ロシア最新ニュ−ス

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ロシアヘッドラインニュ−スを中心にしましたのでこの欄はしばらく中断

但し編集部たよりは、不定期ですが継続します

 

 


20125 22 日(火)

 

編集部より: ロシア語上達法(26)(翻訳というもの) (20111224日更新)

    

  

「汚名もなく誉れもなく、世を送ったものらの悲しい魂が

この惨めな状をつづける。

神に逆らいにもあらず、また忠なりしにもあらず、

ただ己のことをはかりし天使の卑しい一団が彼らにまじっている。

天は己が汚れんため彼らを逐い

深き地獄は罪人らのこれによって誇ることなきよう、彼らを受け入れず。

これらの者には死の望みがない。

またその盲目の生涯はいと卑しく、他の運命をすべて彼は嫉む。

世は彼らの名声の存在をゆるさず、憐憫も正義も彼らを蔑む。

我らは彼らのことを語らず、ただ見て過ぎよ。

神にも神の敵にも喜ばれない卑劣者の群れ!」(ダンテの地獄編)

  

    これが人間の本質だとしたら、とても恐ろしいことだ。年末だからこうした抜粋も許されるかもしれない。この一年間のことはすっかり忘れて、新しい頁をときめきながら捲りたいものだ。ほんの小さな邂逅で人生は逆転するかもしれない。暗く長い低迷の後に不意に雷鳴が轟き、閃光が走り、全てが一変する。それを奇蹟とよぶのかもしれない。ところが現実にもしばしばありうることだ。

 

    運命の星は人をあらぬ方向へ導き、幸福にも不幸にもなりうる。人間自体が不安定な存在なのだろう。常に確かのものに寄り添い、縋り、それが夢想だと気づく頃は晩年となっている。今日より明日と夢見るが、明日などない。それは夢で幻。今、その瞬間の有り様が悲しいかな全てなのだ。来年こそは今その瞬間に生きるように努めたい。

    「われわれは現に存在しない時を夢想し、実在する唯一の時をうかうか過ごしてしまう。これは普通、現在がわれわれを苦しめるからだ。われわれがそれを見まいとするのは、それがわれわれを悩ますからだ」(「瞑想録」、パスカル)

 

    長い間、職業として翻訳の仕事をしてきた。良い面は自由な時間がもてること、それに社会的にはそこそこ尊敬されることかもしれない。その反対に悪い面は収入が不安定なことだ。しかし、安定とは今日も明日も変化しないと定義するなら、そのようなことはこの世にはありえない。進歩とか発展とか、それは不安定を引き起こすのだろう。人類史が発展史とするなら、不安定な連続ということになる。

 

    テキスト ボックス: ロシア語上達法(26)翻訳というもの所詮、人間は未完成であり、完成することなどありえないのだろう。だから不安なのだろう。翻訳という仕事が不安定としても、この世の存在が全て不安定なのだから、恐れることはないのだろう。どの職業も不安定なもので、今日盤石でも、明日は無常の風が吹き、零落することは自然のことだ。結局のところ、自分の信じる道をひたらすら進むことが限定された人生という時間の中で、後悔しない唯一の生き方かもしれない。

  

    「職業に対する信仰の喪失−、これは大きくいえば、産業革命が人間にもたらした悲劇の一つだろう。人間はそこをもって己の死所とすべき固有の熟練を失って、極度に分業化され機械化された。そこからくる天職意識の喪失は、近代産業の特色である。日本は明治以来、急速度にこの悲劇を味わった。

    もっとも道徳的な人間とはいかなる人間であるか。道徳的な言葉を弄する人間でもなく、徳の修行を旨とする人間でもなく、善を施す人間でもない。私の考えるもっとも、道徳的な人間とは、純粋な職人なのである。その道の徳をそなえた人だ。職人といえば今では大工や左官を思い出すが、私は特殊技能に熟達した専門家のいっさいをふくめて考えたい。ある一つの仕事に、二十年三十年の年期を入れて、その職域では達人名人といわれるほどの人、かかる人物だけが、たとい善事をなさずとも、そのままで最高の道徳の具現者ではないか。彼は仕事をつくして天命を待つという「死所」の所有者だからだ。死所をえたものは美しい。何の誇張もなく、在るがままで道の徳をそなえているから。真の道徳は、中世の職人気質のうちに生きていると私は思っている」(「戦争と自己」亀井勝一郎)

 

    翻訳は年季を積むと、次第に上手くなってくる。そしてしまいには職人みたいになるのだろう。上に引用したようになるには、さらにいくつもの険しく厳しい岩壁を克服しないといけないのだろうが。

    ところが年季を積む途中では、次のようなことが起きるからなかなか簡単にはいかない。

    「経験を積んでくると、工夫を加えて釣り方を変えてみたくなる。そうすると段々に釣れなくなって下手くそみたいになる」(井伏鱒二「川釣り」)

    翻訳もベテランの人の翻訳だと、かなり凝っている文章に出会う。一見、上手そうに見えるが、加工し過ぎたものは、読者にとって難解になったり、感動が希薄になったりしている可能性がある。初心とは簡潔明瞭な文である。やはり、この原則に立ち戻り、素朴な文にするほうが説得力があるのだろう。

 

    翻訳者はとても孤独である。場合によっては狭い空間で一人作業をしないといけない。たとえ、空間の中で複数の人がいて、アシストする人がいても、孤独であることにかわりない。責任転嫁できないからだ。社会の中でも孤独だ。周囲にはその職業の本質を理解できる人はほとんどいないだろう。

 

    「水中に落ちた一滴のブドウ酒は、ほとんど水を染めることなく、一抹の薔薇色の煙をのこして消え去ろうとする。これが物理的事実であります。しかし今度は試みに、こうして消え去り、透明に復してしばらく後に、純粋な水に帰ったかにみえたこの器の中のここかしこに、濃い色の純粋のブドウ酒の幾滴かができると仮定してごらんなさい。何たる驚異でありましょう」(ヴァレリイ)

 

      これは精神の昇華をいっているのだろう。人間も始めは社会という懸濁液の中で融合し没個性となり、平均化され、姿も形も消え去り、社会の海の中で跡形もなくなるだろう。その中で揉まれながら苦しみ、努力の末結晶化したものが本来の人間の精神なのかもしれない。自覚した自由を内包したあらゆる束縛から解放された人間なのだろう。翻訳者というものは、元来そういうものかもしれない。

 

    怯懦(きょうだ)という言葉がある。臆病で気の弱い人をさすらしい。この怯懦の群れから抜け出すにはどうしたらよいだろうか。最初に引用した「ダンテの「地獄編」」は、おそらくほとんどの人間があてはまるだろう。市場経済はこの怯懦の群れを正当化した。ヴァレリ−ではないが、人間のもつ本質的矛盾を少しでも克服しない限り、そこから脱却するのは絵空事かもしれない。

 

