヤエフは、カレリンが好きな作家だが、「ロシアの大地の壮大さ、果てしなさ無限性とロシアの精神は一致している、物理的マップと精神のマップは一致している...」と書いている。この言葉はまさにカレリンにぴったりあてはまると思う。

 

「我々誰しも同じ方向に向かって動いているし、今日我々が理解しようとしている多くの法則はだいぶ昔から人々が理解していた、そんな感じがする。我々は太古の昔に書かれた本を自分の言葉で言い換えようとしている、そう時々思う。」

 

いずれにしても、アレクサンドル・カレニンには、もちろんスポ−ツ以外のことも書いてあるこうした本を現代流に言い直すあらゆる資料があると思われる。

 

 

 

721

“外国人の珍事”(完)

-“外国企業の税金滞納“-

(イズヴェスチヤ、720日、リュボフ・キジロヴァ)

本日記者会見で税務省国際税関係局次長ウラジ−ミル・オシキンは、モスクワに登記されている外国企業の税金滞納資料を公表した。滞納総額20億ル−ブルの中、66千万ル−ブルは、建設会社マルカタの分である。

 

公表された資料は、法律を守り経済活動する外国企業のクリ−ンなイメ−ジに軽微とはいえ不快な影を落とした。こうした企業もロシアの苦しい現実に付け入ることを覚えたと、すかさずそうした推測が生まれてくる。さらに他のことも連想する。税滞納者の中に鳴り物入りの有名企業マルカタ(同企業は、全滞納額の約三分の一を追求されている)が存在することは、この会社をめぐる新たなスキャンダルが発生すると、そうした考えを抱かせる。

 

同省の資料によると、モスクワには145百社の外国企業が登記されている。その中、税収の半分以上は35社にあたる。昨年度、モスクワにある外国企業から税収額は20%増加し、77億ル−ブルであった。滞納額はけしてすくないものではない。昨年度全徴収税額の約四分の一である。

 

こうした滞納の原因はどこにあるのだろう。モスクワ地域連絡税務署38は、ここには145百社が登記されているが、彼らを悪質滞納者とは見なしていない。同税務署の署長ウラジ−ミル・ヴォロンコフによると、外国企業の税滞納額は一定のレベルでとまっている。同署長によると、しばしば国自身に責任がある。例えば、クレムリンの修理を請け負っていた会社「マルカタ」の税滞納は、国も市も、完了した工事代金を清算していないために起きたと同署長は断言している。さらに同署長によると、スイスにある口座の同社資金の一部は凍結されたままで、滞納金納入の障害になっている(これはもう、警察の仕事だ)。

 

さらに同署長は、ロシアの企業には税債務の分割払いは許されているが、外国企業にはそれがないと述べた。昨日同省スポ−クスマンは、外国企業の債務分割払いについて検討していると発言した。

 

かわいそうな外国企業には同情もできるが、ある事情がこれを控えさせる。イズヴェスチヤ記者が問い合わせした複数の外国企業では納税状況についてコメントできるものはなかった。どうも、この問題は彼らにとってさほど緊急の問題でないようだ。タバコ会社部長エフゲニ・ロゴフは、弊社は正直で模範的な納税者ですし、1992年から5億ドル以上納税し、税問題は起きたことがないと述べた。

 

 

 

 

721

“白熱した問題”(完)

-“「私は長いことこの本をとっておいた」とアレクサンドル・ソルジェニツインは一つの国家におけるロシア人とユダヤ人の生活について書いた共に200年、1795年〜1995という題名の初学術書のはじめで語っている。二巻本中第一巻は、1795年〜1916年について書いたもの、最新ロシア史研究シリ−ズ(ロシアの道出版社)で出版されている。トロイツア・ルイコヴァのソルジェニツイン宅でこの本出版前日にモスコフスキイエ・ノ−ヴォスチ紙編集長ヴィクトル・ロシャクが話しを聞いた。

(モスコフスキイエ・ノ−ヴォスチ、25号、619日〜25日号、ヴィクトル・ロシャク)

