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2000年5月分履歴

5月29日(月)

“紛失した黄金をさがせ”(完)

-“七月日本で先進八カ国のサミットが開催されるがロシアにとって最も

痛いところは、当然のことながら、債務返済問題である。若干の専門家は

これにたいし、ロシアは反対に要求をだすかもしれないと予想している-

(モスコスキイエ・ノ−ヴォスチ、516-22日(19号)、ウラジ−ミル・エメリヤネンコ)

 

ロシア帝国時代の金塊を探し始めて最早9年もたつ。これは返還プロジェクトのことで、ロシア外務省外交官大学教授ヴラドレン・シロトキン、企業家・実業家連合議長アルカデイ・ヴォリクキ−、モスクワ市長諮問機関企業家会議議長マルク・マサルスキ−が参加している。本誌記者がこの計画にどの程度現実味があるのか、解明してみた。

 

ロシア大統領と新任の大統領総務長官ウラジ−ミル・コジンの机の上にファンタスチックな提案書がある。これは本紙の取材でわかったことだ。「本日わが国の対外債務(1300億ドル)及び国内債務(700億ドル強)は、世界の大銀行に押さえられている金貨総額約1200億ドルから3000億ドルを取り戻して、その一部または全額を返済できる」と書かれている。

 

昨年末、この提案書はウラジ−ミル・プ-チンに特別なル−トでこの返還プロジェクト賛同者の一人ノブゴロド州知事ミハイル・プルサクが渡した。大統領府の本紙情報筋によると、ウラジ-ミル・プ-チンは関心を示し、各関係官庁に問題を研究するよう指示した。二月に財務省と中央銀行は噂だと、否定的な結論をだし、この動きにまったをかけた。そして20004月、大統領府と新しい総務局は財務省が否定した文書の提出をあらためて求めた。

 

債務

話はロシア皇帝の黄金のことである。1914年までロシアは世界最大の金保有国と見なされていた。1914年から1917年にかけて、ロシアから英国、米国、フランス、スウエ−デン、一部は日本経由で2600kgの金塊(国内金保有量の三分の二)が武器買い付けのため、帝政政府と臨時政府により発送された。残っている非常用金の半分も1918年から1920年の間に国外に持ち出された。ニコライ二世が退位した後、残っている金塊ほぼ全て、サマ−ルとニジニイ・ノヴォゴロド市に移送された。サマ-ルに運ばれた金の量は約500トン、内戦開始ととも提督コルチャクが手に入れたものである。ニジニイ・ノヴォゴロド市の金は250トンを若干上回り、ボリシェビキが手に入れ、ドイツの持ち出され、これもまた武器購入にあてたものであった。

 

だが海外に搬出したロシアの金塊にたいし、臨時政府とボリシェビキも全くと言えるほど何も受け取っていない。この返還プロジェクトの発起人は、これは書類の裏付けのある事実だと考えている。彼らの指摘によると、当初米国の財閥「ドユポン・ケミカル」は米国に無煙火薬工場建設する費用として25億ドル(1916年当時)分の金を担保にとったが、工場を建設しなかったばかりか、メンデレエフの式とともに、無煙火薬製造のノウハウを横取りしたのである。その後、貴金属は手に入れたが、フランス、英国、スウエ-デンは約束した武器弾薬を納入しなかった。日本は当時ロシアでは政権にボリシェビキがついた時だが、シロトキン教授によると、中でも最も多く横取りしたらしい。これは担保としての金塊分とニコライ二世親族の宝石類5.5トンである。また米国、カナダ、ヨ-ロッパに渡ったコルチャコフセメノフポドチャギンの白金もある(シロトキンのファイルと本「海外にあるロシアの金と不動産」参照)。第一次世界大戦でドイツ敗北後、同じ筋の情報だが、-ニンの金はフランスが押さえ、1924年戦勝者の権利として英国と山分けしている。

 

1990年まで忘れられていた紛失物について、ソ連邦大統領ミハイル・ゴルバチョフと1992年にはロシア大統領ボリス・エリツインは、ソ連とロシア共和国はロシア帝国と1917年からその領土に存在した全ての体制にたいする法的な継承者であると承認したパリ協定に署名した。

 

愛好家

海外にある財貨・文化財について国際専門家会議をつくり、シロトキン、マサルスキ−、ヴォリクキ−は紛失した財貨を取り戻すという考えに政府や大統領が関心を示すよう働きかけている。返還プロジェクトに政治家がはじめて反応した時、歓喜と言えるほどものがあった。まさにこれにはボリス・エリツインも1992年、関心を示した。1996年、エリツインは大統領選事務局にマルク・マサルスキ−も加えた。それまでこの有名な実業家は政府に何かを期待することはあきらめていた。彼は回顧している。多くの官僚が皇帝の金塊を返還させるという妙案の魅力は認めたものの、彼の手元にある文書どころか、外務省、中央銀行、対外諜報部にある古文書の鑑定も断ったのである。とは言えこの古文書にはどうやら専門家委員会が持っているコピ−の原文があるらしい。特に日本、英国、フランスの各銀行との協定書の原文があり、銀行グル-プがこの協定書の条件を履行しなかった場合、ロシア国立銀行に金による保証金全額を総額から27.5%差し引いて返却するとしている。専門家委員会によると、この協定書の原文は中央銀行にあるらしい。

 

さらに金を担保にした契約のほとんどはロシア政府の名で締結されているので、基本的には政府だけが担保金の返却を求める権利がある。ある時、マサルスキ−がボリス・エリツイン直々に援助を願い出た。エリツインは最初やっかいな話を信用しなかったが、その後びっくりし、終には「選挙戦に勝ったらこの問題を検討しましょう」と約束した。これは1996年の選挙のことである。

 

大統領府から電話がやっとかかってきたのは19991月のことである。専門家委員会議長ヴラドレン・シロトキンに電話をかけた高官は、「どんなことがあっても自分の名を出さないでくれ」と頼み、「今自分が中心にやると危険だ」と述べたのである。そして「大統領府として専門家委員会に何か支援できるか」と訊ねたのであった。

 

大統領府はロシア安全委員会書記ニコライ・ボルデユジャを後見として、海外のロシア資産保護連邦局を設立するという専門家委員会の考えを即刻承認した。安全会議の強い関心は予想を越えるものであった。ボルデユジャはこの問題の緊急会議を召集した。しかし間もなくボルデユジャが解任された。本返還プロジェクトの最後の支持者であるプリマコフ首相は約束した資産保護連邦局設立の決定を安全会議から待っていた。二ヵ月も遅れそれに代わって届いたのは、国家資産委員会に海外金問題省庁間委員会の設立するという議事録であった。委員会メンバ−にはシロトキンの名も、マサルスキ−の名も、ヴォルスキ−の名もなかった。

 

上層部の最終的立場は次のようになった。財務省と経済省は返還プロジェクトの断固たる反対者であり、中央銀行は中立の立場をとり、連邦保安局、内務省、大統領府等は反対者というより、支持者のほうである。

 

