ロシア最新ニュ−ス

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2002) 二月分履歴     ロシアヘッドラインニュ−スを中心にしましたのでこの欄はしばらく中断、但し編集部たよりは、不定期ですが継続します

2024年4月19日(金)

編集部より:ロシア語上達法(53)(翻訳と精神の自由)

202411日(月))

 

  電車の窓外は、黒い闇が沈黙している。厚手のダウン、毛糸の帽子、重厚な手袋を着けて、寒さを凌いだ。渓流釣りは、9月末日に禁漁、そして31日に解禁される。ところが、雪が降ろうが、嵐が吹こうが、釣りマニアはいる。冬季ニジマス釣り場に向かう。最近は、クマが多いときくから、なるべく単独行は避けたいが、あいにく格好な相棒はいない。効果には首を傾げるが、笛を首に提げ、いざという時、鳴らそうと準備する。

  秩父鉄道に乗ると、けっこう登山客がいる。それでも夏場と比べると少ない。列車の軋む音さえも、幻聴に思われる。一車両に2~3人しかいない。「夜と霧」を読んで、若干同情しかけたが、「ガザの残虐」を知ると、「大義」とか「正義」は信じられないと思った。ウクライナで戦争しているが、意味のないことをしているように思えてならない。

 

  「戦争と平和」なんて、リアリテイもなく、人生のテ−マになるとは思わなかったが、地理的な意味より、精神的な意味で、近くで起こると、強制的にテ−マとなる。外形的な分析より、人間の本質的な部分を解明し、確認しないといけない。何度繰り返しても、幾度も反省しても、同じことをやる。だからといって、諦めることもできない。

 

  人間関係も、追い出した人と、捨てられてた人がいる。捨てられた人は、自尊心、プライドが傷ついたせいか、やたらと未練がましく、つきまとう。捨てた人は、二度と会わないだろう。その逆でも同じことである。誰でもそうだが、捨てる場合は、相手の自尊心をなるべき、傷つけないように心がけたほうがいい。日常雑記。

 

  自分に自信のない人は、仮面をかぶり、時に過度に強面となる。コンプレックスにもいろいろある。上から目線だったり、上下関係を好んだり、偽の優越感を探しもとめる。自然と、相手にたいし、優位に立とうとする。自己陶酔型、自己耽美型人間には、ほとほと手を焼く。人間、そこそこ同じに出てきいる。「平等」の価値観を知らない。

 

この15年間ちかく、国際特許の翻訳をしていた。ほとんど、一般の技術翻訳や文芸関係の翻訳はやらなかった。ここに個人的リソ−スの全てを投入した。特許翻訳は旧ソ連時代から、主に特許要約書の和訳をした経験はかなりあったが、出願書の翻訳をするのは初めてだった。これには、メ−カから担当エンジニアがついた。月に23回、2~3時間、技術講習を受けた。担当技師が講師となって、技術の基礎から、特許関係の技術まで、1から、手取り足取り、教えてもらうことになった。これには10年間くらいかかった。それまで、見よう、見まねで、技術翻訳をやってきた。おかげで、かなり技術に自信をもてるようになった。

一般に技術翻訳者は、年間1500枚〜2000枚前後の翻訳を行う。最近、相場は知らないが、月に200枚ぐらい翻訳する。問題は、この翻訳量を毎月、毎年は確保することである。エ−ジェントに営業をまかせれば、翻訳料金は少なくなるが、自分で営業すれば、その分、時間がそがれるから、どちらでも、売上はさほど変わらない。

当然、ロシア語へ訳す時、必ず、ネイティブチェックが入る。個人単独の翻訳は基本的にない。最後にロシア人が目通すやり方である。文法的に間違うことはほとんどないが、問題は文の流れである。単語と単語の相性みたいのものがある。もちろん、意味は通じるのだが、流暢でなく、どことなくよどみがある。これは、ある意味で長く母国で暮らした日本人には無理かもしれない。この単語の次ぎにはこの単語みたいな不文律みたいなものがある。

 

かなり前のことだが、ドナルド・キ−ン博士(1922618 - 2019224日:アメリカ合衆国出身の日本文学・日本学者、文芸評論家。コロンビア大学名誉教授)のコラムを読んだことがある。日本語はとても丁寧で綺麗であったが、どことなくぎこちなかった。母国で成人まで過ごすと、音声言語と文字言語の流れによどみがなくなる。

 

  国際特許出願とは、最低5人の人間が関与する。先ず、特許出願文を作成する人間、これを翻訳する人間、日本の弁理士、ロシアの弁理士、ロシア特許庁の審査官である。外国へ出願する場合、直接、外国の特許庁へ提出できない。現地代理人か、弁理士事務所を経由しないといけない。これは、法律で定まっている。現地語への翻訳は、現地弁理士事務所が手配した翻訳者が行うケ−スが多い。

 

  ロシア特許庁は、特許のデ−タベ−スを公表している。無料と有料がある。無料の場合、閲覧に制限がある。日本からも、ネットを介して、有料会員なれる。ただし、ロシア特許庁の担当者に連絡をとり、申し込む。閲覧料金は、指定されたロシア国営銀行へ振り込みとなる。手続きが完了すると、IDPWDが提供される。ただし、今は、複雑な地政学的状況から、手続きは、不可能と思われるほど、難しいかもしれません。

  しかし、ロシアへ特許出願する場合、すでにどのような特許が出願されているか、知らないといけないから、当然、ロシア特許庁のデ−タベ−スに目を通す必要がある。

 

 何故、国際特許の出願に関係したか、これにはそれなりの理由があった。一般には出願先の外国特許事務所の手配した翻訳者の翻訳で出願してしまう。ある時、日本特許庁に出願された外国特許文を見る機会があったと、メ−カの特許専門家が言った。これは英文を日本文に翻訳したものだ。読んでいくうちに、どうも日本文がおかしい、技術的表現がどこか不自然と思ったという。外国からの出願の場合、日本の翻訳者は海の向こうにいる特許原文作成者に質問することは、ほとんどできない。日本語的表現でないという意味ではない。例えば、私信でも、手記でも、書き手と読み手の理解が異なることは、しばしば起こる。時には実際に会って、訊ねたほうが良い場合もある。どうしても、人間には思い込みがあるからだ。

 