-アレクサンドル・イサエヴィチ(ソルジェニツイン)さん、あなたの読者はまず、何十年もの作家活動であなたにとって初めての学術歴史書である、そこに注目するでしょう-

「実を言うと、赤い車輪では学術的なものにしたかったのですが、そこでは脚注は入れず、歴史的資料は全て出しませんでした。ところでこの本はたんにそのすぐ後というだけでなく、赤い車輪から直接有機的に生まれたものです。それが私を深みに引きずりこんだわけです。最初は革命前の時代、その後二十世紀の初頭、そして十九世紀末、十九世紀中頃と引きずり込まれ、そうやって革命を理解するために遡っていったのです。それにあらゆる想像しうるもの、あらゆる可能なもの、そうしたきわめた膨大の資料が出てきましたので、大書赤い車輪でも収めきれないのが分かったからです。さらにユダヤ人とロシア人の関係には私は常々ぶつかっていました。当然でしょうが、その理由はこの問題が、特に十九世紀末から世論の関心の的になっていたからです。そこでどうするかということになったわけです。これを赤い車輪の中にぎっしりと細かく詰め込むことはまったく間違いだと思われます。そのわけは、そうやりますと赤い車輪の流れやアクセントがきちんとしたもでなくなってしまうでしょう。あらゆる出来事がユダヤ人の手出しのせいになってしまうかもしれません。わたしは意識的にこれは避けました。しかし資料はあったわけです。赤い車輪には54年に取り掛かり、90年に完成しました。そこで終わって見ますと、私が触れることのできなかった幹の枝葉が残っていました。それはボリシェヴィキや革命民主主義者、自由主義者の輪郭です。それはタンボフの農民蜂起であります。こうしたこと全てがまさにロシア人とユダヤ人の問題なのです。そこでこの作品に90年から着手しました。

 

-この本は作家として、つまり主観性の強い人間としてかかわりたくないきわめて白熱した問題に関係しますので、純粋に学術的な歴史学的な図書でしょうか-

「私は、歴史資料をどう扱うか、ただ別の方法が思い浮かばなかっただけです。もし芸術描写でないのでしたら、何もかも正確で詳細にするか、それとも評論的著作となる一般的な表現になるはずです。わたしはありのままのものをまさに表現したかったわけです。そのことを多くの人は知りません。異常ですよ。と言っても、ユダヤ人とロシア人のテ−マについては多く語られ、書かれ、多くの対立があったようです。だが歴史には、過去もそうだし、今後も光が当てられないでしょう。どうしてなのか、私には理解できません。

 

-この本では、膨大な量の歴史学的脚注があります。当然、読み始めた人は、貴方に「これはどうのように作ったのか、どのように貴方はかかわったのか」と疑問をもつかもしれません-

「作業の技術面は赤い車輪と同じです。と言うのも、やり方はすでに出来上がっています。全ての図書も揃っていますし、マイクロフイルムで膨大な新聞資料も集めてあります。しかし、もちろん何を書いているか、そのことを理解すると、不慣れですが必要な箇所ごとに脚注で裏付ける必要がありました。さらに資料や先人の歴史家以外にこのテ−マについて深く考えている現代の人たちにも常に関心をはらいました。まだヴァ−モントにいた頃、10年間ぐらい雑誌“22”を購入していました。これはロシア語で出版されている、おおむね最高のイスラエルの雑誌です。この雑誌を我々の同胞、彼の地に去りはしましたが、ロシアとの関係を保っている知識人が作っています。それで資料の収集のことですが、アタ−リヤ・ドミトリエヴナがいます。彼女はこの件も含め、あらゆる分野で私の常時アシスタントです。しかしさらに、私の下の息子ステパンも多く手助けしてくれました。彼はとても知識が豊富で、感受性が強く、読書量が多く、多くのことに関心をもっています。そしてロシアに引越ししてから、若干の資料がまだ不十分で、多くに脚注はさらに確認する必要がありました。あそこでは図書館が荒廃し、必要なものが全て見つかりません。それで古い出版物を米国で探したことありました。ステパンがこれをやり、私に届けてくれました」