マルク・マサルスキ-は「それまで賛同者であったのが反対者にまわると、不運がはじまった」「アレクサンドル・リフシツやボリス・ネムツオフが財務大臣や副首相になるまでは本当に我々を支援してくれた」「彼らの立場は突然厳しいものとなった」「“IMFの融資を妨害しないでくれとリフシツは言い、ネムツオフはまったく冷淡に西側と喧嘩させないでくれと述べた」ことを記憶している。

 

返還推進者の三人すべて、1996年チェルノムイルジン政府がフランスに帝政時代の債務400万の支払い義務を負ったので、ロシアは数千万ドル損したと信じ込んでいる。交渉では-ニンの金塊どころか、現在まで記録のあるフランスにある皇帝の不動産も話しにでなかった。シロトキンとマサルスキ-はフランスとの交渉にあたる財務大臣リフシツに多くの重要文書を渡したのだが……

 

返還プロジェクトの発起人の提案はこうだ。「政府はソ連とロシアの正当な継承者だと認め、その債務の支払いにあたり、帝政時代の海外資産にたいしロシアの権利を公式に主張すべきである。その後交渉の進展により、債務を相殺するか、あるいは海外のわが国資産で長期投資を保証する。これは海外に存在するが他人の利益に奉仕いている資産を担保にするということである。

 

仲介者

そうこうしている中、彼らに各方面からきわめて多くの魅力的提案が寄せられたいるとシロトキン、マサルスキ−、ヴォリスキ−は語った。

 

イギリスの調査会社「ピンカ−トン」の専門家は、シロトキン教授宛に手紙を出し、そこで同社には紛失した帝政時代の金塊の資料があると断言している。ニコラス・ベルチ氏、同社役員の一人だが、ロシアの専門家にはない文書を持っているので、帝政時代の資産の取り戻しを共同でやらないかと正式に提案してきた。ちなみに英国は同国に皇帝の資産がある事実を認めている唯一の国である。英国銀行の総裁ジュリアン・ヒリは英国紙「サンデ−・タイムス」で利子をいれた英国の債務を評価している。八十年ばかりの年月に500億ドルに膨れ上がっているらしい。同氏のインタビュ−ではまったく返還の見込みはないとし、「これは英国銀行の問題ではなく、二国間政府の問題です」と述べている。「19149月最初の協定が英国とロシア政府の間で締結された」

 

1986年ソ連外務大臣エドウワルド・シェワルドナゼは相互債務消却について英国政府とゼロ協定に調印している。ロシアは債務以上の利子のついた25千万ドルが棒引きされた(米国も含めた武器貸与法による支援)。しかし当時外務省も知らなかった自国の金塊にたいする要求は今では絵空事とも言える(わが国損害は専門家委員会の大体の評価では、十億ドル強とのことである)。ことによったらそれ故、英国は気前よくゼロ協定にサインしたばかりか、ピンカ−トン社を代表にして皇帝の金塊返還の高額料金の仲介さ-ビスを提案しているのかもしれない。

 

シロトキンによると、金塊返還の仲介サ-ビスについては国際弁護士グル−プ「Skadden」も

提案している。国際調査や債務者からむしりとって財産を築いた弁護士には、19141920年にかけての皇帝の金塊荷物の大部分は財務契約を結んであり、その原文はシロトキン教授の手元にある文書も含め、様々な古文書として保管されていることを知っている。

 

シロトキンによると、現在真に皇帝の贈物にたいし時期はずれのお返しの必要があると、アメリカ人も、フランス人も間接的には認めるところである。身元が分からぬように代理人をつかって彼らは何度となくシロトキン、マスルスキ−、ヴォリスキ-の古文書を買い取ろうと試みている。取引の初値はコ−ト・ダジュ−ル海岸の招待に止まった。その後5万ドルとなり、少したって地上の楽園にある豪邸となった。80年以上も世界の優良銀行に大事に保管されているロシアの宝石類リストが載っている古文書にたいし、フランスにあるロシア有価証券所有者協会はこの古文書の所有者に120万ドルを提案している。

 

金権家

本紙の取材によると、同時に何人かのロシアの金持ちが返還プロジェクトの共同出資者になる用意があるらしい。彼らの条件は単純だが今のところ実行不可能である。それは国が覚書を作成し、海外にある皇帝の金資産にたいし正式に要求し、その後の交渉権は金権家に譲り、海外での商業計画実行権と彼らが国外に持ち出した資本の赦免と引き換えに法律その他の費用を金権家に支払うという内容である。

 

アルカデイ・ヴォリスキ−によると、ロシアと金所有者の協力モデルとなるのは、もしかしたら日本かもしれない。この国が特に関心があるプロジェクトの中に原子力省による極東の総額60億ドルの二つの原子力発電所の建設や隣国に電力の売却、シベリアのコヴイトキンスク・ガス産地の開発、イルク−ツク・北京ル−トのガスパイプラインの敷設がある。これを知った専門家会議の会員は金権政治家に対抗条件を出した。「日本が同国にとってこれらの魅力的なプロジェクトを融資方式ではなく、帝政時代の政府にたいする債務相殺のやり方で資金投資するよう日本を説得する」というものである。

 

「幻想なわけがない」とアルカデイ・ヴォリスキ−は語った。「金が直接全て帰ることはないだろう。我々にも何らかの借りがあるが、また何らかの貸しもある。日本側がそれとなく仄めかすのであれば、取引が適当なやり方である。そこで私も相互利益のために折り合いをつけることを提案します」

 

まったく最近のことだが元駐露日本大使東郷氏がモスクワから離任する時、アルカデイ・ヴォリスキ−を訪問した。別れに際し握手した手をなかなか離さず、「覚書を待っている」と同氏は二度も繰り返した。

 

そうした中、財務省の否定的結論にもかかわらず、大統領府は2000年に金問題の検討ランクを上げると決定した。五月、連邦会議は金追跡者三人からヒヤリングを行う。一方、五月中旬に予定された聴聞会の前に噂だとプ-チン大統領は問題を新任の総務長官に移す命令に署名するらしい。

 

一縷の望みだが、シロトキン教授はコジンの突然の頼みを聞き入れた。新任の総務長官は海外におけるロシアの金と不動産という本に著者のサインを教授に求めた。プ-チン用である。

 

 

 

 

518

“ロシア共産党一部、党路線変更を要求”(完)

-“ロシア連盟の創立は、ロシア共産党を変革する初めての試み-

(独立新聞、513日、イワン・ロデイン)

 

本日モスクワで社会政治団体ロシアの設立大会が行われる。517日、同団体のモスクワ支部の設立大会がある。こうした政治的動きの中心人物によると、6月までにロシア各地五十ヶ所以上で設立大会が行われ、そこで社会的地位を認知されるためのロシア連盟の大会を開ける可能性がでてくるという。

 

国内には500以上の政治社会団体があり、そうしたものが誕生したという一般にありふれた事実にいったいどんな意味があるのだろうか。問題は、ロシアがロシア共産党の地方支部を中心に設立されるが、同党最高幹部はこの設立には参加せず、あらゆる反対行動をとっていることにある。知られていることだが、1999年の国会選挙前に事実上破綻したロシア人民愛国同盟の第二版ともいえる団体を設立する要求があり、これはロシア共産党内部に党上層部にたいする深刻な不満が存在し、多くの党員によると、現在の政治状況において党上層部は一般党員にたいしどのような建設的活動方針も提起できず、言葉では現政権にたいし反対発言を繰り返すが、その実現政権と手を組んで、党やその支持者のためでなく、現政権そのもののために活動している、そうしたことに起因している。