  技術文でも、定義の決まっている専門用語ばかりではない。慣用的に使っている単語も数多くある。それも各人、解釈はまちまちだから、さらに厄介になる。一つの単語をめぐって、二人の人間の解釈に若干ずれがある場合もある。当然、会って、摺り合わせるのがベタ−である。

 

  特許になると、もっと緊迫してくる。なにせ、権利の獲得だ。微妙なニュアンスの表現が、場合によっては、裁判で負けることになる。この重要性は、なかなか訴訟に発展しないからで、潜在的な危険因子のまま、表面化しない。

 

  例として米国から日本へ出願された特許について、考えてみる。そこに日本語に翻訳できない単語があったとする。翻訳者は、苦心惨憺しても、適当な日本語がみつからないとする。当たらずしも遠からずで、それに近い日本語を入れたとする。これでも、当面は凌げるだろう。ただし、裁判が起こらない限りである。

 

  それに該当する単語がない場合、注釈は許される。この単語は、こういう意味と記述してもよい。しかし、これは、特許原文作成者に直接聞く以外に方法はない。もちろん、造語は禁止である。一般に流通している言葉を使うの原則である。  

 

  一般の技術文書でも、分からないところや、理解の難しいところは、直接質問する。しかし、なかなか、これは実現しない。実際、翻訳者が直接、メ−カから翻訳を依頼されるケ−スは希である。これは、「営業と製造」の問題と同じで、直接営業すると単価は高いが、時間がとられ、その分、翻訳量が減少する。しかし、これが一つの生産ラインの構造となって、メ−カの技師に直接質問できなくする。先ず、翻訳会社は、依頼先を教えるのはいやがる。第二に、いちいち、質問すると、翻訳の生産性が低下する。少々の疑問は残しても、ある程度、能力のある翻訳者であれば、8割程度は理解できるから、訳してしまえば、「大海の一滴」みたいなものだ。第三に、特許と異なり、「本質」を問題としない。きちんと、専門用語を使いこなせれば、大体は、うまくいく。

 

 特許の場合、特許文作成者(発明者)から直接、真意を聞かないと、本質を表現できない。例えば、米国の発明者が日本で特許出願しようとすれば、米国の特許事務所に依頼する。米国の特許事務所は、日本の特許事務所に依頼する。そして、国内の翻訳者に依頼する。その出来た翻訳で特許庁に出願する。どの国でも同じだが、日本の特許庁に出願できる特許文書は、日本語のみである。外国からの出願は、必ず翻訳文となる。

  特許庁は、特許文の作成規則さえ、遵守されていれば、基本的に審査は通過させる。ここでは、特許の本質がきちんと表現されているか、いないか、問題にしない。

  ここでいう「本質」とは、「独創性」と、進歩性、新規性のことである。オリジナリティ、つまり独創性とは、もちろん、他に存在しないことである。

 

  特許とは権利の主張であり、確保である。一方、一般の技術文書は、技術の説明であり、権利を主張しているわけでない。

  特許は、発明、実用新案、意匠、商標がある。それぞれ、権利の対象、範囲が異なる。現実に関わった発明(特許権)について、若干話してみたい。

  特許文は、発明の場合だと、明細書、請求の範囲、要約書の三点で構成される。明細書とは、発明技術の説明文である。この書き方は、さほど厳しい規則はない。問題は、「請求の範囲」である。これには、文書作成の規則が定まっている。その前に、発明には主に「装置」と「方法」とわかれる。

ちなみに、特許の場合、装置は「устройство」、方法は「способ」と、用語はきまっている。これを、「оборудованиеаппаратура」とか「мотод」としてはいけない。又、図は「Рис」ではなく、「Фиг.」となる。規則である。

 

装置の場合、静的に表現する。装置を写真で撮って、静止した状態にように表現する。動かしてはいけない。つまり、動詞を運動させない。例えば、「Устройство перемещается」(装置は移動している)とはできない。「Устройство имеет возможность перемещения」(装置は移動する能力がある)とする。つまり、装置の発明では、能力を表現することになる。

 

  一方、「方法」の場合だと、動的に表現され、不定人称文で書く。三人称複数形である。例えば「перемещают устройство」(装置を移動させる)とか、「осуществляют перемещение устройства」みたいになる。三人称複数命令形のようになる。

  これは、ネットなどの参考文を見ながら、練習していくと、慣れてくる。文書作成規則から外れると、審査は不合格になるか、ロシア特許庁の審査官が親切ならば、職権で修正してくれる場合もあるし、補正するよう求められる。いずれにしても、連絡が入る。リアクションがあるのは、国際出願してから3~4ヶ月、修正、補正などして、早い場合でも、半年間はゆうにかかる。

  「請求の範囲」の書き方で重要な点は、一文で書く規則である。ピリオドで区切ってはいけない。一つの連なった文として表現する。けっこう面倒である。慣れてくれば、コツが分かり、工夫するようになる。

 

  「請求の範囲」で最も重要な部分は、請求項の1項である。ここで、いかに権利の範囲を大きく主張できるか、書き手の腕にかかっている。土地でいえば、10m四方を主張するか、100m四方を主張するか、大違いである。もちろん、誰もが、100m四方のほうを欲しがるだろう。これは、表現の仕方である。どうすればよいか。

 

  具体的表現はできる限り避けることである。抽象的な表現が推奨されるが、それでも限界がある。最小限の具体化は求められる。何が発明の対象であるか、分かるようにしないといけない。このへんの匙加減は、ベテラン、名人の域である。 

  これは、翻訳者の発言であるから、細かいところでは、不正確かもしれない。正確には特許庁や弁理士事務所のサイトをみて、確認していただきたい。

 

  かれこれ、10年間で10数本の特許出願書を翻訳して、申請したことになる。感慨深いものがある。毎年、1~2本、特許文を翻訳して、これだけに全力投球して、老いたのである。これでよかったのか、よく分からない。戻すことのできない時間だけが、冷酷に過去を捨て去っていく。

 

  井上靖の「射程」を読んでみた。アナキ−な心理とは、時に人生を「ギャンブル」にするかもしれない。いくら全力で生きても、空虚感の埋まらない人もいる。深い心の傷を負った人は、どうすればいいのだろうか。できれば、軽い負傷にしたいものだ。そして、能力の「射程」も常に注意しないといけない。動物も人間も、能力以上のことはできない。それをオ−バ−した者は、「破滅」の運命となる。