    いろいろ思索してみたが、最後に素人ながらロシア政治と経済について少し触れてみる。ひょっとすると来年、ロシアでは政権交代がある可能性がある。大方の見方では、かろうじてプ−チン氏は大統領選に勝利して逃げ切るとされている。先ず野党が統一候補を出すことはほとんどありえない。あまりにも立場が違うからだ。先にカオス状態が発生して、統一ロシア党が分裂すると、本格的な政権交代となるだろう。カオス状態が大統領選前なのか後なのか分からないが、それを契機にロシア政治は大きく舵を切り、国民意識が反映する政治風土が芽生えるかもしれない。どのような政治形態も国民意識を基本的に投影したものだろうから、それが変わらない限り、政権も交代しないだろう。

 

    経済をみると、ロシアの外貨準備高は5450億ドル(20119月)、GDP53兆ル−ブル(2011年予想、経済発展省)、ロシアの対外債務は360億ドル(201111月)でGDP3%、対内債務4.5兆ル−ブル(2011年末予想、ロシア財務省)でGDPの約8.5%、国家予算規模収入7.5兆ル−ブル、支出9.4兆ル−ブルとなっている。かなり安定した経済数値といえる。経済では数値の大きさではなく、バランスが重要らしい。

 

    年々、年末年始の過ごし方が分からなくなる。狭い書斎でちびりちびり酒を飲むか、それとも旅行に行くか、スケジュ−ルが立てられないでいる。来年こそ「狭き門」を通過したいのだが、悲しいかな凡人なので常に「広き門」を通っている。「狭き門」を通るには捨てるものが多すぎる。そもそも「通れない」のではないか。

    

    「信じるより他はないと思う。私は馬鹿正直に信じる。ロマンチシズムによって、夢の力によって、難関を突破しようと気構えている時、よせ、よせ、帯はほどけているじゃないか等と人の悪い忠告は、いうものではない。信頼してついて行くのが一等正しい。運命を共にするのだ。一家庭においても、また友と友のとの間においても、同じ事がいえると思う。

   信じる能力のない国民は、敗北すると思う。だまって信じて、だまって生活をすすめて行くのが一等正しい。人のことをとやかくいうよりは、自分のていたらくについて考えてみるがよい。私は、この機会に、なお深く自分を調べてみたいと思っている。絶好の機会だ。

   信じて敗北することにおいて、悔いはない。むしろ永遠の勝利だ。それゆえに笑われても恥辱とは思わぬ。けれども、ああ、信じて成功したいものだ。この歓喜!」(太宰治、「もの思う葦」)

 

    自信のない人はおそらく、人を信じることはできないだろう。よく何もかも疑う人に出会うことがある。たぶん、その人は自分に信念がなく、価値の基軸をもっていないのだろう。全てぶれまくりである。こんな人には弁明する必要はない。「我らは彼らのことを語らず、ただ見て過ぎよ。」ということだ。

    翻訳もベテランの領域に入ってきた。後何年、職業人として第一線に立てるか、分からないが、来年こそいつも秘めたものは捨てないでいたいと思う。

                                     (露語翻訳家:飯塚俊明)  これまでの発言

 

 

 

 

“米国精神の謎”

−心理学者バスキナは「この国は全国民全て孤独な国家である」と米国について主な印象を述べている−(アダ・バスキナ、オゴニョ−ク、1220033月号)

イラク戦争開始と同時に予定通り発行された「オゴニョ−ク」前号で心理学者アダ・バスキナ著「不可解な米国精神」の一部抜粋を掲載しはじめた。アダ・バスキナはこのことについて深く立ち入ってきた。と言うのも米国滞在が長く、専門家として働いていたからである。戦争の起きた先週一週間でこのテ−マは緊急性が出てきた。我々がほぼそうだと思っていたアメリカ人は、特に開戦当初多くのテレビ番組で一般人ばかりかベテラン政治家も語っていたことから判断すると、その行動に若干の疑問を抱かせる人間になってしまった。バスキナはこれにたいし、いくつかの回答を出ている。

 

SELF-ESTEEM

この言葉は「高い自己評価」とも「自信」とも訳せるが、最も正確な訳は「自尊心」である。さら「自重心」を等価語とすることもできる。だがアメリカ人にはこれについていかなる説明も必要ない。「Self-Esteem」の言葉は新聞でも、テレビでも、ト−クショ−でもよく出会う言葉で、すでに高い精神的価値として意識の中に入り込んでいる。

 

この価値観を子供の頃から植え付けている。巨大な恐竜人形バ−ニ、これは子供向けト−クショ−の主人公だが、人間には自尊心が必要だと頻繁に語る。ところが子供向けト−クショ−では命令調も説教調もない。全てゲ−ム調なのである。たとえば、バ−ニのある友達の誕生日があった。バ−ニは彼にプレゼントの箱を渡し、それをのぞくと何か珍しいものがあると言う。とても価値があり二つと無いもの。この世界中で誰にもないものと言う。少年が箱を開けると、そこには鏡がある。当然、そこに自分の顔、それは「比類ないもの、価値があり、二つと無いもの」、誰にもないもの、その顔が映っている。これがまさに「self-esteem」の教育なのである。

 

別の例をあげれば、幼稚園である。皆すでに朝食をすませたが、一人少女が食卓でまだ食事をしている。若い保母さんが「ケリ−、どうしておそいの。皆散歩に行こうと急いでいるわよ。待たせているわよ」と言う。そのそばを女園長が通りかかり、この対応について偶然耳にする。園長をその保母に園長室に来るように言う。「あなたは散歩したくてたまらない子供たちのことを心配していましたね。だがケリ−のことは考えなかった。彼女はどうでしょう。ただでさえ一人テ−ブルに残されたばかりか、他の子供たちにたいし罪のコンプレックスを感じています」と園長は言った。

 

わたしはその時園長室で彼女のそばに座っていた。そして尋ねると、園長は「どのような場合でも子供に罪の意識を植え付けてはいけません。そうしないと、子供は自分が他より劣等であることに慣れてしまうかもしれません。自尊心が欠如してしまうかもしれません」と説明した。まさにこうしたやり方で脱落者が成長していく。

 

三番目の場面を紹介する。虐待をうけた婦人の家(AWS女性シェルタ−)がある。ここには家庭内暴力の犠牲者がやってくる。侮辱をうけ、時には夫から暴力をふるわれている妻たち。最初に不幸な妻を出迎えるのは心理カンセラ−である。患者と話し合う意味は、患者には価値があり、尊敬される人間であると、説得することにある。誰もあなたを侮辱し、ましてや手を上げてよいなどと、考えるはずもない。こうした説得を何度も繰り返す。説得だけではありません。専門のトレナ−、子供の世話について援助する法律相談員など、こうしたシステム全体の最大の目的は虐待をうけ、侮辱された女性に自己を信じること、自分の存在意義、自分の価値を教えることである。

 

「それでその後はどうなるの」と私はこのホ−ムの職員にたずねた。「彼女が自信をもったとしましょう。でも夫は以前のままで、侮辱されるくせのついた人間だと相変わらず見なすことでしょう」

「いいえ、ちがうわ。 我々は誰も、憚ることなく侮辱してよい人間とそうでない人間はよく理解しています。自尊心のよく発展した人間には接し方もより丁重になるものです」

 