 

とはいっても、社会政治団体ロシアにはロシア共産党を分裂させる意向はまったくない。他の行動方針を提案するつもりである。これは左翼思想の支持者にも同意できるはっきりしたやり方で問題の解決にあたり、現政権と建設的に協力するというものである。いずれにしても、ロシア連盟設立文書で公式に表明された立場はそのようなものである。しかしなgらこの立場の大局的意図はまったく別なものである。この組織発起人の考えだと、これは新しい左翼民主主義組織であり、ロシア共産党の未来のための大闘争における一種の橋頭堡なのである。そうした訳があって、六月に予定しているロシアの全国大会後、同組織の代表者に就任するようゲンナジイ・セレズネフに提案するかもしれない。この党幹部こそが、だいぶ以前から公然と自分の支持者に向かって、同党をよりはっきりと社会民主主義的なものにするよう訴えている。

 

だがセネズネフ氏はかなり以前から別のことでも注目されている。共産党の多くの幹部と比較してはるかにクレムリンと協力関係にある。したがってロシア設立に彼の影響が明らかに一定程度あったと推測できる。無論これには発起人は否定し、共産党分裂させるクレムリンの目論見を阻止しているのであり、政権との関係ははるかに敵対的であると述べている。しかしどうやらそうではないらしい。問題はロシア共産党分裂の試みはここ数年何度かあったがいずれも失敗に終わっている。クレムリン陰謀家全ての根本的誤算はいくつかの点を考えなかったことにあると思われる。指導部に最も不満があり立腹している党員でも党の団結を乱すどころか、ましてやその分裂の首謀者になろうとはけして望んでいないことである。勿論、ロシア共産党内の様々なグル-プは党内の全権を握ろうと夢想していたし、今後も夢見るだろうが、それは全党の権力であり、その分派や派閥の権力を取ることではない。ロシア共産党にたいする今回のやり方はこれをよく踏まえたものと思われる。

 

ロシア共産党のモスクワ郊外の組織も本日、指導部も承認していない独自の行動に踏み切ろうとしている。これはその書記セルゲイ・ニクゴエフが国会議員資格認定書を辞退するよう説得した党幹部にたいする怨念によるものである。二番目の違背者はモスクワの党組織で、常に多少の独自行動はとっていたが、これは特に首都党組織の大きな影響力と結びついたもので、時には党員数も財政面も組織力もロシア共産党のいくつかの地方・州組織を上回るものである。そうしたわけで、ロシアの発起人の一人にユ−リ・プロコフィエフがなっている。彼は旧ソ連共産党モスクワ市委員会の第一書記であったが、現在はロシア共産党クイブイシュエフ地区委員会幹部であり、またモスクワのある有力企業にも籍をおいている。

 

ちなみに彼は昨日ゲンナジ・ジュガノフを訪問した一人である。訪問者たちは、ロシアにたいし何らかの粛清措置、例えば五月二十日に予定されているロシア共産党中央委員会総会で彼らを攻撃しないようにとか、彼らを除名しなように党幹部に説得しに訪れたのである。党指導部の決定がどのようなものになるか今のところ不明だが、間違いなく何らかの対抗措置を練り上げているだろう。

 

 

 

516

“降雪:春の異変か”(完)

-昨日警察当局はマスメデイア「メデイア-モスト」の家宅捜査を実施した-

(独立新聞、512日、アンドレイ・リトヴィノフ、マリナ・ヴォルコヴァ、ウラジスラフ・

クジミチェフ、アラ・ツチコヴァ)

 

昨日モスクワ市の中心で大騒動があった。当事者は大手マスメデイアの「メデイア-モスト」と警察当局である。午前900930にかけて約30人の警官が数台のマイクロバスでボリショイ・パラシェフ交差点にある同本社に乗りつけ、同建物に入った。同社職員には検事総長代行サビル・ケフレロフが署名した捜査令状が提示された。数時間の間、建物内にいた「モスト」職員は部屋から離れることができなかった。捜査はまたペレヤスラフ交差点にある「NTV-インタ−ネット」社と「メモネット」社でも行われた。1330分頃までボリショイ・パラシェフ交差点は特捜部の自動車と建物主出入口を狙った長い列の多数のテレビカメラで事実上閉鎖状態となった。

 

とは言えカメラを作動させる機会はあまりなかった。大きな扉から現れては消える覆面と迷彩服を着用した人間、その中には税務署の制服の者もいたが、他のものは識別するものはなにも付けていなかった。いつものようにコメントはきわまて簡単であったが、分かったことは、オフィイスにいた人の携帯電話が没収され、また捜査を行ったいるのは最高検の職員で私服であるということだけであった。

 

捜査のことが明るみになると、司法当局特に最高検と「メデイア-モスト」社の間で情報の食い違いが出てきた。各々事件の原因をまったく別に述べている。

 

対立が最高潮に達したの午後2時、その時ボリショイ・ペレヤスラフ交差点にイ−ゴリ・マラシェンコ氏が現れた。若干躊躇した後(彼の発言を聞こうと殺到した多くのマスコミにより同社副社長はあやうく押し倒されるところであった)、「メデイア-モスト」社の立場から同氏は事件に関しコメントをした。「我々はマスコミにたいする国家の横暴の目撃者です(この発言に彼のコメント意味が込められている)」 イ−ゴリ・マラシェンコ氏によると、この捜査の背後には特務機関(特に連邦保安局)とアレクサンドル・ヴォロシンを中心としたクレムリンがいる。テレビ局はチェチェン戦争を批判的に描写し当局にたいし罪をおかしたと、ここでイ−ゴリ・マラシェンコ氏はリャザン市の爆破未遂事件とこれに関し特務機関の役割について特に語気を強めた。彼は事実上、テレビ局にたいする連邦保安局の復讐を非難した。さらに同社記者は権力上層部の汚職事実、その中には警察幹部の汚職も含め多くの取材をしていた。まさにこの取材資料を没収するため、マラシェンコの意見だと、武装警官を伴い私服の者たちが「メデイア-モスト」社の事務所に来たのである。

 

最高検察庁は昨日この事態についてきわめてあいまいなコメントを発表した。同庁の広報・渉外センタ−によると、昨日の捜査には内務省、最高検察庁、連邦税務査察局の職員が参加した。公式のコメントには連邦保安局の関与は触れられていない。警察当局によると、捜査の根拠となったのは、同社安全部職員の不法行為である。このことは、1998年末に告発されたある国営企業の資金横領に関する刑事事件を捜査している過程で明るみになったことだとしている。「インタ−ファックス」社のコメントだと、昨日の事件は財務省元幹部数名にたいし告発された刑事事件の捜査の一部だととしている。

 

「メデイア-モスト」社ビルの家宅捜査は昨日いっぱい続けられた。午後四時ころ明らかになったことは、警察当局はすでに「メデイア-モスト」社社長ウラジ−ミル・グシンスキ−の執務室も捜査したとのこと。イ−ゴリ・マラシェンコによると、同社社長は昨日の朝にはまだイスライエルにいたが、近いうちにモスクワに帰る。日没頃になると、「メデイア-モスト」社安全部の室内から、無線電話の会話を盗聴できる違法盗聴装置が発見されたと、知らせたが入った。これは、警察当局の自社ソ−ス源から入手して「インタ−ファックス」社が伝えてきた。