 

  「虚無感」みたいなものが、心の中で沈殿していると、それに過度のコンプレックスが加味されると、予期せぬ現象が起きる場合もある。敗戦直後のニヒリズムは、すごいものがある。一つの価値観がガラガラ崩壊した後の真空状態、時間は止まり、人生はどんよりした曇天下である。「射程」とはそんな作品である。

 

  2024年は、とても平穏にはすまないだろう。政治も経済も大きく変動し、紛争は拡大し、もしかしたら取り返しのつかない戦争が勃発するかもしれない。それにしても、ロシアは強いというか、自給自足国家は強いと言い換えたほうがよいかもしれない。長期戦になればなるほど、本領を発揮するだろう。

  鎖国してもやっていける国に経済制裁することはまった意味がない。国境を閉じて内需だけでやっていける。資源は山ほどある。それでも経済制裁するのは、もっと別の目的があるのだろう。ロシアの弱体化や、民主主義への侵略というのは大義名分で、たぶん、問題提起は自国問題だろう。

  

  この日、40cmぐらいのニジマス一匹を釣り上げた。面目躍如である。冬枯れの河原をぶらぶら歩きながら、「日本人の法意識」(川島武宜)について考えてみた。これほど、法律より、日常慣習のほうが優位である国民は珍しいかもしれない。だから法律を守らないのだ。はたして、2024年はどんな年になるだろうか!

 

               (露語翻訳家:飯塚俊明)  これまでの発言

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 注(「翻訳と精神の自由」は、自由、自由人を定義した場合の一つの虚構バリエ−ション。二部構成、第一部を掲載します)

 

 翻訳と精神の自由、プレリュードT

   『エセ−ニンの詩に「хулиган」がある。「1. человек, грубо нарушающий общественный порядок. 2. разг. перен. ребёнок, не нарушающий общественный порядок, но доставляющий своим родителям неудобства своим поведением.」という意味らしい。1、は、「社会秩序を乱暴に乱す人」で、2、は「社会秩序は乱さないが、自分の行動で両親に不都合を与える子供」の意味。「よた者、非行少年」と訳したいところだが、「風来坊」のほうが詩の意味合いからすると適切かもしれない。カ−ル・ブッセの詩「山のあなた」は上田敏訳で、誰しもが知っている。人は夢に浮かされ、当てもなく漠然と旅に出る。たぶん、何か強い衝動にかられ遠くを目指すのだろう。ほとんどがそのまま「山のあなた」に姿を消していく。まず帰ってくることはない。愛と幸福は敵対するかもしれない。

 

   「天は人の上に人は造らず人の下に人を造らずと言えたり」

  これは福沢諭吉の「学問のすすめ」の冒頭第一行目である。備前国中津藩(大分県中津市)の下級藩士で、江戸期の堅牢な身分制度の中、明治維新の前後に西洋を見聞して、古い社会から新しい社会へ移行しても変わらぬ矛盾から、痛烈に当時の社会文化を批判した言葉として余りにも有名である。

   価値観、人間観、人生観など、生きるということは、さほど確固としたものでないとしても、多少なりともそうしたメルクマールに依拠している。思想や信条はもっと外面的で、社会に対して結果的なものだろう。人間としてもっと根源的なものが、社会行動の規範を決定するのかもしれない。偽善者というのも、生来の価値観と後天的な思想信条が齟齬する場合に出現するのだろう。よく「綺麗ごとを言う人間は信用するな」とは、こうしたところから出てくるのかもしれない。

 

 「幸福な人間には幸福は意味をなさない」

 「他人と同じように考えずにいられない人間は、おそらく、そうした合意を嫌う人間に比べ精神度が低い」(ヴァレリ−)

 

   翻訳という行為に内包する知性はどのように行動するのか、外部命令によって、強制によって動かされるものか、人間が生命体である以上、それを保証する最低限の条件が必要となる。生存に必要なカロリ−、食事、空気、一定の体温に保つ環境が必然性をもって人間に迫ってくる。こうした絶対的条件はこの世に誕生した瞬間から生の行為を選択権なしに人間を拘束する。そしてそれは人間の欲望の大元でもある。

 

   人の心奥のことは誰も分からない。誰も裁けない。これが思想信条の自由のことだ。精神が何を考えても外部から認識できないので、何人といえども裁けないし、束縛できない。しかし、言論、表現となると、本質は異なってくる。言論、表現は外部にそれが出版の形にせよ、公での発言の形にせよ、あるいは演劇、映画などにせよ、表現することによって、周囲にその人の思想なり信条なりが明らかになる。具体的な問題になるのは、その時である。心奧のことを永遠に外部に出さず、心の引出しにしまっておけば、その段階では思想信条の自由はいつまでも維持されることになる。「人の口には戸が立てられない」という。どれほど強制しても、必ず漏れてしまう。歴史をちょっと紐解けば明らかなことだ。何故なら人間から言語を奪うことはできないからだ。人類の発展は言語の発展と共に歩んできた。言語とは人間固有なもので、動物にはないものだ。言語を発明することで、今日の文明が存在する。”人の口を塞ぐ”ことは神業なのだ。

 

   さらに人権という言葉がある。人間の権利を指すのだろう。そして人間の尊厳という言葉もある。いくら自己の考えが正しいと信じていても、他人の人格を否定してはいけない。これは名誉毀損であり、人権侵害、尊厳を傷つけることになる。そのことの意義を認識していないせいだろう。人は平等というと理想的、観念的と思われるかもしれないが、実は人の平等という思想は科学の発展とともに芽生えてくるのである。この問題は医学的、解剖学的には解決済みのことだが、古い社会文化、因習、慣習などが根強く社会に残存し、なかなかそうにはならない。これを偏見、差別というのかもしれない。全てが科学で合理的に割り切れれば、問題は容易く処理できるのだが、人間の思考は必ずしも科学的でない。完璧に合理的であると、人は窒息するかもしれない。非合理的空間も必要なのだ。合理的に対峙するのが感情的で、しだいに動物に近くなる。人が人として今日の文明を享受できるのは科学が発達したせいだろうが、そのことによって人は科学的合理性によって徐々に支配されるようになる。科学が、つまり合理主義が人を支配するようになる。そして人から思考力や知性を奪いとり、萎縮させていく。社会単位の科学的合理性は個人の知性を限りなく劣化させる。この世の主人公は合理主義の体現であるマシンで、人はその支配下に入り奴隷化する。マニュアル、スイッチ、ボタンに従わないと、現代生活をおくれない。人間が発明したもので人間が支配される。すでに主従関係は変化し、完全なる人工頭脳ロボットが誕生していない今でさえ、無機質な物体が生物を支配している。