 

−三人の息子さんがおられとよいですね。誰かがきまって助けてくれる。-

「そうですね、こんな諺もあります。一人の息子は息子ではない。二人の息子は息子ではない。三人の息子が息子だ。一般に仕事には共通の原則があります。学術的であろうと、芸術的なものであろうと。資料に接近しすぎず、資料にのめり込まず、それを忠実に表現するなと、常にこうしたことだと思う。私はとても多くのユダヤ人の書物を読みましたので、資料に馴染んでいます。だから昔から知っているかのように、そうした資料をたやすく分かるようになっていました。そして、普段の生活で学ばずに、おそらく見過ごし、気づきさえしなくなるそうした側面を私にもたらしてしまった」

 

−おそらく、多くの読者は私もそうですが、この本の中の思いもさえしないことで驚くことでしょう。例えば、19世紀末のユダヤ人集団虐殺の思想首謀者の中に人民の意志党がいた事実です。-

 

「そうです、彼らは加わり、そそのかしたわけです。これは私にとっても発見でした。そこには私自身にとって多くの発見がありました。作業の過程で多くのことが明らかになりました。若干の資料はまったく予期せず出てきたものです。たとえば、ナポレオンとの戦争でユダヤ人がロシア人を助けた。偶然、20年代のソ連の新聞を読み、これは別の動機によるものでしたが、そこにフランス人がベレジナ川の何処で渡河するか知らせている文書がありました」

 

−第一巻では何度かトルストイに問いかけていますね。トルストイ一般というより、この問題、つまりロシア人とユダヤ人の関係にたいするトルストイの理解について、秘められた論争のようなある種の感情があるのでうすか-

 

「トルストイにたいしては思想においても、ものに見方においても、少なからず相違があります。たとえば、戦争心理のことです。しかし、ユダヤ人をテ−マにしたものは、トルストイは特に何も書いていません。もしかしたら、このテ−マにとりかかる巡り合わせが単になかっただけかもしれません。けれども、彼と話した様々な人の記述はあります。「トルストイが私に.言った」という類のものは、言ったか、言わなかったのか知る由もない。しかも、トルストイについてそうした証言は食い違っています。」

 

−あなたはこの本で、帝政ロシアは人民の監獄であり、帝政政府はあらゆる者を抑圧し、中でもユダヤ人を抑圧した、こうしたドグマを論破していますけど、おそらくこのことは誰よりもよく分かっているかもしれません。ツア−リによってまったく異なる描き方をしています。特にアレクサンドル二世は、ユダヤ民族を文明に近づけた人であった、というように。当然、これは論争になりますよ。

 

「無論です。ある者は、資料に詳しくないといって反論するでしょう。別の者は、片寄っているといって反論するでしょう。私は、こうした偏見では第三者までも興奮してしまい、酷い目にあいました。毎回驚くばかりでした。いくつかの例をあげてみますと、イワン・デニソヴィチが出版されました。反ユダヤ主義者だというのです。どうしてです。しまいには極端なことまで言い出す。作品で一度もユダヤ人の蔑称ジドを使ってないから、反ユダヤ主義だというのです。反対の意味に解釈するのです。ガン病棟では、外科医レフ・レオニドヴィチは優秀な外科医でとても魅力的な人物です。批評家は、ガン病棟は反ユダヤ主義だ、それは私の医療環境にあたかもユダヤ人スタッフいないかのようなことを次々に書きました。いったい、どう読んでいるのだろうか。場面はいくつかあります。それにレフ・レオニドヴィチ本人だけの章もあります。」

 