 

「メデイア-モスト」社の捜査にどのような理由があろうとも、各当事者がモスクワの昨日の事件をどのように説明しようとしても、こうしたことは時代錯誤の強烈な印象をあたえる。1994年と今回の状況の違いと言えば、当時は武装警官が「モスト-バンク」の職員を雪の上にうつ伏せさせたが、天候の違いだけである。とはいえ、前回はグシンスキ−の社員は名をふせた特捜部と遭遇したが、不愉快な思いだけですませたが、今回最高検察庁、連邦保安局、税務査察局の職員も加わった捜査で社長グシンスキ−はかなり強力に神経を逆なでされたかもしれない。

 

19988月の危機後残った企業経営者の中で「メデイア-モスト」グル-プの経営者が現政権で最も好感をもたれていなかったことは誰もが知っていることである。国会選挙では同氏はクレムリンに対抗した祖国-全ロシアを支持したばかりか、このメデイアグル-プのマスコミ部門はチェチェン問題では独特の立場をとっていた。議会のロビ−ではしばしば、とっている立場が反国家的だとし、「メデイア-モスト」社の幹部にたいする批判が聞こえていた。昨日の事件に関し隠された政治的真相には国側は否定しているが、「メデイア-モスト」社にたいする抜き打ち調査がありそうだとの話はだいぶ以前から流れていた。グル-プ自体の自信からすると、「メデイア-モスト」社は十分準備していたらしい。

 

「メデイア-モスト」社の捜査そのものは、警察当局の行動にたいする世論の反対を見越して計画されたものでは明らかにない。独占資本とは事業によるだけでなく、大衆の意識に影響する力をもっているからこそ独占資本なのである。クレムリン周辺や政府周辺ではグシンスキ-氏の影響力は大幅に低下したとはいえ、彼の影響力をいずれにしても侮ってはいけない。これは昨日のNTVテレビとエコ−モスコウラジオの放送が示している。この事件は明日国側が詫びをいれたとしても(ほとんだありえないが)、グシンスキ−氏のマスコミを使って一週間以上は誇張されて伝えられるだろう。(補足すれば、グシンスキ−氏傘下の全マスコミは昨日国から無料の宣伝材料をもらったわけである) しかし問題はメデイア関係に止まらない。

 

国会では会派ヤブロコがグシンスキ-氏にきわまて親しいと見なされている。これに関し、

「メデイア-モスト」社支持の先頭をきったのが、あらゆる問題は覆面と自動小銃をつけた人間を入れずに解決するよう訴えているほかでもない会派ヤブロコ2イヴェネンコであったことは驚くことでもない。とは言え、ヤブロコは国会選挙でも、大統領選でも敗北し、

以前ほど最早影響力はない。

 

「メデイア-モスト」社の反対勢力にとって最も悪影響がでると思われるのは、国際社会におけるグシンスキ-氏の影響力である。ちなみにこの独占資本家は全世界ユダヤ人会議の副議長であり、またロシアユダヤ人会議の議長でもある。ついでだが、彼はフランスのシラク大統領と直接会った唯一のロシア財界人でもあった。

 

「メデイア-モスト」社の事務所家宅捜査の背後にどのような理由があったにせよ、外国のマスコミは唯一の反対勢力の放送局にたいする政治的色彩の強いクレ−ムだとか、政府は大きな暴露から身を守ろうとしたとか、いつものごとく世界に向けて発信するかもしれない。一方、対外債務問題やチェチェンに関しロシアの政策にたいするヨ−ロッパの不満問題をかかえ、ロシアの立場が明らかに弱いこと背景にしてわが国現政権に批判的な者はモスクワにとって不利な決定をさせるため、こうした報道を利用するかもしれない。

 

いずれにしても、「メデイア-モスト」社の運命の問題は今では大統領レベルの決定の局面に移行していることは明らかである。そしてマスコミの騒ぎは国家元首を狭い選択肢においこんでいる。実際大統領にはこの事件に関し二つのやり方しか残っていない。一つは同社職員にたいし刑事事件として扱い、裁判で有罪根拠を立証する方法であり、もう一つはこの事件をもみ消すことである。一つ目のやり方はロシアの文書取扱いの実情を考えると、疑問がある。首相当時のプリマコフとベレゾフスキ−の争いを思い出せば十分である。同じように捜査があり、同じように刑事事件があった。そうしたことを考えると、最もありえるのは二つ目の方法である。しかしながら、もし犯人見つけ、罰する(さほど厳しくなく)とすると、そもそも昨日の事件は何のためにやったのかとうことになる。

 

記者会館で昨日行われた記者会見で「メデイア-モスト」社副社長イゴリ・マラシェンコは、今年の始めには同社の幹部にはこの捜査の準備が分かっていたと発言した。四月末、二つの手紙が出された。一つは大統領代行プ-チン宛で、もう一つは検事総長代行ウスチノフ宛である。この手紙には見せしめの行為が準備されていると書かれていた。これに関する返事はなかった。

 

昨日「メデイア-モスト」社幹部は大統領広報部を連絡をとろうとしたが、この事件に関するどのようなコメントも入手できなかった。イゴリ・マラシェンコ氏によると、ウラジ−ミル・プ-チンは昨日の事件に関し、何らかの方法で態度を示すべきだとしている。もしどのような反応もなければ、「これはロシアで現在起きているその政治状況について多くを語るものである」

 

「メデイア-モスト」社は公務員の違法行為で最高検に新たに提訴するつもりでいる。マラシェンコ氏によると、その中には「捜査中に犯された違法行為が列挙されている」。

 

一方、検事総長代行ワシリイ・コルモゴロフは政治的依頼だとの非難を否定した。「メデイア-モスト」社にたいしては、同代行によると、1998年末からサンクト・ペテルブルグで実施されている「ロシア・ビデオ」社の業務調査中に入手した資料をもとに426日にすでに告発されているものだとしている。

 

 

512

“政府の新しい使命”(完)

-ウラジ−ミル・プ−チンは新たな使命を自覚しているだろうか、

この使命に対応する用意があるだろうか−

(独立新聞、5月8日、アレクサンドル・ウラジスラブレフ:“祖国”政治会議書記)

 

エリツインの時代が終焉したと既に多く語られている。新たに到来した別の時代が全時代とどこが異なるのか、為政者の素姓をのぞけば、きわめて不明瞭である。

 

最大の相違は前政権と現政権の歴史的課題の性格にあると思う。エリツインは破壊者であり、ただ破壊行為をしただけだと、そのことで彼はしばしば非難されていた。しかしたしかに、歴史が彼に提起した最大の課題は、古い秩序の破壊と新しい種を蒔くための畑をつくることであったかもしれない。彼はこれを根気強く一貫して実行した。

 

こうした行為が抵抗にあわないわけがない。今までの生活様式、所有関係も含め今までの制度の破壊は心から民主改革を支持していた者にとってもきわめて異常なものであった。さらに加えて、だだでさえ少なくない公的負担をさらに重くした多くの誤りがあった。