寛容性

この言葉が入ってきたの最近のことだが、プレスや学術シンポジウムではとても頻繁に使われ始めた。ロシア政府は2000年に「寛容性の教育」という特別文化プログラムを承認さえもした。これは多くの議論を引き起こすことになったが、反対者が多かった。米国ではこれに関し、長い間いかなる議論もない。寛容性とは、あらゆる異なるもの、この世でなじみのないもの、標準でないもの、伝統的でないもの、そうしたものを受け入れる心構えのことである。これは他の人種や民族集団を尊敬することである。他の宗教、他の社会的地位の者(金持ちが貧者にたいし、貧者が金持ちにたいし)を尊敬することである。

 

当時ミシガン州大学で働いていたが、そこに教育実習生マリ−ナが十歳の娘オレシャと共にキエフからやってきた。娘は社交的でかわいらしい、その上英語も下手ではない。問題なく新しい集団に入ることができた。ところがこれを全てが気に入ったわけではない。それまで誰しも認めるクラスの人気者であった二人の少女が戦わずして引き下がらないと決めた。言わば世論形成を始めたのである。オレシャと他の子の違う点をからかった。たとえば、アメリカの子供たちが金属ケ−スに入れて家からもってくるいつものサンドイッチやツナサラダのかわりに、メンチカツをもってくるとか、英語がスラブ訛りだとか、ある時ジ−ンズのスカ−トでやってきたが、誰もジ−ンズのズボンばかりの中でかなりエキゾチックな格好となり、それをからかったりした。やがてオレシャはクラスが冷淡だと感じ、当然のこととても悲しかった。

 

母親マリ−ナは校長のところに行き、教育者同士として娘にとってこの異様な状況でどのように振舞うことが正しいのか、はっきりさせようとした。そこでどうなったか、マリ−ナはとても驚いた顔をして私に話してくれた。

「こんな回答がでるなんてまったく思ってなかったわ。女校長は最初顔を青くし、やがて顔を赤くした。そしてきわめて興奮するとついに一言述べた。「私の学校でこうしたことが起きたことはとても恥ずかしい。もちろん、あなたの娘さんは何もする必要ありません。これは私たちが悪いのです。我々自身で娘さんを改めさせましょう」」

 

女校長が少女のやっかみ屋さんとどんな会話をしたか、分からない。ただ一人の少女がオレシャをホ−ムパ−テイに招待し、もう一人の少女が次のウイ−クエンドにママとパパが大喜びだから、お客にくるようさそった。これで片がついたわけではない。家庭科の先生が次の授業で予定していたオニオンス−プ作りをやめて、ウクライナのボルシチ作りを提案した。そうなるともちろん、オレシャは指導の中心になった。学校で催される恒例のダンスパ−テイで民族衣装コンク−ルがあった。そこでオレシャはビ−ズ刺繍のサラファンやリボンの花、輝くネックレスで皆の注目をあつめた。

 

こうした寛容性の行動がアメリカのどこにでもあるとは言わない。この話の小学校は大学のある町の近くにあり、そこで大学職員の多くの子供が学んでいる。そしてもし多民族文化の子供に生徒が敵意を見せているなど噂でも飛べば、きわめて不愉快な一大事となり、学校の評判に傷がつくだろう。こうした慎重な対応がアメリカの教師や学校責任者全てにもともとあるものとは思わない。しかしアメリカの教育理論家がこうした方向を目指していることはまちがいない。そして数十の大学で寛容性の教育方法が研究され、数百の小中学校で教師がこれを実践している。

 

そこで馴染みのないものに対する寛大さ、異物を受け入れること、そのことについて若干述べてみる。最近アメリカ人の間で他人種、他民族の子供を養子にすることが流行っている。シカゴにあるノ−ス・ウエスト大学教授イルヴィン・ワイルは孫がいないのでとても悲嘆していた。さらに息子の嫁も教授ではあるが、子供が生めないことが分かった。しかしある時、この教授の部屋のドアに中国人の小さな可愛らしい女の子の写真が貼られていた。その下に「孫誕生祝いありがとう!おじいさんのイルヴィン」とサインしてあった。

 

息子と嫁は赤ん坊を養子にして、白人の米国人に似ていない、目じりの上がった黄色い顔の幼児を選択した。この子供が少し成長した時、養父母は彼女を中国に連れて行った。三人全員で民族習慣がきちんと維持されている家族の中で生活した。そして少女は中国の歌、踊り、衣服の着方、遊びの仕方など、人種のル−ツを忘れないために学んだ。

 

こうした例は米国ではしばしばお目にかかる。繰り返しになるが、たぶんこれは“出世した”米国人の間で流行っているのだろう。しかしこの教授は「私たちは他の人種、民族にたいし、寛容に接する見本を見せなければなりません。米国にはこうした教育がとても求められています」と説明した。

 

孤独

傍から見ると、米国人は生まれつきの集団主義者に思える。彼らは交際好きで、オ−プンで親しみやすい。彼らは多くのクラブ、協会、団体に入っている。しかしちょっと注意して見ると、米国がもつ最大の精神的葛藤とは孤独である。評論家マクス・ラ−ナは、外見の社交性と精神的孤独、こうした矛盾はおそらくアメリカ人の性格における最大のパラドックスのようだ、そう考えている。米国人はありとあらゆるコミュニテイに喜んで参加してまとまろうとする。過激なもの、保守的なもの、リベラルなもの、反動的なもの、ありとあらゆるものである。三大宗教団体、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教、各々独自のクラブをもっている。慈善事業や社会活動をしたり、魅力的な行事を催したりしている。(続く)

 

 

 

41日(火)

“ヤコフ・スタ−リンは捕虜の身ではなかった”

−三カ国語に堪能なヤコフ・ジュガシヴィリ、英語で試験をぶちこわし、さらにマルクス・レ−ニン主義の基礎についてテストで不合格-

(ワレンチン・ジリャエフ、オゴニョ−ク、272002年)

「人民の父」の厳しい言葉:「私は一兵卒と元帥を交換するつもりはない!」 これは、我が祖国神話の血となり、肉となった。パイプに煙草をつめ、そこに父の悲しみをおし隠す不屈の指導者。執務室から如才なく抜け出す彼の側近たち。

 

この言葉を語った時期は、1943年半ばであった。すでにヴォルガの戦闘は終わり、スタ−リンの長男ヤコフがザクセンハウゼン強制収容所特殊棟「A」の金網の中に収容され、逃亡を試みその場で歩哨に射殺された知らせをうける414日の約二ヶ月前のことであった。まさにその時元帥の妻パリュサはヤコフと彼の夫の交換をヒトラ−に懇願したが、ところがヒトラ−はこの願いを拒否した。

 

しかし実際にはスタ−リンはこのことを言っていない。それを知る人はほとんどいない。だがヤコフの妹スヴェトラナ・アリルエヴァはその著書「友人宛ての二十の手紙」で「1942年から1943年の冬、すでにスタ−リングラドの戦闘が終わった後、めったに会うこともないが、ある時父は「ドイツ人はヤコフを何某と交換したいと提案してきた。私が彼らと取引するだろうか。戦争では戦争のやり方だ!」と述べている。そうは言ってもあまりにもスタ−リンに近い人の記憶は、どうしてもあまり信用できない。たしかにこの表現はある英国の新聞に初めて登場したのだが、おそらくひまなジャ−ナリストの空想の産物にちがいない。しかも華麗な表現で描いている。最も論理的な推測は、スタ−リンがタス通信のチャンネルで英国紙の掲載内容をすでに知って、どのみちその言葉が自分のもとされると考え、それを自分のものとして複製公表した可能性である。