 

   経済的にも社会的にも無益な人間がいる。定職をもたず、のんびりと気儘に生きている。働いているのか、働いていないのか、どこで生活の糧を得ているのか、誰も分からない。勿論、金持ちそうでもない、しかし極貧でもない。身なりは清潔だが、とても高価なものには見えない。ほとんど人を近づけない、隠遁生活者みたいだ。家の中は広い。どの壁の前にも天井までとどく本棚があり、びっしりと本が詰まっている。書斎があり、一軒ぐらいの幅の広い机もある。机の上には文書が何列も山積みしてある。表紙には各々題名があり、哲学書みたいなタイトルばかりだ。しかし、一度も公表したことはない。世に問うことは望まなかった。ただ真理を求め、解釈し、文学であれ、絵画であれ、音楽であれ評論するのが好きだった。それ以上のことは欲せず、満足できた。人間嫌いではなかったが、相手が嫌った。この世に友人は一人もなく、親類とは一切の関係を絶ち、それでも孤独感など覚えず、幸福感さえあった。なにしろ読書量は半端ではなく、一日一冊ぐらいのテンポで読み飛ばしていた。ただかなり凝り性で必ずテ−マをきめて読書をした。考えが纏まると、書き留めて文書してそれを山積みの文書の上に重ねて、完了させると、やり遂げたような気がした。この人間には特に人生のテ−マなどなかった。それでも時々、人生とは何か、如何に生きるべきか、深々と思考するが、疲労感だけをおぼえ、心地よい眠りについた。所属が大嫌いで、蕁麻疹さえ出て、三日三晩熱に浮かされたこともあった。会社、組織、団体、機構、管理する形態には背を向けた。

 

  凡庸な人にとって重要なことは、肩書き、生活の安定、老後の年金、見栄え、その為に満員電車、無遅刻無欠勤、上司の管理など我慢し、自由というテ−マは退職でもしない限り、全くといっていいほど提起されない。最も好むのが偉人ではなく、肩書きの偉い人で、波瀾万丈の人生など論外となる。特に芸術や文化を愛するが、芸術で人生が破綻しても平気なほどのめり込むことはなく、虚栄心の範疇で楽しみ、生活のために自由を売却さえする。そもそも自由とは何か、おそらく人生で一度たりとも真剣に考えたことはない。相手より自分が偉いとだけ確認できれば、至極ご満悦で偉いとは肩書きと金銭の多寡だけで判断し、社会性などなく、若いのに予測不能の遠い老後の設計をし、自らをしっかりした性格と思い込む幻想癖がある。このカテゴリ−の人々では勝者は虚言癖があり、敗者は夢想癖がある。

 

  おそらく自由業とはこのような人のことだろう。自営業とは違う。自由業はいわゆる職種ではない。この世に実存しているが、業種としては存在しない。つまり職業ではない。生き方のタイプで区分しているだけで、誰がそれに該当し、誰かが認定するわけではない。確かに存在しているが、かなり具体性に欠き、誰も確認できない、得体の知れない存在、けして危害を加えることはない、他へ無害な存在で、強いて言えばロシア語で言う「インテリゲンチヤ」に該当するかもしれない。この言葉はロシア語が語源だ。そしてその範疇に入るのが自由人だ。政治的には一切の党派性はなく、経済的にはどこにも所属せず、自立していて、これといった作品を残す場合もあれば、まったく残さない場合もあり、さらにその準備段階である場合もある。あらゆる管理から独立していて、その全ての発言、表現は限りなく客観性があり、正当なものだ。本質的には必然的に集団と対立する存在で、しだいに追い詰められ、崖っぷちまで高度に発展した文明社会に飼育された画一大衆に追い込まれ、最早足を踏み外し、落下は時間の問題かもしれない。

 

  衣食住にまったく貢献せず、経済とは無関係で、社会的に無用な存在、自由人の典型的な存在、「趣味人」とも言えるし、何かを準備している、あるいは永遠に準備段階の存在、そのように国や政治、社会にとってまったく役立たない存在、それでいて文学、芸術、哲学に詳しい存在、一体何者だろうか。

  翻訳者も広義の意味で芸術家の末席にはいるのだろう。それ故に著作権も認められている。表面的には翻訳の結果でしかるべき団体、組織から糧を得ている。しかしもっとクロ−ズアップし、間近に迫ってみると、そうした団体、組織とは細い糸で繋がっているようで繋がっていない。まさに漠然とした星雲で、どこまで行っても靄っとした状態が続くばかりで、とらえどころがなく、存在はしているが、確固とした存在でない。何かの準備段階がいつまでも継続して、結果の出せないでいる存在も、翻訳者かもしれない。何を準備しているのか、回答する場合もあれば、回答しない場合もあり、また準備はしているが、それが何か認識できない場合もある。それでも準備している存在かもしれない。自由人とは今は死語となりつつあり、あるいは「知的遊び人」とまで卑下される場合も珍しいことではない。すでに「レッドブック」に掲載されている。現代社会では組織に所属していない、あるいは管理外にある人間は「白い目」で見られ、異端者にされる。管理とは先ず国や地方の行政機関の書類で定義できる人間のことである。住所不定、職業不詳、無名な芸術家、哲学者などもそうだ。ますますデ−タ化され個人の属性、固有性は項目化、数値化され、結局、代替可能な人間という架空な存在を創り出す。蟻塚の働きアリだけが必要とされ、それ以外の存在は死するか、やむなく屈辱的に頭を垂れ、働きアリになるしかない。働きアリの行動は細分化、単純化され、総合的、複合的な行動は許されない。代替可能な一匹の女王アリが管理者で、それ以外は思考してはいけない。枯れ葉だけを運ぶアリ、糞だけを運ぶアリ、水だけを運ぶアリと、単一労働を求められる。どのアリも一見識別不能で、全て同じように見えるような人間社会が形成されつつある。