 

こうしたことから、彼と議会は常に対立していた。議員は有権者の意志の代弁者であり、最も密度の濃いやり方で彼らの不満を表現しないわけにはいかない。ところがエリツインは彼らとうまく折をつけることができず、と言うのもこれは彼の使命を放棄することに他ならなかったのかもしれない。

 

こうして大統領と市民社会が常に対立したのである。エリツインは政党と協調することができず、その発展を促進することもできなかった。そのわけは、このような状況ではどのような社会団体も人気をうるためには、反対勢力であらねばならなかった。彼にとって敵をつくることは、すなわち自己の使命の困難を意味した。

 

こうした条件で踏ん張るには、どんな支えでも必要であった。そうして一族、有力者グル−プ、金権政治家、策略となり、いずれにしても政略から直接暴力(1993年)とあらゆる手段を駆使し、膨大な資金をつかい、エリツインは自分の使命をはたした。ロシアのピノチョットの出現を求めていた人たちは、ロシアにはすでにピノチョットは存在したし、その名がボリス・ニコラエヴィッチ(エリツイン)であったことに、気づいていない。古いものの抵抗がいくぶん変化し、いくぶん衰えてきた。何故なら国民の大半は変化した環境に順応できるようになったからだ。

 

実際、これは社会政策作りをうまくできなかった政府の行いというより、むしろわが国民の秀でた資質や、忍耐力や適応性によるものである。いずれにしても、開かれた世界に新芽が伸びてきた。新しい経済、新しい制度、新しい、より自由な人々である。

 

まさにこのことが現在、意識的に創造的な長期方針を作り、それを一貫して実行するための可能性を作り出しているのである。ここに新たな段階の最大課題があるし、前政権の使命もあった。

 

もちろん、我々の畑には雑草もいっぱいある。愚かな経済実験で生まれた奇形の突然変異、ギャング、独占資本の楽に手に入れた金に慣れた汚職官僚のことである。彼らは新芽の発育を阻むし、彼らは根絶すべきであり、良い若芽は補助し、追肥する必要がある。経済を躍動させてはじめて、我々にとって屈辱的な貧困と決別することができる。

 

こうした課題がきわめて明らかにもかかわらず、まだかなりの抵抗があるだろう。ところが今は政府の新しい使命に抵抗しているのは社会ではなく、膝元の一族であり、有力者グル−プや独占資本であり、つまり前政権がよりどころにせざるえなかった部分なのである。当時は彼らの客観的利害は一致していた。と言うのも、古い秩序を破壊すると必然的に生まれるのが混乱であり、これがふところを肥やすチャンスを与えたのである。ところが今度はあらゆる創造的動き、つまり経済活動の整備はこうしたグル−プの利益を直撃する。

 

そこで現政権と前政権の根本的相違にアプロ−チしてみる。政府は新しい使命を遂行する上で、現在は社会の支持を全面的に期待することができる。そしてわが国民は無知とか、間違っていると何度も非難されてきたが、このことは鋭く感じている。それで国会議員選挙と大統領選挙の結果は、政府の最大課題解決にたいし政府に全面委任したのであった。

 

しかしこれは本当にまったく別の方向転換なのだろうか。市民社会が政府の不倶戴天の敵から当然の同盟者になる。社会の諸制度はすでに抵抗源どころか逆に、今後の発展の牽引車である。それと言うのも、国民が欲していることはただ一つ、早急に雑草を駆除し、明日に確信をもてることである。

 

一つ問題をはっきりさせる必要がある。はたして新政権は自分の使命を自覚しているのだろうか。エリツインは自分の使命を自覚していたし、それに従った。プ−チンはこれから使命に従って行動することを見せる必要がある。

 

私にとってこの自覚の最良の目印と証拠となるのは、経済と社会の健全化、汚職と犯罪との闘いにおいて社会に支援を直接プ−チンが求めることであろう。それにたいし、社会団体、特に政党が彼を支持することである。

 

これは政府側から政党を操るとか、評論家が今熱心に論じている党建設にたいする一種の国家要求を言っているのではない。社会は自分の力でしかるべき団体を作ることができるし、上に述べたような状況さえなければ、既に作り上げていたはずである。

 

エリツイン時代は、社会意識の中で看過された極小、微弱の政党を残した。これらの政党は、不意に害を与えないようただその予防のため、看過したのである。その結果、わが国では政党に属している人間はほとんどと言えるほどどことなく品性がなく、いずれにしても真面目でないと見なされている。

 

現在政府にはその使命を支えることのできる強力なパ−トナが必要である。彼らを強化する上で政府ができることはただ一つ、政治団体にきちんとした話し相手を見出し、常に彼らと対話し、国家決定をつくる際、彼らの意見を聞く、そうしたことを言葉でも実際にも示すことである。

 

そうした話相手には左派も、右派も、中道勢力も加わるのは当然である。それと言うのも、問題が全国家的議題であり、全体の利害が存在するテ−マであり、妥協の余地があるテ−マだからである。同時にこうした会合の構成そのものは、どのような政党が現実的力をもっているか、社会に示すものであり、それが三つないし四つ以上の政党からなる安定した複数政党制度の形成を促すものでもある。

 

さらに政府自体もどの党に属しているのかはっきりさせる必要がある。社会団体が正常に発達すれば、いわゆる政府の党のかわりに選挙で過半数を獲得した政権党が必ず誕生し、その政策を実行する資格ができるのである。その政党が政府を構成するのであり、政府の必要で政党が形成されるのではない。

 

2003年〜2004年の選挙ではこうした形で行われることを望みたい。それこそわが国の歴史の新しい段階に相応しいものであり、ロシア政府はしかるべき新たな使命を実行することができるだろう。

 

 

59

“政府と国民は一体ではない”(完)

-大統領就任式にあたり、社会学者が用意したプレゼント-

(独立新聞、56日、マリナ・カラシニコヴァ)

 

ポスト・エリツイン政府はロシアの社会と国家の状態を全面的に調査するよう何度も呼びかけた。そこでまさに大統領就任式にあわせ、地域政治調査会社(ARPI)がロシアの世論というタイトルで広域調査結果を発表した。ここでは1999年と2000年始めの社会学に見た地域調査結果がまとめられている。ちょうどこの期間が民主派と市場主義者のここ十年間の政治が再評価された時期にあたる。例の信用クレジットは完全に地に落ちてしまった。あてにならない約束や幻想にたいし十分な免疫力をつけながら、ロシア人は明らかに事態をより正確に評価し始めている。調査結果によると、大衆の傾向の主な特徴は、国民の政治的疎外感が広く拡大し定着したこと、とりわけ人々の運命を左右する重要な国家の決定に現実的に影響することが不可能だと認識しはじめたことである。どのような選挙もこうした環境では一種の儀式と化してしまう。「我々は頼まれれば投票する。」誰かは重要でない。したがって、最近の国会選挙最大のドラマ中央の枠内で相対的に政治勢力を再配分するはずであったが、実際にはきわめて表面的なものとなった。例えば中道派のルシコフとプリマコフは当初容易く政治無関心層の票を獲得できたが、この票は容易く失ってしまい、プ−チンと統一に流れてしまった。社会では政治変化は起きておらず、誰に投票したかとっくに忘れている有権者にも特に注目もされず、おきまりの政権改造だけが起きたと、社会学者は指摘している。