 

そうした発言であっても、いずれにしても発言となるが、そこで最近入手した資料や文書、写真を刑法学的に分析すると、他の話、つまりヤコフ・ジュガシヴィリが捕虜となり、その後捕虜生活をおくった事実にも疑問が出てくる。

 

ごくありふれた事のなりゆき

ヨセフ・スタ−リンの息子の捕虜そして死について有名な定説では、事のなりゆきはこうなる。ヤコフ・ジュガシヴィリは19416月末前線に到着し、74日から戦闘に参加、包囲され書類を地中に埋めると、民間人になりすませる(同じ事を自分の部下にも命令する)が、716日には捕虜となっている。ベレゼンのプレハブ捕虜収容所に護送されるが、そこではまだ身元確認されていない。しかし1941718日、ヨセフ・スタ−リンの息子として初めて尋問をうけている。その後でヤコフはドイツ軍との戦争は無分別だ、という声明をあたかも出している。声明文はチラシとして印刷までされ、それはソヴィエト兵士にとってドイツ捕虜となる“許可書”の役割をした。そこにはヤコフの写真も載っていた。さらにあたかもヤコフが書いたような父宛てのメモもある。「1941719日、尊敬する父上様、自分は捕虜となりましたが、元気です。まもなくドイツ国内の将校用収容所に送られます。待遇は良いです。ご自愛を祈ります。皆にもよろしくお伝えください。ヤ−シャ」 その後のヤコフの軌跡は、数ヶ所の軍人捕虜収容所で追うことができる。その時はまだ彼が死んだ特別強制収容所「A」にはいなかった。

 

捕虜のメモのほか、ヴャジマから1941626日に出したはがきがある。かつて妻宛てのヤコフの手紙はけして公表されることはなかった。そこに定説を疑わせる根拠がある故、なおさらこの文は公表すべきである。そうしたわけで表に出すことができた。「1941626日、親愛なるユ−リャ!全て順調です。旅行はとても興味深いものです。私が心配していることはお前の健康のことだけです。ガルカとお前の健康を大切にしてください。そしてパパは無事だと伝えてください。都合さえつけば、もっと長い手紙を書くつもりです。わたしのことは心配しないでください。わたしはすっかり落ち着いた生活をしています。明日か明後日、正確な住所を知らせます。秒針計つきの時計とペンナイフを送ってください。ガ−リャ、ユ−リャ、父上、スヴェトラ−ナに深いキスをおくります。皆によろしく伝えてください。お前をもう一度強く抱きしめると同時に、わたしのことは心配しないようにしてください。V.イワノヴナとリドリカによろしく。サペギンは無事です。全身全霊、お前のヤ−シャ!」

 

ヤコフ・ジュガシヴィリは結局、どのような“長い手紙”も送ることはなかった。711日、ドイツ軍はヴィテブスクに突入した。そして第16軍、第19軍、第20軍は包囲された。包囲された部隊の中に第14曲射砲隊もあった。その後すべて、定説で説明されることになる。

 

書類なしに包囲網の外に

1941822日朝、第14戦車師団第14曲射砲隊はクウビンカ射撃場で訓練射撃をしていた。どしゃぶりだった。昼頃には雨もあがった。全員、集会場に集められ、そこでモロトフの演説を聞いた。その後で党会議があった。723日戦車師団と、ヤコフ・ジュガシヴィリが大学卒業後59日より入隊した部隊全員は前線への出撃準備に入った。

 

ヤコフ・ジュガシヴィリは射撃できわめて好成績を出す最高の射撃手であった、それを先ず指摘しておく。例えば、152mm曲射砲で彼は戦車によく命中させ、それは最高の砲撃手を示すものであった。さらに忘れてならないことは、第14砲撃隊が所属した第14戦車師団は戦闘ではドイツ軍に相当な損害を与えていた。敵戦車師団の全戦車128台中122台を破壊した。これは西部戦線の他の部隊と比較しても、ぬきんでた成果と思われる。

 

師団の残存部隊がリオズノ駅地域で包囲された時、その包囲網から最初に脱出したのは第14曲射砲部隊であった。これは719日夕刻近くのことであった。

 

戦闘の結果、723日部隊司令部は戦闘赤旗勲章をヤコフ・ジュガシヴィリに授与。729日書類は、西部方面司令元帥チモシェンコに届けられ、そして人事本部に送付された。つまり、当時部隊に物理的に存在しなかった人物に書類が送れたことになる。85日、ブルガニンはスタ−リンに電報している。そこでは前線軍事会議は勲章受賞者リストに上級中尉ヤコフ・ジュガシヴィリを残したままであった。だが89日、受賞令が新聞「プラウダ」に掲載されると、ヤコフ・ジュガシヴィリの名はなかった。受賞令案ではヤコフ・ジュガシヴィリには99番がついていたが、その姓はきちんと削除され、彼一人削除されていたのだが、間違いなくスタ−リンの密かな命令によるものだろう。

 

ヤコフ・ジュガシヴィリがドイツ軍捕虜となっているとの連絡は721日に入った。何故ドイツ人は三日も待ったのだろうか。たしかに、最初の尋問調書の日付は718日だ。彼らは情報を収集し、入手した書類を急いで分析していた可能性もある。どのような書類なのか。

問題は1941715日夜三時、包囲網から脱出する際、第14曲射砲部隊に非常事態が発生した。司令部の書類を載せた車が炎上した。

「我々下記署名者、司令部車両指揮官中尉ベロフ、戦闘部隊文書取扱責任者軍曹ゴロヴチャク、プロパガンダ指導員上級政治委員ゴロホフ、諜報部文書責任者軍曹ブラエフ、戦闘部隊書記フェジコフ、移動砲兵廠書記ブウイコフは、715日連隊はヴェテプスカヤ州リオゾノ村落経由で包囲網を突破するため退却したことに関し、アクトを作成した。連隊本部車両は敵の砲撃をうけた。砲弾が直接命中し、司令部ZIS-5の車両は炎上した。車両を救い出すことは不可能であった。同車両は次の文書と物資と共に完全に燃え尽きた。下士官、兵卒の私文書、命令書ファイル、師団との連絡文書、偵察・作戦資料、紋章印、1941年当時の軍幹部名簿、発信文書ファイル、軍幹部アルバム、党・コムソモ−ル文書入り箱、雑品。本アクトの署名者たちは、何もかも全て燃え尽きたと主張しているが、正確に言えば司令部の車両とそこにあった書類が敵の手にわたり、その責任を回避するために捏造したものである。けれどもこれは成功した。

 