−でも、あなたはあそこで彼のパスポ−トデ−タを出すべきだったのではないですか。

「あそこでは彼がユダヤ人であることは明白です。話し振りや、その言葉遣いから明らかなわけです。名前も父称も言わなくともわかるはずです。そうしたものです。しかし最も驚愕したのは、“148です。まだ英語版が出てもいませんし、まだアメリカでは誰も読むことも出来ませんのに、これは大変な反ユダヤ主義的なものだと、早くもキャンペ−ンがピ−クまで高まってしまいました。私がストルイピンを殺害したボゴロフがユダヤ人であったことを隠さなかった、まさにそのせいなのです。853月、”148とその反ユダヤ主義をめぐり米国上院で公聴会が開かれるところまで事態が進展しました。際立っていることは、誰も読んでいないことだ。彼らにはただ専門家が何らかの抜粋を訳した。ソ連邦で誰も”148を読んでいないのと同じです。反愛国主義で厳しく非難された。アメリカでもまった同じで誰も読まず、反ユダヤ主義で非難されたわけです。

 

−もっと分かりやすい例をあげてみます。ダイレクトの挑発です。「最近、本紙モスコフスキイエ・ノ−ヴォスチにある人がやってきて、アレクサンドTU・ソルジェニツインソ連邦と未来ロシアにおけるユダヤ人」という本を置いていった。この作品から一つのことだけがわかりました。あなたの名前が完全に偽造されていることです。

「これは精神の病んだ人間の非常識な行為でした。いやらしい黄色い本に私の名のついた作品をはさんでいました。事態は文明社会の限界を超え、いかなるコメントもつけようもありませんが、それでも障害者というだけで、法的責任は逃れています。

 

まあ、このように多くの人がわたしを攻撃していますが、彼らは問題の突出している部分を利用します。特に米国に住んでた頃、これだと何よりもやり易いのを知っているのです。そうやってこの雰囲気を執拗に掻き立てていました。実際、それでやるのがとても楽なのです。しかし、こうしたやり方はよくありません。このテ-マにはきわめて丁寧に対応する必要があります。

 

−ユダヤ民族の歴史上の役割は、我々に全てにとって謎だ、とあなたは書いていますね。幾分かは謎解きしたと思っていませんか。

「いいえ、私には推測はあります。もしかしたら、そうしたものが本の中に所々あったかもしれません。しかし謎解きはできていません。これは観念上の問題で、それもかなり複雑な問題です。その道の専門家、つまり私みたいでない本当のプロもこの謎は解けないと思う。人間の知性には完全の形ではこうしたものは与えられていません。不可解です。何か謎の部分がそれでもあります。

 

一つの仮説は、ユダヤ人は社会生活の触媒、動く触媒として送り込まれたという説です。ご存知かもしれませんが、触媒とは最も少量であらゆるプロセスを変えてしまい、それをダイナミックにさせ、何らかのリアクションを引き起こします。そうした説もあります。我々はそもそも、神の意図を知りません。」

 

−最初の頁から貴方は読者にたいし、ロシア人とユダヤ人が正常な関係となる方法を未来の世代のため模索するように問題提起していますね。どういう方法がありえますか。-

「先ず、自分の過去も自分自身も双方によってはっきり認識することです。人間は普段の生活ではしばしばかっとなりやすい性質で、自分にたいしては多くのことを許しますが、他人だと反対に責めるのです。辛抱強い相互理解が求められます。多くのロシア評論家のこの問題にたいする態度はかなり愚かに見えます。まったく無責任に単純にあけすけに言っています。そこでユダヤ人の発言も多く載せています。ロシア人にたいし、激しい敵意のあるものです。もしこうしたことが分かるように解明され、人々がそうしたことを肌で感じ、理解し、我に返り、自制し、よき方法を探し出すと思います。私に両面がなかったなら、この本が書けなかったかもしれません。ユダヤ人の側面はこの仕事そのものにあります。しかし、とくかく社会的方法を前もって指摘することは、おそろしく難しい。何よりも厄介なのが処方箋を手に入れることです。

 