 

  その中で自由人だけが、一切から無関係の関係でのうのうと悠然と生きている。これは社会の敵でもあり救世主でもある。管理と自由は対立関係にある。管理は限りなく自由を剥奪し、自由は抵抗しつつも、行動範囲は狭められている。ワンル−ムだけの自由となる可能性すらある。一歩部屋から出ると、歩く方向には標識があり、エレベ−タはボタンを押さないと動かない。全て機械の指示に従順でないと、身動きできない。最早、管理の主人公はマシンだ。人間は機械の命令通りに行動するしかない。機械が人間を選択する。機械の命令を許容できる人間だけが、現代進歩の果実を享受できる。この命令に背くと、反社会的、反進歩的となり、日常の生活空間から排除される。膨大なデ−タを記憶する装置が発明され、人間の頭脳では記憶する機能はほとんど必要なく、メモリが代行してくれる。その分、頭脳機能が縮小したことになる。PCが象形文字を記憶していて、キ−ボ−ドの決められた位置をタッチすれば、すでに自分では書くことのできない象形文字がLEDパネルに表示される。日常生活は動画化され、文章で表現するよりはるかに正確に伝達も出来るし、保存もできる。文字などいらなくなるかもしれない。プロセスは最早要らない。これは機械が代行する。今のところ、起承転結の起と結だけは人間が担当しているが、これも近い未来、装置が担当するかもしれない。終いには異常に肥大化し、身動きさえ自らできないグロテスクな女王アリに人間は変貌する可能性すらある。手足は萎縮し、その本来の機能はすでに失われ、自らの力で移動すらできない。

 

   確かに自由人とは響きが良い。天空果てしなく透き通るような声で奏でれば無限の可能性を夢想させる存在かもしれない。今や発見さえ覚束ない。めっきり数が減って、よほど運に恵まれない限り、遭遇することは稀である。

  ひたすら自由を求め、自由になればなるほど、生活の糧から遠ざかり、自己存在を完全否定する一歩手前で、なにがしの恩恵でかろうじて存在を許されている文明の羅針盤かもしれない。文明は発展すれば発展するほど、より完全な管理社会を構築していく本質をもっている。管理できない存在を許容せず、破壊し抹消していき、最後には文明自らを破壊していくのかもしれない。自由は発達した文明と対立する宿命をもっている。今の世の中、何ものにも属さない存在の居場所はますます狭くなっている。あらゆる攻撃があらゆる組織からあり、所属を迫る。どこかに所属すると、信用があると幻想を抱く組織団体は安心して、曖昧模糊の存在を消滅させ、自由という存在を社会から一掃していく。盤石で堅牢な組織も、一夜に破綻し消え去るのも現代社会の特徴でもある。混沌とした社会なのに不純物を排除しようとする。不純物とは一方から見れば不純物かもしれないが、他方から見れば歴然として純粋物である。現代社会は個人の特性を一世紀ぐらい前に発明された計算機、コンピュ−タという機械の能力に強制的に合致させ、個人特性の微妙で繊細な部分は無視し平準化させる。

 

  但し、タヒチの原住民や、赤道近くの島民はその昔、時間も時計もない、生きることがかなり動物に近い、自然の中で管理する者も管理される者もいないのんびりした生活をしていたが、自由人とは言えない。いわゆる”知識がない”からだ。今や、文化人も知識人もなにがしの組織団体に所属し、一定のフォ−マットの中で生活している。テレビなどで膨大かつ複雑な要因が様々に絡み合う未来について平然と予見しているが、ことごとく的中しない。それは現代社会が未知の要素が過剰に存在する社会だからだ。結果から”想定外”などと言うが、想定できることのほうが少なく、ほとんどが”想定外”となる。現在があまりにも不安定で先行きが不確かで不安なので、必然的に未来予想を要求する。”想定外”のリアリテイの不安から未来へ期待をかける。未来への期待は現実を直視する恐怖から強制的に解放されたいという架空の夢ともいえる。予想とは人類の欲望から出てくるもので、人類は未来を予想しながら、その実現のために科学を駆使したり、発明したりして、環境を変えてきた。

 

  ますます集団化していき、集団に属することで、人々は結束が強まり、不安は沈静化すると思い込み、ますます不安にかられる。我々の外部の存在が集団化されても、我々個人の内部は多様な価値観で溢れ、自己内部に宗教であれ、思想であれ、また小さなコミュニティであれ、家族内であれ、社会であれ、国家であれ、多種多様なまさに正反対な価値観が共存し瞬間々葛藤して、喘ぎ声が聞こえるほど精神を傷つけている。そうした要素が互いに威嚇攻撃して熱を帯びて爆発寸前かもしれない。いくら個人を集団化しても、それは物理的側面で、精神の深奥の矛盾は激しくなるばかりだ。異なる価値観同士が物質の原子のように光速よりはるかに早い速度で衝突し火花を拡散させる。現代社会では不眠症など通常の現象で、近代科学の一分野、化学物質、睡眠薬の人工的な助けをかりないと眠りにつけない。

 

  一つの家庭内でも無神論者、仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、ヒンズ−教徒など一つ屋根の下で寝食共にしていることも、そう珍しいことでもない。共に天を戴かない人々が外見上は友好に生活している。歴史文化の異なる土壌で生まれ育った人たちが同じ空間で暮らしている。こうした混沌として混淆はガラス細工の集団で、ちょっとした震動でもヒビが入り、あっと言う間に粉々に粉砕される運命かもしれない。これが急速に拡大しつつあるのがグロ−バリゼ−ションだ。必然的に一つの価値観が他の価値観を征服し凌駕しようとする。共通項を模索すればするほど、妥協を余儀なくされ、それまで安定していた価値観は不安定となり、互いに不安定な価値観という常に動揺する難破船の乗客のようになる。

 