 

約束は守らず、政治的無責任の十年間が政府や国家機関にとって、跡形もなく消え去ったわけではない。「現在の経済状態の最大の責任者は誰か」との質問にたいし、「ガイダ−ル政府-42%、チェルノムイルジン政府−29%、キリエンコ政府−7%、プリマコフ政府−1%」と一般国民は答えている。アンケ−ト回答者の大半はどの社会団体も信用していない。最も信用が低いのは労働組合である。比較的高い信用を得たのが、マスコミと協会である。ただし、両者ともその人気は明らかに低下している。それにたいし、立派な君主の崇拝というかつての権威主義的考えに回帰する傾向が見られる。このように近代的で民主的な精神による国民と政府のロマンスはとどのつまり成就していない、このことを政府は知るべきである。さらに調査結果から次のこと言える。どちらの側もこのロマンスを最早実らせようとしていない。これは改革の新たな段階にとってはあまり良い門出ではない。

 

大統領選後、国民の54%が新大統領は国の経済状態を良くできると考えてはいるが、政治無関心の壁が取り除かれたわけではない。支配しているのは大衆の無気力と落胆である。調査にあたった担当者は嘆いている。「アンケ−トをとるのが難しい。国内にはいかなる全国家的議論もおきていない。国民の30%は政府の行為にたいし、自分のとるべき態度を知らないし、考えてもいない。大衆の関心と反応が現れたのは、もっぱら日常問題である。60%の国民は夏にキノコ狩りに行き、80%に国民は冬支度をする。」 こうしたわけで、国民と政党はまったく一体ではない。社会は権力上層部とは距離をおいているし、自分の生活をして暮らしている。

 

56

“ロシアはレ−ニンを恨んでいない”(完)

-大きく様変わりしたとはいえ、国家指導者記念像はツア−リ像の運命とはならなかった-

(独立新聞、422日、セルゲイ・カルポフスキ−)

 

今日さまざまな人々がさまざまな思いで世界プロレタリア−トの指導者、生誕130周年について回想している。ある人は畏敬と感謝の念で思い出し、ある人は呪わしいものと思い出し、ある人は無関心である。多くの者はそもそも思い出すこともないだろう。だが各人にはこれについて重々しい理由が存在するはずである。しかしそれがどうであろうと、レ−ニンには人類史においてしかるべき地位があるし、そしてこの地位は最後列ではない。その他のことは論争になるかもしれない。

 

この75年間、レ−ニンには変化はなかった。彼にたいする扱いが変わったとすれば、それは人類に大きな変化があったからである。革命指導者の学問的、政治的評価の見直しとともに、彼の事業、作品、肖像、記念碑にたいする日常の扱いも変化している。この変化をもとに慧眼の観察者は今日我々の社会で起きていることを判断するかもしれない。一つの偶像が崩壊する時代の後には別の偶像が出現する時代がやってくる。

 

共産主義者レ−ニンの庇護者である反共のソプチャク 

本誌サンクトペテルブルグ特派員ベシク・ピピヤの伝えるところによると、レニングラ−ドには103個のレ−ニン像があり、その内16の像は国の所有物であった。あからさまな反共主義で有名なアナトリ・ソプチャクを中心とする民主派の人々が市政につくと、この遺物をどう扱うかという問題が出てきた。

 

「レニングラ−ドではこの記念像にたいする扱いは常に特別であった」と市彫刻国立美術館副支配人ナデジュダ・エフレモヴァは語った。「ここは記念碑彫像学校発祥の地であり、造形芸術の世界的傑作も生まれている。アンケ−トをとることにしたのです。レ−ニン像が立っている企業や公的機関の責任者全てにたいし、委員会は記念像の状態と今後どう扱うか、連絡するように要請しました。全ての回答は、記念像はしかるべき歴史的場所で保存されると伝えてきました。人々は祝祭で集まり、出会いの場所にしたり、恋愛をしたレ−ニン像の場所から縁をきりたくないのです。」

 

まったく信じられないことだが、アナトリ・ソプチャクはロシア各都市の市長に手紙を書き、もしレ−ニン像のやむをえぬ解体や撤去を予定している場合、ネヴァ川の都市(サンクトペテルブルグ)が引き受ける用意があると伝えている。ペテルブルグ市長の同僚である各都市の市長は彼の提案に謝意を表明し、レ−ニン像の冒瀆は許さないし、その歴史的場所に保存すると返事をよせた。

 

それでもペテルブルグのレ−ニン像はいくつかは、解体された。一つは気象条件により材質が破壊された理由による。もう一つは周囲の建造物が変化したことによる。例えば以前はレ−ニンの銅像の指先が文化会館ネフスキ−の一つの建物を指していたが、ここにはソ連時代編物・刺繍のサ−クルがあったのだが、現在の建物にはカジノと風俗店が入っている。それで郊外の修理工場ネフスキ−・ザヴォドの敷地内に革命指導者を移すことになった。文化会館の前には冗談好きの者たちが、手に指揮棒を持たせボリス・エリツインの記念像を立てたらどうかとからかっている。

 

時が証明しているのは、ペレルブルグは全て正しく対処したことであり、それは全てが保護されたからだと、ナデジュダ・エフレモヴァは断言した。社会には今でもさまざまな愛着が存在する。破壊や撤去の口実をあたえることは、市のあらゆる記念碑にたいし勝手な振る舞いや、破壊や蛮行の口実をあたえるになる。

 

クイビイシェフ州であった当時、サマ−ル行政区はレ−ニンの地方と見なされたいた。記念碑や胸像の多くはサマ−ルの各都市、農村に建てられていた。旧州立レ−ニン記念博物館学芸員の資料だと、この行政区内に90年代の始めには、1400のレ−ニンの胸像と記念碑があったらしい。

 

その内現在、国の公式の記念碑という意味ではたった二個だけである。一つは、現在の革命広場に立てられたサマ−ルのイリイチ記念碑で、旧管区裁判所前の小さな公園に位置していた。ここは若い頃弁護士ウラジ−ミル・ウリヤノフ(レ−ニン)が司法活動をしていた場所でもある。もう一つは、サマ−ル製鉄工場の玄関守衛所前の広場にあるレ−ニン記念碑である。この工場は30年以上もレ−ニンの名をなのっていた。これはソ連邦人民芸術家で彫刻家のN.トムスキ−のデザインで建造されたものである。

 

二つの記念碑の一つには興味深い歴史がある。これは市当局がいまわしいツア−リ体制に勝利した印として、十月革命十周年の1927117日に建立した。資金節約のためブロンズ像は皇帝アレクサンドル二世の偉大な記念碑がおかれた大理石の台座の上に据え付けられた。ツア−リの記念碑はモスクワの歴史博物館やストロガノフ学校の建物を建築した彫刻家であり建築家のV.シェルヴ−ダの作で、悲劇の死を遂げた後、ツア−リを愛した民衆の手により建立されたものである。そして何メ−トルもある皇帝ブロンズ像の場所に、ソ連邦人民芸術家で有名な彫刻家M.マニゼル作でほぼ等身大の世界プロレタリア-ト指導者の記念像が立てられたのである。