まさにその時ドイツ側はヤコフ・ジュガシヴィリの筆跡を手に入れていた。葉書の“長々しい”手紙について言えば、ヤコフ・ジュガシヴィリ死後すでに多数の私文書とともにドイツ側にあったことはきわめて濃厚である。こうした情報は真剣勝負を始める上で十分過ぎるものであった。とにかくドイツ諜報機関に比類ない資料が集められたいたおかげで、ヤコフ・ジュガシヴィリというより、彼によく似た人間、影武者とゲ−ムを始めることができる。

 

改竄作業

ヤコフ・ジュガシヴィリの尋問調書は、彼が捕虜になった経緯や捕虜生活の話はドイツ特務機関の仕事の成果である、こうした推測を強く確信させる。さらにそこには明白な事実も、細かく分析すると明らかになる、隠された事実もあった。

 

明白な事実と思われるものは、ヤコフ・ジュガシヴィリの筆跡捏造や、ドイツの捕虜であった様々な時期におけるスタ−リンの息子の本当の写真と長い間偽られていた写真の合成などがある。例えば、あたかも1941年から1942年捕虜となった時なされたヤコフ・ジュガシヴィリの四つの筆跡について刑法学的鑑定の結果が示すものは、二つの文書は別の人物が作成したもので、残りの二つの文書はスタ−リンの長男によるものであった。しかし同時にロシア国防省法医学・刑法学鑑定センタ−の専門家によると、ヤコフ・ジュガシヴィリのメモに本物がないということは、ドイツ側にあった上級中尉ヤコフの自筆文のばらばらの文字と文章を組み合わせ、技術的に偽造した可能性もある。また写真の真偽もあやしい。19417月から1943414日までにドイツで作られたヤコフ・ジュガシヴィリの写真を分析していると、修正と合成で部分的に捏造した痕跡が見られた。

 

鑑定評価にもとづき、センタ−の専門家はドイツの写真11枚の中、7枚は複写または印刷複製で、八枚の写真には修正が見られ、三枚は写真合成(その中にはヤコフの写真に別の表情を加えたものもあった)。その一枚にはミラ−写真合成(ネガをひっくり返し印画する)があった。

 

ドイツ側に戦争前諜報員から入手したヤコフ・ジュガシヴィリの写真があったことは間違いないだろう。それともスタ−リンの息子はやはり戦闘で死亡していないと仮定すると、ヤコフが捕虜となった直後に撮った写真を使ったことも考えられる。洗練されたナチスドイツの宣伝機関がヤコフ・ジュガシヴィリの映画や声の録音のような資料を何度も利用したことにも驚かされる。そこにあったのはたった数枚の写真と数枚のメモだけであったからだ。

 

ヤコフ・ジュガシヴィリの尋問記録内容ばかりか、その資料の運命も不可解に思える。ナチスドイツの宣伝機関がしきりに奔走したような重要捕虜の最初の尋問調書は、1947年ザクセンにあった古文書の分析から分かるように、グ−デリアン第四戦車師団のファイルの綴じられたままであった。別の尋問調書がリュフトヴァッファ公文書館にあったが、これもその真偽に疑問を抱かせるものであった。

 

尋問内容について言えば、ありえないことや誤りが多くあり、ヤコフ・ジュガシヴィリが書いたとされるもの全てはドイツ人が執筆したとも推測できる。例えばヤコフはドイツ国際諜報局の将校に連隊がすでにスモレンスク西のリオズノ郊外に展開していた時、スモレンスクに出かけ、電車の中でドイツスパイを逮捕する時に居合わせたとあたかも語っている。

 

その後もドイツ軍は第14砲兵連隊の燃えたという司令部車両の文書に含まれた資料を調書に利用し続けるが、調書の明らかな間違いはヤコフの誕生日や出生場所など、ばかげているものだけではない。さらに明白な誤りは、ヤコフ・ジュガシヴィリが三ヶ国語に堪能であったという情報である。ところが彼は大学の英語試験に合格できなかった。当然のことながら、捕虜収容所の六ヶ月という期間でも拘束されていたフランス首相の息子、陸軍大尉レネ・ブリュムと“自由に会話”できるほどのレベルにはフランス語の力はなかった。

 

ドイツ収容所における他の捕虜が証言しているように、スタ−リンの息子は演出され、周囲のものたちに描き出されたのであった。「収容所で彼を近くで何度も見たことがある。彼は将校の隔離棟にいた。毎日スタ−リンの息子として大勢の者に見せるために彼は鉄条網の柵の前に連れて行かれた。黒い襟章のついたいつもの灰色の外套、パイロット帽、厚布製の長靴を身につけていた。手を後ろに回した姿勢で柵の前に立つと、彼は外側からスタ−リンの息子だと元気よく叫ぶ好奇の民衆の頭上を見つめていた。 

 

目的はスタ−リンを打ち砕くこと?

おそらくこうして捏造したことは、プロパガンダを目的としただけでなく、心理的な目的もあったのだろう。そうやってスタ−リンに心理的圧力をかけたかったのだろう。スタ−リンという大物を最重要視したことは、ヒトラ−が連合国の他のリ−ダより彼を憎悪した理由だけではない。たしかにスタ−リンはNO1のリ−ダ−であり、ソ連邦の対内、対外政策の最重要問題全てが彼と結ばれていた。つまり、第二次世界大戦の全ての成り行きが彼に絡んでいた。

 

入手し得る文書全てを分析すると、ドイツ本国でこの作戦について承知していたのはほんの少数であったと推測できる。“捕虜”取り扱い状況や各収容所に移送したことから判断すると、“スタ−リンの息子”に接近することはドイツ側により厳しく監視され、この“囚人”について正確で信頼できる情報入手しようとしたソ連特殊部隊の試みは全て失敗した。

 

ヨセフ・スタ−リンの息子が戦死し、捕虜とならなかったと仮定すると、ヤコフ・ジュガシヴィリ死後、事態は二つの方向で発展したかもしれない。同郷人で彼の経歴の個々の事実を知る同僚が上級中尉ヤコフ・ジュガシヴィリと詐称したのかもしれない。これに関しては第14曲射砲隊第二砲兵隊第六部隊の中で行方不明者リストを詳細に分析する必要がある。もう一つの可能性はドイツ諜報機関が“芝居”に参加するため、“捕虜”を見つけ出し、死亡したスタ−リンの息子の書類を盗用したかもしれない。これはかなりありそうなことである。

 

“捕虜”死亡問題に触れると、ドイツ側の資料では1943414日悲劇が起こり、ヤコフ・ジュガシヴィリが“逃亡を試み”ザクセンハウゼンの強制収容所で死亡したことになっている。この資料にもとづき、国内国外の多くの研究者は、これは故意の自殺行為であると見ている。しかし何故にこれが19434月に起きたのか。1943年の3月末から4月初めにかけては、国際赤十字を通して捕虜交換問題について双方の立場が最終的に調査された時期であり、“特別囚人”の運命が決定された時であった。彼をこれ以上この策略に関わらせると、捏造が全面的に暴露されるおそれがあったのかもしれない。

 

いずれにしても、ヤコフ・ジュガシヴィリ問題をさらに追及すると、戦争時の“空白”がさらに一つ埋まるだろう。(完)

 

 

725日(木)

“なんと恐ろしいことか!”