  集団化に近い概念に方法論がある。その昔、ドイツ人が発明したらしい。最も身近な例はレシピだろう。レシピとは料理の作り方のことだ。これには印刷技術と紙という記憶装置が必要となる。それ以前は天才一人知るだけで、黙したまま死して一代限りとなるか、あるいは口承ということになる。そのため、人間の記憶をたよりに伝承され、規格化、画一化は不可能で、場所や地方によって、同じ内容だったものが、少しずつ変形して理解された。だが印刷技術と紙が発明されると、同一表現ができるようになった。規格化の始まりである。しかし最大の発明は、規格化、画一化という観念を生み出したことである。方法論が先ず適用されるのは組織で、組織内の一単位をパ−ツ、歯車にすることができる。これは組織のトップから末端まで代替可能な部品に変えてしまう。トップがたとえ死のうが、組織は次のトップと入れ替え、ぐらつくことはない。

 

  組織の各単位は可能な限り一つだけの仕事をする。できる限り単純化し、その一つの仕事だけに専心させる。きわめて複雑な人間の頭脳は、一つの単純労働だけに使われ、人類がえいえいと築いてきた知的遺産により形成された知能はしだいにあまりにも単純化した対象にしか利用しないので、徐々に劣化し退行して、進歩したものを振り出しに戻し、まるで猿あるいは原始人、そして動物に近い状態になるかもしれないと言えば、それが空想だと誰が断言できるだろうか。

 

  もちろん、自由とは絶対的なものではなく、相対的なものだ。拘束感、束縛感、自らの行動に対する規制から解放されると、人間は自由を感じるはずだ。逆に言うと、拘束感、束縛感、規制感など感受できない人には、自由そのものが存在しない。あらゆる拘束、束縛から常時解放されて客観的に自由な状態が持続している人間にとって、自由という概念は意味をもたない。だからこそ、自由人の存在は社会、国家、政治、因習、常識に対抗する存在として、きわめて価値がある。感受性が乏しく鈍感であれば、管理された状態に慣らされ、自由も不自由も感じない。しかしこれは物理的自由のことだが、同じことが精神の自由にも言える。物理的自由があっても、精神が自由であることにならない。

 

  精神は常に拘束されている。我々の言語表現は固定観念により、表現する前に決定され、こうしたシチュエ−ションでは、こうこう表現すると、きわめて狭い選択権で言語リストから抽出する。言語もすでに予め決定された表現方法で、この状況ではこう描写する、あの条件ではこう描写すると、無意識のうちに決められ、表現の選択権などない。既存の表現方法で表現できない対象こそが、あるいは対象そのものはありふれた陳腐なものだが、身体を引き裂くような激しい感情の高揚やあまりにも現実と自己の観念が食い違う場合など、言葉で表現できない瞬間がある。まさにそこが問題の本質であり、核心なのだ。既存の手段、方法、形式で表現できない、言葉にならない状況こそが、古いものを破壊し、新たなものを生み出す一歩だ。言語が誕生する以前は、当然言語という形式がなかったことは、想像に難くない。体系的形式なしに事態に対応する表現を駆使していたのだろう。

   

  結論を急いではいけない。何故なら結論などないからだ。そして、すぐ結論の出る問題はさほど重要ではないからだ。

  人間は「蜘蛛の糸」(нитка паучка)(小説)にぶら下っている地獄の民かもしれない。そこからどうにか這い出て幸福を得ようと必死にもがいているのかもしれない。鋼鉄の綱でない蜘蛛の糸、ちょっとした力で簡単に切断されてしまう超極細の糸、それに運命を託している。何故切断したのか、自分だけが幸福になろうとしたからだろうか。もし他人を蹴落とさなかったら、絶対切断されない頑丈な糸に変えたのだろうか。そしてそれはまた人類という生物の宿命ともいえる。不完全なのだ。人間は欲望がないと存在できない。一方、欲望は限りなく破滅への道へ導いていく。自然を支配しようとすれば、常に新たな科学技術の開発を余儀なくされ、いっそう自動化され、人間の手仕事の介入の余地のない装置が開発される。それは必然的に知能を退化萎縮させる。最高度に発達した科学と最劣化した頭脳という相反する状況が待っているかもしれない。最早、機械の介入はプロセスだけにとどまらない。問題提起も問題解決もマシンが行う。すでに守備範囲を超えてしまった。

 

  まさに神による天地創造で誕生した人類が天地創造しようとしている。今さら引き返せない。若い頃、芥川龍之介の「トロッコ」を読んだことがある。トロッコは今はほとんど見かけることもなくなったので、知らない人も多いと思うが、荷物を運搬するために四つの車輪をつけレ−ルの上を移動させる手押し車のことだ。幼い頃、家の近くの工事現場で仲間と一緒にこれに乗って遊んだ記憶がある。その程度しか遊ぶ環境がなかった。小説「トロッコ」では、少年がトロッコ遊びに夢中になり、それに乗りながら工事現場のおじさんたちと一緒に楽しく遠くまで行ってしまい、日も陰り気づいたら見知らぬ土地まで来てしまい、もう引き返せないとはっと正気に戻る物語である。

 

  宗教と科学は対立するものと考える人も多いだろうが、実は根源は同じかもしれない。人類最大の発明の一つは未来と過去という概念の発明といわれる。動物には過去も未来もない。リアルタイムでしか生きられない。今が全てなのだ。仮にあったとしても、ほんの瞬間の近未来、近過去でしかない。⒑年先、20年先という概念は存在しない。この概念が創出されることで、記憶、予想という世界が生まれた。同時に言語も誕生する。言語なくしては記憶も予想も不可能である。予想の最初の執行者はシャ−マンだ。つまり巫女ということだ。日本では卑弥呼などはよく知られている。想像する、空想する、夢見ることを覚えたのだ。その命令運営装置が言語だ。最初、天災、収穫、病気など生活と直接結びついた現象を予想する。何の客観的裏付けもなく、わずかな経験値で、星を見たりして占ったのだろう。当たるときもあれば、当たらない時もある。今日では人工衛星を使い、宇宙から地球の気象状態を観察できる。天気の予想である。かなり確実性が増してきた。問題は正確かどうかではなく、予想するという行為そのものだ。

 