−さらに一つのパラドクスについて貴方から回答を得たいと思います。一世紀半にわたりツア−リはユダヤ人を農業に馴染ませようとしたが、これは成功しなかったと貴方は書いていますね。また後になると、イスラエル建国時、あそこには土地も水もなくぞっとするような農業だと、他でもない貴方が述べています。

「パラドクスはこうです。自分の土地には感激するもので、故郷を深く感じるものです。誰も我々のために何もしてくれません。自分自身でつくる必要があります。

 

−貴方自身もはたしか本の中で驚いていますね。離散して二千年、結局ユダヤ人は同化しなかった。何故なのか。

「これはユダヤ民族の驚くべき、非凡な資質です。どの民族もこうしたものはありません。離散時に離散した者と一般大衆の結びつきは急速に失われます。例えば、亡命したロシア人も第三世代になると、もうロシア人ではありません。第二世代でもすでに少し失われています。非凡な資質、これもユダヤ人の性質の謎です。さらにユダヤ人自身もそのことを理解できないでいると思う。このように緊密な血縁意識、それをユダヤ人は出来事や災難、時間場所、距離に関係なく、感じている。

 

何故こうもユダヤ人にとって同化が難しいのか。同化問題をかかえる人の気持ちのようなもので境界線はどちらかにずれるわけです。論理的にはそうなるはずだが、他の点からするとそうはいかない。内部で何か分泌する。そうやって揺れ動くわけです。これは先天性です。そこには無論、形而上学的理由もあります。それは生理学的にも、心理学的にも説明できないものです。何故他の民族はそうでないのか。何故ユダヤ人にはこうしことが困難なのか。ロシアに多くの例があります。キリスト教、特にプロテスタント、ここは受け入れがたいものはおしつけない、そこに改宗すれは多くのメリットがあります。しかし、改宗しません。基本的に改宗しないのです。

 

−さらに一つの謎があります。貴方は様々な方向からこれに取り組んでいます。特に本の第二巻でユダヤ人は革命の酵母であったと書いていますね−

「これはいくつかの理由によります。ひとつは、ユダヤ人の若者はだいぶ昔から革命運動に参加していました。革命が勃発した時、17年のことですが、そうした若者はすでに無心論者で、自分の親達の宗教と決別しています。家族と絶縁した多くのものは、罵言をはいて家を出るわけです。老人は残り、こうしたことは参加せず、若者は身を投じる。そして個人の悲劇が起きる。もう一つの理由は、これはボリシェヴィキのやり方です。そこで一般に言わねばならぬことは、ユダヤ人問題を度々、政治家これにはリベラル系の政治家も含まれますが、利用したことです。彼らはこの問題を独裁体制との闘いを激化させるため、意図的に利用し、この問題をゲ−ムの駒として考えたわけです。まさにボリシェヴィキがそうでした。彼らは権力を握ると、役人の大掛かりなサボタ−ジュに直面しました。役人は職場につくことを拒否しました。全ての省庁が麻痺しました。ボリシェヴィキはどうにか武力で維持していましたが、全ては麻痺状態です。これは全ての場所でそうでした。県でも、郡でもその他のところでもそうでした。政府のユダヤ人担当の責任者デイマンシュテインは、レ−リンがユダヤ人、知識人、知識人に近い部分を役人の仕事につけろと命令を出したと書いています。大衆の中でこうした運動が起きました。このレ−リンの策略でユダヤ人が役所に深く広く浸透したわけです。

 

−しかし、ユダヤ人こそが賃貸借制度を発展させ、これにより農村により進んだ関係ができました。彼らは金銭関係、銀行事業を発展させました。市場の創設にも参加し、これは貴方が書いていることでもありますが、砂糖、穀物、石油市場を作り出しました。こうした経済関係が全体として見れば、既存のシステムを破壊した、そのことで若干の対立はなかったのですか−

「資本主義制度がロシアを発展させなかったことは、あなたも知ってますね。これはユダヤ人だけでなく、少なからずロシア人によっても動かされました。ロシアはどんな爆発も破壊もなしに資本主義化しました。もちろん、競争はあった。しかしこれは国の構造を破壊することはなかった。