−ソヴィエト知識人にたいするフルショフの演説原文が発見された。ソヴィエト知識人に最も強烈な印象が残ったのは、ニキ−タ・フルショフとの二回の会談であった。そこで彼は音楽や絵画その他の芸術を品のない言葉で激しく罵った。この会談は多くの虚構と伝説をつく上げ、口伝えの形で残り、ソヴィエト権力とソヴィエト文化人が対立した最も陰鬱な1ペ−ジとして、60年代の人々の血肉となった。衝撃をうけた知識人は食卓を囲み、目撃者の証言を口から口へ伝えた。怯え意気消沈した中で立ち上がり、向こう見ずなフルショフにたいし、いかに勇敢にそして正直に答え、党が侮辱した知識人の名誉と尊厳を守ったか、語り継いだ。滅亡の最期に党は恐怖の会談速記録を処分したと思われたが、そうではなかった。-(ドミトリ・ミンチェノク、オゴニョ−ク、82002年)−

 

何が私を驚愕させ、どうして息詰まる思いをしたか、それはこのテ−ブルの上にあるダンボ−ル箱のなかにある。それこそ、死をもたらす過去の武器であった。「最初の人間として私にこのダンボ−ルを開けることができますか」と、私を見張るため、付けられた職員に尋ねた。「はい」と彼ははっきりと答えた。私は一瞬緊張した。ずいぶんと長い間、これを手に入れたかった。この欲求はだいぶ以前、1999年末に生まれた。

 

かつて私は妻の父でソヴィエトドキュメンタリ映画先駆者ダヴィド・ドウビンスキ−から、フルショフとソヴィエト知識人との会談について聞いたことがある。この会談についてどのような文書記録も残っていないと思われた。何か発見しようと頼りない試みを繰り返したが、うまくいかなかった。私と共にテレビ放送制作していたアンドレイ・ヴォズネセンスキ−だけが、「どこかに隠されている。探してみろ」と言った。

 

言うことは簡単だ。かつての党古文書保管所や党以外の古文書保管所では、「そうしたフイルムはない」との返事であった。大統領古文書保管所元職員の一人が、ペレストロイカ開始直後、フイルムは処分したと権威ぶった口調で言った。

 

「何故にか」と私は驚いた。「党にたいする遠慮だ」と肩をすぼめた。「ある人がその存在を最近聞いている」と少しはったりを言ってみた。「誰もそんなことを聞くわけがありません」と古文書の職員は餌にかかった。「どうして」「なぜなら、一度も誰にも見せていません」

 

だが“迷想というエネルギ−”が私を前に突き動かした。古文書保管所めぐりを続けた。探索も二順目となり、現代文書保管センタ−にその順番がさしかかった時、私が関心をもつテ−マのある文書がそれでも見つかったと連絡があった。私はその古文書保管所に急いだ。私を出迎えたのは保管所の幹部職員であった。文書そのものはないと言われた。その引用個所だけを発見した。それはフルショフに始まり、批判者で終わる、発言者名の記されたカ−ドであった。

 

「それはそうと、我々には支部があります」と少し沈黙し、考えるように保管所職員は言った。はっきりしない口調である都市の名前をあげた。当然私はその町に関心をもった。

 

私は休暇をとった。戻ると電話した。自分の耳を疑った。フイルムが存在したのだ。しかしその古文書職員は、フイルムの入手は不可能と言い、私をがっかりさせた。

 

“護送班”を派遣する必要がある。しかしこれをやる資金は保管所にはない。長い交渉が続けられ、結局けりがついた。“特別フイルム”入りダンボ−ルがモスクワに届いた。保管所に呼ばれ、時代遅れの録音装置が備わった特別室に通され、紙テ−プで封印されたフイルムを見せられた。これは、毎秒19mで収録された古い東ドイツ製録音テ−プリ−ルであった。

 

録音総時間16時間、三日間にわたるフルショフと知識人の会談二回分が収録されている。各リ−ルには発言者の姓名と日付けがはっきり記されていた。

 

まえがきに代えて

最初の会談は1962121712時、党中央委員会迎賓館で行われた。その日地下鉄駅「キエフスカヤ」とレ−ニン丘との間は“秘密警察”が運転する正規のタクシ−が運行していた。タクシ−運転手が“おとり”であることは後に判明した。

 

会談には当時“政府を代弁する知識人全て”、それに売出し中の“非政府系”のソルジェニツイン、ニコノフ、ジュトフスキ−、エフトウシェンコなども出席した。全員、迎賓館のいわゆる“脱衣場”に集められた。一度に一箇所でセルゲイ・ミハルコフ、彫刻家ヴウチェテイチ、作家ショロホフ、今では忘れられているソフロノフ、フェデイン、エレンブルグ、トヴァルドフスキ−、著名な映画監督イワン・プウイルエフその他多くの有名・無名なものを見ることができた。会談の形式は思いがけないもので、テ−ブルの場所は自由であった。六人づつ小テ−ブルについた。

 

ホ−ルの中央にはフルショフとその取りまき用のテ−ブルが用意されていた。フルショフの演説はしばしば支離滅裂なもので、そのまま解釈すると意味がとれなかった。この会談に出席した映画監督ウラジ−ミル・ナウモフの提案で、幹部用のテ−ブルにウオッカ入りのビンが置かれたが、客をそれをただの水と勘違いして飲んでいた。当時の中央委員会文化部次長イリイチェフはジャズについて話し始めた。彼の発言にフルショフは呼応した。「ジャズファンの皆さんは私を許してくれ、しかしあなた方に自分の意見があるにしても、私の感情や意見、趣味を取りあげないでくれ。この音楽は好きでない!理解できん!理解できん!(強く深呼吸) 誰も、自分の楽器で演奏すべきだ。そこでこれが楽団と言うのですか。私は違うと言いたい。これは不協和音だろう。(叫ぶ)これがジャズなんだ、ジャズだ!同志ポリャンスキ−、そこの座っている大変若い男のことだ。彼が私に、最近あった家族パ−テイのことを話してくれた。娘を嫁に出した。彼が言うには、そこで若者が結婚式に集まった。招待されたある学生が結婚式にやってきてプレゼントをもってきた。

 

「それは絵だ」 ポリャンスキ−はこの絵を見て「これは何だね。何が描かれているのかね」と尋ねた。「これが何であるかほんとうに分からないのですか!これはレモンではないですか」「なんだって、ここにはレモンなんかないよ」とポリャンスキ−は答えた。「どうして、あなたにとってレモンが丸いことが絶対なのですか。これがレモンですよ、絵の中の黄色い線がそうです」と学生が言ったそうです。同志諸君、これがレモンの絵だとしたら、これが絵画であるならば、生まれたばかりの赤ん坊も画家だ。これがレモンだなんて?!!