  面白い話がある。ロシア語の完了体動詞である。現在形がない。この動詞では現在を表現できない。おそらく言語の初期の形成段階では、過去形も未来形もなかったと思われる。過去形、未来形を形成するには、空想、想像、予想という能力、過去未来の概念が要求される。動物にはこの能力がない。人類はたぶん、言語形成の当初、現在形だけで言葉を使っていたと思って間違いないだろう。そう考えると、いかに言語が人口的、人為的なもので、人間が空想という能力を身につけて飛躍的に発展させたといえる。空想、想像できなければ、体系的言語は存在しないし、今日の文明もありえない。現在だけで生きるのあれば、文字はいらない。文字とは過去未来を記録し記憶する手段だからだ。つまり、この世に瞬間しか存在しないのであれば、記録も記憶も何の意味もない。認識できる範囲が瞬間でしかないのであれば、今日の人類はない。自分が直接見えるもの、触れられもの、聞こえるものしか、この世でないとしたら、それこそ動物の世界だ。そこに想像という機能が介在すると、宇宙の果てまで、あるいは10万年先のことまで空想できる。そして空想の中で実存できる。例えば、ビデオで昨日の出来事を録画したとしよう。確かに昨日、それは実在した。事実だが、今は存在しない。今は今でしかないし、昨日はすでに消滅している。仮にビデオ録画に映っていようが、現実の現在では存在しない。全てが時の流れと共に消え去っていく。今の現実に存在しないが、過ぎ去った現在の一瞬という実在しない瞬間を記録する行為は、過去という概念を要求する。

 

  過去未来の概念の誕生は、信用という架空な概念につながっていく。現代は信用だけで成立しているとも言える。未然の行為をあたかも遂行されたものと仮定する。これが語学でいう仮定法だ。その代表が権力であり、政治であり、条約であり、契約であり、貨幣であり、手形であり、有価証券であり、文字通りクレジットであり、インタ−ネットであり、スマ−トフォンであり、タブレットなどである。実在の世界から飛び出し、虚の世界なのが現代なのである。それは信仰に近いものかもしれない。しかし浮ついた熱から覚めれば、「玉手箱」を開ければ、日常の現在の瞬間という目を覆いたくなる陳腐な狭小なリアルな世界しかないのかもしれない。仮定の中で生きている。確実に起こる、遂行されるという仮定にたって日常が形成されている。目に見える範囲、手で触れる範囲、耳で聞こえる範囲だけで生活すれば、仮定などいらない。何故ならそうした現象が現実と一致するからだ。しかし視覚、触覚、聴覚あるいは嗅覚の範囲を超越すると、虚の世界という概念が必要となる。人間は空想しながら生きている。信用もその一つだ。未だ実行されていない、実現されていない架空の状態が必ず実行される、実現されると思い込むのが信用だ。

 

  かなり以前から条約でも、協定でも、契約でも、個人間の約束事でも容易く反故にされる状況になっている。元々まだ起きていない未来について拘束しあうことだから、自然の成り行きかもしれないが、それは信用の上に誕生した現代の文明社会を根底から覆すことに他ならない。「必ずやる、必ず実現する」と断言してそうならない状況とは、未来を予想するという人類の大発明を否定し、原始的状態に戻すことを意味する。そのうち物々交換だけの世界になり、信用制度がこの世から消え去り、瞬間でしか生きられない動物に人間は回帰するかもしれない。未来を否定することは人間の想像力、空想力を否定することで、今日の人類史を台無しにするものだ。

 

  人間である限り過去と未来は絶対条件だ。この空想力、想像力が全てを生み出してきた。人間は空想、想像することで、その行動範囲を飛躍的に拡大してきた。夢見るとは、現実の否定であるが、同時に未来を信用するという行為でもある。視点をかえてみれば、人類は、あるいは人類になるか、ならない太古の時代、きわめて厳しい現実の状況の否定から出発したのかもしれない。明日を夢見る能力を身に着けたのだろう。つまり明日が存在するという想像力、明日という概念を作り出したのだ。明日が存在することで、明日に向かって今の現実を生き、変革する意義を見出したのだろう。明日という概念が存在しなければ夢見ることはないし、現実を肯定するしかない。それは自然にたいし無力で、自然の掟に従順で、自らを自然にあたかも迎合するように変貌させるほかない。明日の概念の誕生で人類は自然を自らに合わせて変えることを覚えた。変えるとは破壊することに他ならない。変化とは破壊を意味するからだ。人間は急速に天地創造の主になりつつある。この主人公は科学であり、合理主義であり、自然は人間の敵であり、人間は自然の敵である。人間と自然が融和することはないだろう。融和すれば、一気に原始状態に戻らざるえない。科学が自然を超克するか、それとも自然によって破局させられるか、どうなるか分からない。いずれにしても、明日という概念が存在するかぎり、自然に対し挑戦を続けていいくだろう。

 

  きっと明日という概念が消滅する日がやってくるだろう。それは空想の概念でしかないからだ。明日に向かってどこまでも進み、宇宙の果てまでいき、何を発見するだろうか。過去にひたすら遡っていき、何を見るだろうか。人間は天地創造の主になれるのだろうか。生物としての人間の欲望は、過去未来の概念を発明させ、それを無限に発展させる。この概念が宗教を生み、科学を生み、そして科学で立証できない部分がある限り、未知の世界がある限り宗教が補完する。この関係がいつまで続くか分からないが、少なくとも欲望という非科学的なものが人間の存在条件だとすれば、終わりを見ることはないだろうし、決着はない。

 

  「翻訳と精神の自由」という表題で話をすすめてきたが、随分逸脱してしまった。人生は逸脱ばかりだ。逸脱した一本の道かもしれない。上記の観点からすれば、「既成の概念」とは必ず「未来」という概念に破壊され、とって換わられる。語学では「未来形」は弱々しい。現在形が最も確かなものだ。現在という確実の時間を放棄して人は不確か未来へ旅立った。魅了された未来を夢見ることで、空想することで現代文明は形成されたが、かなり精神は損傷し、さらなる遠い未来への旅にあきあきしている。生物である限り欲望が未来へ突き動かす。過去未来の概念の発明が、欲望に拍車をかけ、精神は高熱の坩堝に投げ込まれ、もしかしたら溶解し始めているかもしれない。もちろん、精神そのものに形はないが、思考のファンクションを掌ることは事実だ。思考力の減衰は未来をバラ色か、暗黒にしか描けない。全てを単純化してしまう。最早、単純化された社会には未来を想念することは不可能だ。現代社会が停滞、行き詰まっているのは、これまでの方式で思考することでは、未来を描写できないからだ。未来とは現在を否定することだと指摘したが、今や否定する能力があまりにも弱々しい。現在を否定できないのだ。もしかしたら混濁、沈滞した状態が中世のように長期間に続く可能性すらある。あるいは単純化そのものにより惹起される単純行動が現代文明を破局させるかもしれない。