 

−本の第一巻、これは18世紀末から十月革命までの期間ですが、各章は誰がロシアを統治しているか無関係に作られています。しかしその一部は何らかのツア−リの時代と一致しています。そしてそこでは、アレクサンドル二世はユダヤ人問題解決で最も進んだ人物となっています。彼はリベラルの立場からこの問題に取りくんだ。

「これは彼のリベラリズム全体における本当の根幹です。アレクサンドル二世時代、ロシアのユダヤ人は教育と経済に大きく参入しました。当時の証言者の回想ですと、鞭をもってユダヤ人を普通中学校に入れることができなかったと述べています。説得し、頼み込み、どうぞと言っても、だめでした。宗教の戒律や伝統を固持した。しかし、やがてそうしたものが突然破られ、反対の方向に突き進みます。アレクサンドル二世はこの事業を積極的に推進した。しかし、全体としてはツア−リごとに各章を作ろうとは思いませんでした。しかし何故かツア−リごとになっています。これは当然かもしれません。

 

−とても面白い対比があります。あなたは愛国主義について書いていますね。そこでこれがある時、黒百人組に独占権と与えたと書いています。ある程度、今日と類似しています。例えば、リベラル主義者は一般にこの問題を見落としています。

「その通りです。すでにあなた自身、回答しています。リベラル主義者は愛国主義問題を見落としている。彼らは独占権を与え、愛国主義者は蔑視されるものと見なしています。そしてこの問題は極右、本当に極端であまり知的でない者の手に渡ったわけです。

 

−貴方の複雑で重い人生において、ユダヤ人との関係はどうように形成されたのですか−

「私の個人的関係はとても多くのユダヤ人とすばらしいものです。ユダヤ人の性格の微妙な点や敏感な点、思いやりなど理解しています。それは私にはきわめてぴったり合ったもので、だから高いレベルで理解することができます。例えば、レヴァ・コペレフとは晩年になって初めて関係が損なわれましたが、とても暖かい良い関係でした。ミ−リャ・マジンは、私の最良の大学の友人ですが、今でも続いています。ミ−リャは私の年齢で今でも教えています。ロストフで最も優秀な数学の教師です。全体として言えば、私の作品にたいするこうした特別の猜疑心に立腹したことは一度もありません。こうしたことは超越しました。私の中にもう書き足すことがないことは分かっています。そのように疑われることは、私にとっては不思議だし、驚いている。しかしこうしたことが答えにたいし強いインパクトにはならなかったし、個人の視点となることもなかった。

 

−本以外のことで若干質問があります。選挙後しばらくしてロシア新大統領が奥さんと一緒に貴方のところに来ていますね。無論、何か助言したことでしょう。彼は貴方の意見を聞きましたか、それと今となってどんな助言をなされましたか。

「実際のところ、何点か助言しました。しかし、その中で何を実行するか、それは分かりません。もちろん、自治については賛成しました。しかし、誰が自治を非難しているのか。誰もいません。皆、それを賞賛している。けれでも、誰も支援しようとしないし、反対にそれを締め出し、圧力をかけています。私はしつこくプ−チンに国家環境委員会や林業の独立を頼みました。何故、連邦議会を壊す必要があるのか、まったく理解できませんでした。そもそも、これにかわり、何か中途半端なアメ−バみたいなものを作ったことが理解できません。そう、実際何か助言することはできました。しかし、その後の関係はありません。

 