 

レ−ニンの名にちなむ都市としてはカザン市があるが、ここも二つのレ−ニン記念碑で自慢できるかもしれない。これは文化的にも、歴史的にも価値があり、国が保護している。その一つは1954117日に建立されたもので、銅像はスタ−リン賞受賞者、P.ヤツノのデザインで鋳造されたものである。この銅像はレ-ニン丘のモスクワ大学のために用意されたものだと言われている。後にはっと気づき、大学の名はレ-ニンではなく、ロモノ−ソフであった。結局これはカザン市に贈呈された。

 

その二週間後、19541121日、レ-ニンが学んだカザフ大学創立150周年日、小さな広場にあるその銅像の前にさらに一つのレ-ニン記念像が建てられた。作者はV.チガリとV.カリ-ニンであった。ブロンズ学生ウリヤノフ(レ-ニンの本名)にまわりでは今も学生の活気が伝わってくる。ここでデ−トや、愛の告白、悲しみや笑い、講義を休んだり、試験の準備をしている。この記念像の撤去を想像してもうまくいかない。それほど作者は大学と調和させて作ってのである。

 

カザフにあるその他のレ-ニン像には文化的価値はないが、もとのまま立っている。最近ラジオ局「ドイツの電波」は、世界に座ったポ−ズのレ-ニン像が二つあると伝えている。一つのはモスクワクレムリン内にあり、もう一つはチェコの都市パルドウビッツエ(現在競売にかかられている)にある。だがもう一つ、第三の像がカザンクレムリン内にあった。石膏のレ-ニンがスタ-リンと一緒にソ連共産党第十二回大会までベンチに座っていたが、この大会ではレ−リン廟からスタ-リンの遺骨の撤去と彼の記念碑の取り壊しが決められた。スタ-リンは撤去され、その代わりに四冊の大きな石膏の本が置かれた。それでレ-ニンはその本をじっと見つめながら今も座っている。

 

流刑者囚人釈放された者の記念碑

-ニンはウファ市にもいた。1900年に二度も訪れている。これを記念してこの町に記念像が建立されたが、多くの年配の市民は嘆いている。これは、レ−ニン通りとコミュニスト通りの交差点にあるイリイチ辻公園に建てられた。一時この記念像はロシアで最初ものと見なされたが、後にグルホフスキ−繊維工場の労働者が1924122日に建てたものが最初のものだと分かった。しかし最初であるという栄冠を譲りたくなかったので、歴史家が検証すると、グルホフスキ−の記念像はアマチヤ彫刻家が作った半身像であり、ウファの記念像はプロの作品で全身像としては事実上最初のものだとしている。

 

この建立は19241月の喪の期間に決められた。その年117日には早くも記念碑除幕式が行われた。花崗岩の台座に高い大理石のポ−ルがあり、紋章と飾りが付けられ、白い大理石の地球儀が載せてあった。地球儀は鎖で取り巻かれ、ロシア領の上で鎖は繋がれていなかった。大理石台座のポ−ルと並んで等身大のレ-ニン像があった。

 

I.メンデレヴィチ作のレ-ニン像はスタ-リン賞を受賞したため、公園に15年間放置された。その後これは倉庫に入れられ、かわりにS.メルクロフの有名な作品コピ−が設置され、これは手に本をもち、物思い耽る座ったポ-ズの像である。I.メンデレヴィチ作は流刑の運命にあったが、現在ウファ市の工場ギドラヴリクの敷地内にある。

 

イリイチ公園の記念碑の変化はまだ続く。この像はゆっくりと傷みだし、90年代始めには危険な状態にまでなった。市は記念碑の修復を決めた。復元者がボ−ドを取ると、市民の目の前にレ-ニンの姿はなく、いくつかの個所のなくなった復元されたポ−ルが現れた。「今度はこの大理石ののっぺら棒はいったい何を象徴しているんだ」と古いボリシェビキは憶測した。

 

この話には謎があると考えている人もいる。復元者が作業に入ると、多くの大理石の板が荒廃した墓から取られたことがわかった。その大理石板の裏側には名、年月日、「ここに永遠に眠る」と刻まれていた。

 

エカテリンブルグ市ではプロレタリア-ト指導者の記念碑は、中央広場の最大のもの以外に全身像が10以上で半身像が100ぐらいある。しかしその多くは旧スヴェルドロフスク市に過度に詰め込まれた軍事企業の敷地内にある。レ-ニン像は国家機密と同じように厳重に警護されていた。それが開放されれば、市民にとってほんとうに発見となったはずである。しかし、90年代始め民主主義発祥地と呼ばれた同都市で文化と憩い中央公園にレ−ニン並木路をつくる考えが盛り上がっていた(エカテリンブルグ全市からイリイチ記念碑を集め、公園の松林の中にそれらを一列に並べる計画)にもかかわらず、その開放は実現しなかった。

 

ブリヤ−ト共和国の本紙特派員セルゲイ・ベレジンはきわめて独特のレ−ニン記念像について伝えてきた。この記念像はウラン・ウデ市にあるが、しばしば不思議な出来事の発祥地になっている。ウラン・ウデのレ−ニンはとてつもなく大きい。レ−ニンの全身像ではないとしても、その頭部像がすごい。頭部像は直径7mで、台座も入れると高さはほぼ14mにもなる。何人もの人がこの普通でない記念像はギネスブックに載せられていると断言している。粋な市民の中にはこの記念像をウラン・ウデのスフインクスと名づけているが、多くの者はただと呼んでいる。

 

昨年秋、ブリヤ−トの一人の有名なアンダ−グランド活動家がこの頭部像に真っ向からの勝負を挑んだ。ルスラン公とでも、あるいはドンキホ−テとでも思ったのか、彼は馬に乗って記念像のそばに現れ、あきれた市民の目の前で何度か記念像に荒れ狂ったように突撃した。何度やっても興奮した馬は、あたかも呪いの輪に包まれたような頭部像の台座の付近で足を止めてしまった。

 

しかしもっと先走ったのは二人の地域の知識人で、ロシア史における一つの重要問題の人道的、神学的、社会文化的解決案なるものを作り発表した。彼らはレ−ニンの遺骨をウラン・ウデに埋葬するよう提案した。頭部と離れていてどこで安からに眠れるのかと言っている。

 

精神病院のレ−ニンと女性コ−トを着たレ−ニン

いったい運命はレ−ニン像をどこに連れて行こうとしているのだろうか。

リャザン市ではリャザンの共産党員が市中央広場のレ−ニン像の解体に憤慨していた1993年、当時の市長はリャザンボリシェビキは鉄道員公園にある別のレ−ニン像の場所で集会をしてもよいと声明をだした。そしてそこが気に入らなければ、精神病院のそばにあるレ−ニン像の場所でやればよいとのことであった。誰にそんな気のきいた考えがソヴィエト時代に浮かんだのか定かではない。しかし現在でも鉄道員公園にも、そこにもレ−ニン像は立っている。三年後、あらためて彼の名をつけた市中央広場にもレ−ニン像が復元された。

 