 

同志諸君、いったこれが絵かね? 同志諸君!! しかし私はこれそのものが理解できない。例えば、この無名の彫刻。これが彫刻ですか。すまんが、私は彼らと話したことがある。私はそれを見て、彼らに質問しました。「同志諸君、ちょっと聞いてくれ、君たちは本当の男かね。すまんが、ホモではないのか。これこそ芸術のホモ化だ、芸術ではない。だからホモというのは十歳ぐらいの年齢だ。これで勲章をあげるべきか、どうしてだ。(拍手)社会がこれを犯罪として裁くならば、それはまさにこの二つのタイプなのだ。これ以上のものはない!なぜなら、彼は創出していますが、言ってみれば社会に影響与えようとしているのです。彼をまさにこれを自分自身のためでも、自分の家を飾るためにおこなっているわけでない。我々がノア族になり、皆がノアの箱舟に乗るように訴えている。ノア族があらゆる純粋なもの、不純なもの全てを実際もっていったのか、私は知らない。オア族は愚かな人間ではないから、おそらく持っていかなかったろう。これは作り話だ。おそらく持っていかなかった。だが、あなた方は何を言っているのかね。

 

ホ−ルから叫び声:「持っていった」

フルショフ:「持っていっただと」(笑み、長い間笑う、そして沈黙) 「ニ三年前だと思うがこうした革新的芸術家のところに行ったことがある。そこでもりっぱな若い人が自分の絵を出展し、題名は「自画像」となっていた。彼の名前は何と言ったか。(彼の隣に座っていたイリイチェフが彼にそっと教えた。彼はよく聞いていなかった) ジュコフスキ−か(ふたたびそっとささやく) いや違う、ジュトフスキ−だ。そうした名だ!

 

そうしておこう、すこしおおざっぱだが許してくれ、二つの自画像を選択し並べて置く。私のものでないと言っておく。厚紙に穴をあけ、それをこのジュコフスキ−か、ジュトフスキ−の自画像にあて、4mぐらい離れ、あなた方に質問する。これは人間の体のどの部分を描いたものか。95%の人は間違えるだろう。

 

ある人は“顔”と言うだろうし、ある人は他の部分と言うだろう。何故なら、これは他の部分とまったく同じなのだ。これが絵だろうか。

 

その同志、こちらに来てくれ。(ボリス・ジュトフスキ−はその時ホ−ルに座っていた)あなた方(罵っている画家をさしている)は、もしかしたら画家の作風や筆使いが気に入らないかと尋ねるかもしれない。しかしそれは画家の微妙な点であり、論争の対象であると言うかもしれない。しかし普通の人間には、これは(自画像)は正常な人間であり、美しい人間であると見えなければならない。画家に求められているものは、喜ばすことなのだと(咳き込む)。まさに同志エフトウシェンコは言ってみれば、こうした芸術潮流の擁護者となった。たぶん、これは私には分からないし、理解できない。しかし私という人間はそもそも中立だ。言わば私は人生に鍛えられた人間であり、それはまさに闘いそのものであった。そうしたことから私は中立の立場がとれない、そうした立場でもある。私はヴィンニチェンコの「ピ−ニャ」の話が好きだ。そこで牢屋のユダヤ人が描かれている。牢屋には一味が入っていた。その中にアナ−キストがいて、とても勇ましい人間だ。英雄的な男だ。そこである時、このユダヤ人のピ−チャだが、とてもおどおどし、きわめて謙虚な男だが、しかしアナ−キストから見ると、まったく頼りない男なのだ。それが牢屋に入っている。実際に権力が無用であり、アナ−キストの考えが正しいと証明するため、ピ−チャを牢名主に選んだ。そして彼は牢名主になると、誰が用便桶を運び出すか、取り仕切りだした。ある時逃亡計画がおこり、彼らは抜け穴を掘った。そこで誰が最初に抜け穴から逃げるのだとなった。くじで決めることになり、アナ−キストが最初の逃亡者の栄誉にさずかるのだが、彼は断った。そこでピ−チャは「俺が牢名主だ。だから最初に逃げる」と言った。まあ、そういった結末だ。

 

そこでだ、私もピ−チャと同じだ。私は中央委員会書記だ。だから中立の立場をとる権利がない。それに従い、私は皆さんに接している(拍手)。

 

今度はほら、この無名な者がある無名なものを展示した。それで彼は今や、有名人だと思っている。

 

こうした彫刻家は私の考えでは、霊媒者だ。彼らは描き、彫刻し、創造する。我々は出かけて行き、これは何だと、理解できない。つまり我々が悪い。(長い間中断。ホ−ルは静まる) もしこうした“無名な同志”が有名な同志になり、自分たちの中央委員会を作ると、我々はこうした会議には招待されないだろう。だが我々は皆さんを招待している。(長く続く拍手)

 

(四十分後)

党専従職員の一人がマイクをとると、「エフトウシェンコ君の発言を許します」と言った。彼と同じテ−ブルの誰かが、「誰だ、それは」「たぶん、映画監督のことだろう。そうだ、映画監督だ」と呟いた。

 

(彼は詩人である)

エフトウシェンコ:「わたは、ここへタクシ−でやってきた。モスフィルモスコフスカヤ通りの会館に用があると運転手に言った。すると運転手は「ははあ、政府の来賓ですね」と呟く。どうして知っているのかと尋ねると、「そりゃあ、今日一人作家を運んだから」と言った。さらにその作家先生は「あそこで、皆さんが真実を書いているか、そうでないか、その問題を今日解決する」とも言ってたよ。「それであんたは何て答えた」と質問すると「どうって、思っていることをそのまま言ったよ。喧嘩なしのわが国芸術なんてありっこないよ」と述べた。(拍手) 最近フィデル・カストロと会ったことについて少し話してみたい。これは、アナスタス・イワノヴィッチ・ミコヤンをキュ−バから見送る時のことで、カストロは彼を手放すのをとても惜しみ、それもキュ−バ人はミコヤンを同胞と見ていたからです。私はカストロと四時間ばかり話しをしました。運よく、私は少しスペイン語がわかりました。彼は「フルショフは二十回大会で例の報告書を作らなくてもすんだのか、あなた、どう思うか言ってみてくれ」と尋ねた。

 

私は少し考え、そして「彼はですね、もちろん、そうせざるをえなかったでしょう。しかし、遅かれ早かれ、いずれにしてもそうなったでしょう。ただ少し後になったかもしれません」と彼に言いました。そうしたらカストロは考え込み、少し黙ると、まるで躊躇いが聞こえるような調子で「これはたしかに偉大な功績だ。こうした厳しい情勢ではそのような恐ろしいことを国民に言うべきである。そう言うには、よほど国民を信用する必要がある」と言った。「我々は皆、わが党、わが政府、ニキ−タ・セルゲ−ヴィッチ・フルショフ個人がいかに偉大な功績をしたか、自国人民にたいするいかに信頼ある行動をしたか、理解しています。そして今、あなたもご存知でしょうが、現在はわが国発展のどの段階にも匹敵しません」

 

(再度、無名な者の芸術の話になる)

フルショフ(報告者の話を中断し、反論する):「これが何か感銘を与えるか、尋ねてみましょう。誰がどれほど資金を費やしたかは知らない。この無名人は、彼にどれほど国家が負担しているか計算する時は、とても有名人である。(中断、誰か彼に耳打ちする)

 

フルショフは無名人に大声で叫ぶ:「親愛なる人よ、ご存知だろうか。これだけの金額の銅を掘るのに、鉱夫がどれだけ働く必要があるのか。あなたはご存知か、いや、知らないだろう。だがわたしは知っている。なぜならわたしはかつて鉱夫であったからだ。