−貴方はこの本を95年に完成させました。仮にこの本を今日まで書きつづける必要があったとしたら、どんな感想ですか。

「もう、手に負えないよ。何故95年で止めたのか。200年間が終わり、私の寿命から見て、95年まで追跡できただけだ。どこかで止める必要がある。仮に死ぬまで、棺おけに入るまで書いたとしても、いかなる歴史も書き足すことはできない。しかし私の感想はこうだ。90年頃、そのニ三年前後(まだヴァ−モントいた当時)ユダヤ人とロシア人の評論家の間で激しい対立が起きた。実際、知識階級それ自体を裏切るほど、激しいものでした。知識人はエリツインのしていることを見逃し、結局そのことは国全体は言うまでもなく、知識人自体にも跳ね返ってくるでしょう。すべては互いを破壊することに没頭し、これはほとんど撲滅ですよ。ロシア側は弱く、不細工に全面的に打ち破られた。しかし知識人のエネルギ−は必要な方向には向かわなかった。それでも、対立はその時からは激減した。今は当時のような鮮烈なユダヤ人をテ−マにした真剣な公開論争は起きないかもしれない。これには理由があります。一つは、こうした高まりにはある周期性の法則があり、頻繁には反復されません。もう一つは、この間に他の人種問題も持ち上がってしまった。こうしたことは、ロシア人とユダヤ人問題の苛烈さを静めてしまった。ご覧の通り、遠い辺境の地でかなり虐殺がありました。ロシア人とユダヤ人の関係で大きな飛躍があるとは思えません。そうした予想はできません。断言さえできます。

 

−ご子息と口論することはありますか。口論する場合、どんなことですか−

「うちでは意見に完全の画一性はありません。我々なしに彼らはもう七年も暮らしているせいもあります。しかし、争いより絆と理解のほうが多いと言えます。例えば、「我がが地球の緑の党」と言って私をからかっています。

 

−彼らがあなたを説得するようなこともありますか-

「もちろん、あります」

 

74

“ロシア旅客機TU-154、イルク−ツク郊外で事故

-(ノ−ヴォスチ通信、74日、アレクサンド・バタリン)

火曜日夜、イルク−ツク郊外での旅客機TU-154事故現場でブラックボックスが発見された。同機離陸地エカテリンブルグから乗客名簿が入ってきた。乗客名簿によると、エカテリンブルグ−イルク−ツク−ウラジオストックル−トの飛行便TD-352には、乗客133名、そのうち中国人20名、乗務員9名。乗客名簿はさらに確認中。現在ロシア非常事態省大臣セルゲイ・ショ-グは事故現場にいる。

 

72(月)

“バラエフ最後の死”

-“チェチェンのアルビ・バラエフは二度葬られているが、しかし後に彼は突然無事で姿を現した。人殺しと奴隷商人にたいする特殊作戦は成功したのだろうか“-

(モスコ−フスキイエ・ノ−ヴォスチ、626日〜72日号、サノボル・シェルマトヴァ)

は有名な奴隷商人の死を確認している。チェチェン人は信じていない。連邦保安局は六時間違いで、当初野戦司令官アルビ・バラエフ死亡の噂を否定したが、その後彼の死亡を確認した。6月24日14時少しまわったところで、連邦保安局代表イリヤ・シャバルキンは、アルハンカラ村でバラエフ部隊の中核を殲滅したが、死亡者の中に彼の遺体はなかったと発表した。同じ日、夜10時シャバルキンは記者団にたいし、バラエフは死亡し、彼とともに10名の野戦司令官と多数の戦闘員が死亡したと伝えた。しかし、この六時間の間に何が起きたのだろうか。

 

当局は今のところ、チェチェンで最も有名な奴隷商人の一人が死亡した状況を明らかにしていない。明らかになったことと言えば、作戦が6月22日に開始され、バラエフが所有するいくつかの家屋が砲撃され、連邦軍が村を包囲し、内務省と連邦保安局特別遊撃隊を投入し、アルハンカイラを掃討したことだけである。

 

本紙特派員が話しの聞けたチェチェン住民はバラエフの死を信じていない。これをまた本紙に衝撃的情報を伝えたチェチェン情報筋も認めている。彼の情報によると、6月23日から24日にかけて、バラエフと彼の警護兵の何名かは家から、アルハンカラ村はずれにある警備司令部に移った。そこでバラエフたちは村掃討作戦中は待避し、その後隣村クラルイを通って安全な場所に移動したとのことである。

 

(続く)

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