 

  危機とはある状態から他の状態へ変化する段階をさすらしいが、危機意識の欠落とはそうした変化が期待できない意味ともいえる。

 

  急に冷え込んできた。つまらぬ出来事、つまらぬ人間群、老いて唐突に慈悲深くなる滑稽、いつまでも同じ手法で我を通すと、「頑固者」でも、「信念の人」でもない、「認知の人」にされてしまう。医学的カテゴリ−一歩手前にいる老人群の無自覚、肉体未だ衰えず、思考力はなはだ劣化、「小児病」という重症患者、老人同士の宴会は避けたいものだ。感情をコントロ−ルできない。そこにエタノ−ルが入ると、感情が暴走し、制御不能となる。もしかしたら長寿”認知”症候群に国は破滅させられるかもしれない。

 

  翻訳をしていると、原文を書いた人は、どんな人だろう、どんな生活をしているのだろうか、裕福なのか、貧困の淵にいるのか、普通の人なのか、家族がいるのか、その国は平和なのか、戦争をしているのか、子供の瞳は透き通っているのか、男女はどんな服装をしているのか、民族舞踊はどんな風なのか、様々なことが空想される。ところが今では衛星通信を使い、原作者の素性が暴露される。画面に顔が映り、服装が分かり、一部とはいえ生活空間を垣間見ることができる。暮らす町の状況も映し出される。限りなく想像力を奪っていく。空想を許さないのだ。空想することで発明された人工衛星が空想力を劣化させる。リアルタイムから未来へで旅立った人間をリアルタイムに引き戻す。異文化が身近になり、同化していく。最早、想像はいらない。現実という、ありのままという、美学を否定する現状のみが存在する。そして人類と動物を区別する最大の特徴が雲散霧消していく。

 

  しかしまだ人間をやめるわけにはいかない。生物としての存在を停止するわけにはいかない。存在の根拠が欲望だからだ。欲望がある限り、さらなる未来を必ず目指す。さらなる空想を要求しなければならない。現代科学がもたらした劣化した思考力でもっと先の未来まで想像できるだろうか。欲望が収縮しつつある。単純化された思考は、直近の未来しか想像できない。しだいに注意力は遠い先のことではなく、目の前のことにしか向かなくなる。単純化思考は未来予測なしに大胆な行動に出るかもしれない。どうする?欲望の萎えた生物は絶滅するほかない。現代を取り巻く環境、最新の科学技術はあらゆる欲望を萎縮させていく。

 

  未来へ衝動させる欲望が絶無ということになれば、完了体動詞はいななくなる。不完了体動詞だけで未来を語ることになる。それは未来も現在の反復行為にしてしまう可能性がある。今を生きる欲望が未来という概念を誕生させたが、今を生きる欲望が希薄なれば、未来の概念も限りなく縮小していく。もしも現在形しかなければ、もしも現在しか存在しないとすれば、狭い地球の中での争いごとはパンデミックな状態となるだろう。精神の中で未来の概念が消滅すると、思考は狭小の枠内でしか活動できず、行き場のない思考活動は刃がぶつかり合う時のように常に火花を散らし、精神の中で大火災を発生させるかもしれない。周りが全て敵に見えるかもしれない。人類を乗せた大型船は暗礁の乗り上げかけていると言えるかもしれない。その意味で宇宙へ向かうことは正しい選択かもしれない。そこにはまだまだ現在を忘却させ、未知の未来が無限大に存在すると幻想できるからだ。

 

  もう一つ問題提起しておく。時代錯誤という問題だ。科学があまりにも凄まじい速度で進歩するので、人々の多くはそれについて行けない。科学の発展は必然的に生活の価値観を変化させる。人々は常にそれを後から追いかけていく状態だ。最初は身近な科学も、その背中はかなり遠くなり、とても追いかけられないぐらい引き離されてしまった。古い生活様式ではすでに役に立たないが、そこから離れようとはしない。あらゆる制度が科学進歩と一致していない。しかしそれは外部的なもので、もっと重要な点は思考が科学進歩と対立している点だ。視点をかえると、思考が未来と衝突していることだ。未来を奪うということは今後の人類に発展がないというだけでなく、想像力、空想力、そして思考力を無にすることを意味する。限りなく無に近い思考とは、現実の中でしか生きられない。欲望がリアル空間の中でしか身動きができない。そこではすでに未来は存在しなく、すべての思考は現実の欲望のためにしか活躍できない。静止状態の時間の中で生きている。もし科学が未来の概念によってのみ存在できるとすれば、もし明日も今日の現実であるとすれば、時代も静止したままだ。未来形がなければ、過去形もない。過去形も想像の概念だからだ。想像が過去未来の概念を生み出したが、想像力がなければけして過去に回帰することはできない。いくら過去に戻ろうとしても、未来を見通す能力がなければ、現実の瞬間のみが過去をなるだろう。それもほんの一瞬だ。古い価値観とは未来を否定するものだが、それはこれまで累々と蓄積したきた科学を否定し、破局へ導くかもしれない。今日の文明を破壊するものだ。そうあってほしくはないが、まったくあり得ないと誰も確信できないだろう。今日ほど科学と人間が対立した時代はないかもしれない。人間は時間という概念を身につけたが、時間が止まるということは、思考停止状態をさすのだろうが、現代の人間たることをやめることに他ならない。人類は最早、前進するしかない。どのような結末になるか誰も分からないが、一刻も早く科学と風土、因習、現実文化を一致させる必要がある。

 

  自由人の晩年は孤独だ。しかしそれが幸福なのだ。孤独でないことは自由人でないことだ。今はまだ時間が停止していないので、明日はやってくる。特に抱負などないが、翻訳だけに明け暮れる一年が待っているだけだ。明るく元気とはいかないが、暗い憂鬱な日々もいただけない。淡々と生きる、ただそれだけかもしれない。ひたすら虚構の中で...。』

   

 

                 (露語翻訳家:飯塚俊明)  これまでの発言