 

これは何だ、空から降ってきたものなのか。そこで同志シェレピンに言う。彼は現在党・国家管理を担当している。「銅はどこから手に入れているのか、調べてくれ。ひょっとしたら、芸術家同盟は手に入れた銅を不当に配分しているのだろうか」

 

29分後、話は再びジャズについて)

フルショフ(報告者の話を中断し、反論):「わたしはニグロを侮辱するつもりはない。しかし私の考えでは、この音楽はニグロのものだ。私のジャズの見解ですか。え、何ですって。何だと言うんですか。ちょうど、アメリカのジャズ演奏中の時でした。私は米大使トンプソンと一緒に座っていました。ちょっと見てから、「これはまさにニグロの音楽だ」と大使に言いました。その音楽を非難するつもりはありません。民族各々、自分の伝統がありますし、彼らはそれをもって誕生し、それに馴染んでいるのでしょう。彼らはこの音楽が好きなのです。しかし私はロシアの田舎で生まれ、ロシアの音楽、民謡の中で育ったのです。だから、ソロヴィエフ・セドフの歌を聞くのが好きなのです。彼がセドイであろうと、ソロヴィエフであろうと好きなのです。その他の作曲家や詩人の歌も好きです。若干内容に問題もありますが、同志エフトウシェンコの歌「ロシア人は戦争が好きなのだろうか」を聞くのも好きです。しかし全体としてみれば、よく出来た作品です。音楽もすばらしい。まあ、年がいもないが、アンドレイ・マルイシコの歌を聞くもの好きだ。時には調子のよくない時もある。そうした時、それをずっと聞いていたくなる。

 

そこで同氏ポリャンスキ−はこう言った。結婚式でこの種の音楽芸術について議論があった。ある若い者がまったくもってあっさりと真実をのたまわった。「わたしたちはメロデイ−を失ったと言われている」 その彼が「わたしたちは人民である」とも言った。人民を支持するということは、社会を支持することで、その社会にはメロデイ−がない。だから今ジャズが流行している。(中断) もしかしたら、これは最新のものではなく、旧体制のものかもしれない。しかしわたしは年齢からすれば旧体制の人間である。わたしはオイストラフのバイオリン演奏を聞くのが好きだ。何故に我々は前に出て、ジャズ音楽を積極的に利用しなければならないのか。これは新しい現象だと言うことだろう。

 

それならば、このダンスはなんて呼ぶのか。スヴィスト、ヴィスト、それともツイストか。なんだこれは!鞭身教派という分派があると言われる。そうだとも、そうした分派がある。鞭身教派だ!わたしはこのことをチェキストの報告で知っている。彼らはこういしたことをやっている。わたしは鞭身教派というものを見たことはないが、これが分派支持者であると、チェキストの報告をうけている。そこではそうやって踊っていると言う。つまり、熱狂まで踊る、わかりますか。その後で倒れる。これがほんとうに踊りなのか。

 

何故、我々が自分たちの踊り、民族舞踊を捨てなければならないのか。わたしは言わば党内の地位からすれば放浪の人間だ。わたしは最早、ロシア人、ウクライナ人とは言わない。ウズベク人、カザフ人、どの民族をとっても、その舞踊はしとやかで、美しい。ところがこれは、聞いてくれ、これこそ下品だ!

 

こうした動きは、体の一部で行うべきだ!世間ではこれは下品なものとなる。それでこれが新しいものだって!同氏諸君、我々はそれでもやはり、古い社会を守ろうではないか。そうだ、古い社会を守ろう。それはこうした退廃に屈服しないために必要なのだ。どんな言葉を使ったらよいのか、さっぱりわからん。

 

ある時スタ−リンがわたしのところに来て、「何と言う名だ」とたずねた。大変なことだ!耳を疑った!彼がわたしの名は何かねとたずねたのだ。わたしは政治局員に抜擢か!「それまでフルショフと言われていました。これからわたしがどう言われるのか分かりません」と言った。ヨジョフが隣にいた。わたしたちは政治局会議を前にして話をしていた。「いや、あなたはフルショフではない。あなたは末尾が“スキ−”で終わる、ポ−ランド人だ」とスタ−リンは言った。これにたいし何と答えたらようのか。「わたしはウクライナ出身です。調べてください」と答えた。

 

ところがそのスタ−リンこそが、わたしを擁護した。「これはヨジョフがお前についていろいろと考え出したことだ」と言った。「そんな作り話はしていません」とエジョフが言うと、「お前は酔って、それをマレンコフに言った。マレンコフがそれをわたしに伝えた」とスタ−リンは彼に言った。

 

個人崇拝の時代がどのようなものであったか、分かるだろうか。わたしがポ−ランド人でないとスタ−リンが信じたことはすばらしいことだ(拍手)。

 

(若干時間をおく)

「わが国画家はスパイのようなものだ。自分で描いておいて、後で何を描いたか、理解していない。つまり、暗号化してしまう。彼らはしだいに一緒になり、大きな流れとなる。そして彼らは我々の友人と言われる。我々にはそうした友人がいる。ベリア、ヨジェフ、ヤゴダのことだが、すべて同じ畑のイチゴだ。だから、よく見守る必要があるし、機関が必要となる。我が社会主義国家の刀は鋭いものでなければならない。これは繰り返しの発言だ。我々には敵がいる、これは事実だ。強力な資本主義国家がある。そのエ−ジェントを監視しないのは、正しくないだろう。我々がかなりお人よしと考えるべきではない。刀は敵に対し常に鋭く研いでおく、必要がある。(中断)

 

 

31日(金)

“自由の尺度”

−今世紀末ロシアの十年間は今世紀初めの十年間とよく比較される。その革命の時代は強い戦慄とともに終焉した。今度の時代はどのように終焉するのか。

(アブラム・ワシリイエヴィッチ・スタセヴィチ、トウポレフ航空技術研究所ソフトウエアチ−ム責任者)(オゴニョ−ク、52001年)

二十世紀はロシアが自国の国家形態を悲劇的に模索しながら過ぎ去った。たった一世紀の間に根本的な大変動があり、五回も国家体制が変わった。絶対君主制(1906年以前)、議会君主制(1906年〜1917年)、民主共和国制(1917年)、共産主義独裁制(1917年〜1991年)、大統領共和制(1991年〜2000年)。数百万の人々が内戦と弾圧の犠牲者となった。ロシアの国家指導者は十人以上も交代したが、その誰しもわが国社会の大多数に高く評価されていない。こうしたこと全体の原因はどこにあるのだろうか。

 

議会君主制はそれまでのロシアの絶対君主制とは根本的に異なっていた。ツア−リ(君主)は従来どおり全執行権を掌握していたが、立法や財政に関しては国民が選んだ国会が今日に似たようなきわめて大きな影響力をもっていた。このようにロシアは立憲君主制に大きく向かっていた。

 

しかし19172月、代議制度を導入したツア−リ個人にも、経済面にも軍事面にもいかなる理由もなかったが、ツア−リは退位せざるえなかった。(中断)