ところでケメロヴォ市のレ−ニン像はどうなったろうか。州都のソヴィエト広場にある最大のレ−ニン像は1970417日に建立されたものだ。作者はロシア社会主義共和国人民芸術家、レ−ニン賞と国家賞受賞者L.ケルベルである。記念碑建造にはケメロヴォのトップ建築家A.スリコフも参加した。記念像の高さは6m、重量3.5トン、鋳造物で、レニングラ−ドの「記念碑彫像」工場の労働者により組み立てられ、ケメロヴォ市に運ばれたものだ。この功績により同工場の労働者はソ連共産党州委員会により賞状を授与された。しかし、この建立に参加した者誰しも気づかなかったことがあった。記念像のコ−トのボタンを止める位置が女性用であったことだ。

 

ゾロの襲撃と狼藉

ベレゾフスキ−市のコンクリ−ト製レ−ニン像は脚だけが残った。1999422日夜、見知らぬごろつきが、エカテリンブルグから数キロ離れたこの小さな町の中央広場にあるレ−ニン像を爆破した。数メ−トルにわたり破片は飛び散り、台座の前の演壇に「驚くがいい、私は戻った。ゾロ」と赤マジックで書かれていた。謎のゾルは今でも見つかっていない。新しい記念像にたいし、市当局は資金提供しなかった。共産党員が市民に募金をうったえたが、寄付金は多く集まらなかった。そこで地域の一企業の労働者が寄贈した胸像を台座の上に設置した。199911月記念日の前夜、胸像は台座から姿を消し、「ゾロ」と書かれていた。

 

レ−ニン国立図書館のそばに1958に建立されたイジェフスク市にある世界プロレタリア−ト記念像にたいする最初の破壊行為は、1990年ペレストロイカが始まった時であった。朝通行人が台座とブロンズ像にペンキがかけられているのを発見した。犯人は見つかった。犯人は若い学生であった。全てのものは政治的真相を自白すると期待したが、司法当局はありふれた蛮行と結論づけた。この犯人は罰金刑となった。記念像はきれいにされ、塗装された。昨年また誰かが汚したが、それは直ちに処理された。

 

ノヴゴロド記念碑保護委員会のリストでは、三つのレ−ニン像がある。そのうちの二つの州都にあり、残りの一つは規模的に二番目のボロヴィチ市にある。それ以外の記念像は二十の地区の各々立っているが、この十年どのような破損もないが、特別の文化価値もない。

 

ノヴゴロド州のレ−ニン像は神が保護しているのではない。知事である。知事ミハイル・プルサクは一貫した民主主義者だが、仕事の空いた時は彼の告白だが、時々レ−ニンを読書しているらしい。その上彼はレ−ニンの胸像をコレクションしている。そして彼の信条とは、

それがどんなものであろうと自国の歴史は傷つけてはならぬというものだ。事実、1990年スタ−ラヤ・ル−サ市でならず者が世界プロレタリア−ト指導者の記念像にペンキビンを投げつけたことがあったが、これが唯一の破壊行為であり、これもおとなしいノヴゴロド市民には珍しいことである。ちなみにスタ−ラヤ・ル−サ市の記念碑は1985年になってやっと建立されたものである。前からあった石膏の胸像はレ−ニン記念コルホ−ズに移されたがそこに設置されることもなく胸像は消えてしまった。一時畜舎で見たと言われるが、その後完全に行方不明となった。これがおそらく。ブロンズ、大理石、石膏のレ−ニン親衛隊の唯一の紛失であろう。

 

最も遅くなってからレ−ニン像が建立された場所はチェクチであった。記念碑運搬距離と高い運賃とせいと言われている。最初の記念碑は50年代、行政管区の中心都市アナドウイルに建てられた。ふつうのニメ−トル大のブロンズ像が片方の手を突き出し、もう一方の手で鳥打帽をつかんで立っている。彼は民衆に向かって演説している。この記念像は北国人により最もひどい目にあっている。ある時、ブロンズ像の手に太い棒が縛り付けられた。したがってレ−ニンが冬に広場で釣りをしている格好となった。またある雪の降る朝、黒いパンツを穿いたブロンズ像を市民が目撃している。警察が呼ばれた。警官は棒でパンツを破り取ろうとしたが、丈夫な材質らしく、針金を取り付けた。ブロンズ像から不要な衣服を剥ぎ取るため、長い金属のフックを探すことになった。フックをパンツを切り離したが、ブロンズ像の足に傷をつけてしまい、それで警官は戒告処分をうけてしまった。またブロンズ像の頭に帽子や籠がかぶされたこともあった。だいたいこれらは気晴らしの類である。おそらくそうしたわけで、アナドウイル市では重厚な記念像の建立をきめた。金は惜しまなかった。1974年、記念像は除幕された。高さ6m以上のピンク色の花崗岩である。ここではレ−ニンの手は突き出ていないで、片手をポケットにもう一方の手には鳥打帽があった。

 

記念像は十メ−トルの杭の上に設置された。その場所にはコンクリ−トが打たれた。このコンクリ−トが凍土がとけて、亀裂が入り壊れ始めた。毎年新たにコンクリ−トをうち、大理石で被っていたが、変化の激しい凍土は全面的の破壊してしまった。1993年、記念像の撤去がきまった。アナドウイル市はそこに市の創立者の記念碑をたてる決定をした。しかしそこで文化庁の口をはさんできた。この記念像は北東部で最大のものと思われるので、国が保護するというものだ。レ−ニン像は安泰となった。

 

ところでノヴォシビルスクではこうした破壊行為や愚弄行為はない。州のある地区の中心都市でこのようなことがあった。1995年、トグチン市(ノヴォシビルスク市から乗物で数時間)で見知らぬものがレ−ニン像を破壊した。ここはいつも市民が集会をする場所であった。二ヵ月後、記念像は市と共産党員の資金で同市の彫刻家ドユ−ニンにより復元された。翌年またもや記念像が破壊された。調べてみると、記念像にワイヤ−をかけ、自動車で台座から取り外したらしい。けれども、記念像は二度目であるが復元された。

 

ノヴォシビルスク市とはロシアの民主改革ではまったく保守的な部類にはいるかもしれない。昨年422日、州都で新しいレ−ニン像が建立された。大々的な除幕式が行われ、ロシア共産党ノヴォシビルスク州委員会第一書記ヴィクトル・クズネツオフと工作機械工場の工場長セルゲイ・ジグレフが除幕をした。巨大な記念像が工場の守衛所のそばに建立された。記念像の作者を問われると、セルゲイ・ジグレフは「作者は民衆」と短くこたえた。

 

最後の意見は共産党員の良心にまかせるとする。ところでレ−ニン像にたいする多くのロシア人の現在の態度をまとめるため、ヴォルゴグラドの心理学者の意見を引用するとする。

「レ−ニン像の取り壊しを多くの国民が望まないことは、いわゆる心のよりどころに起因することで、幼年時や青年時、不安のない幸福な時代の明るい思い出によるものだろう。と言うのも、この記念像のそばで多くの者がピオネ−ルやコムソモ−ルに入り、結婚式後若い夫婦が訪れた場所でもあった。それ故、共産主義の遺産との闘争が最も盛んな時でも、多くのロシア人は圧政の偶像を排除せよと訴える民主派の一部の叫びには冷淡であった。(完)

           

 

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