行為の実行時とは、各々の計算時点との関係で決定される。この計算時点とは、言葉を発した時点(
Jy ghbltn djdhtvz:かれはちょうどよい時にくるだろう)又は、その他のある時点、特に他の行為の時点(Jy levfk- xnj ghbltn djdhtvz:かれはちょうどよいときに到着すると思った)である。この相違は時制の形態論的体系にはない。時制のカテゴリ−は、一つの基準点、即ち文法的計算時点のみを対象とする。この抽象的な文法定義では、言葉を発した時点も、話の中で定まる行為のその他の時点も、一般化している。
時制形式の体系では、文法的計算時点に関し、同時性(現在形)、先行(過去形)又は到来(未来形)と区別している。時制の各形式には、この点にたいし一定の関係がある。例えば、合成未来形(
,ele gbcfnm)とは所定の計算時点にたいし、“到来(未来)”を意味する表現方法である。この意味は、時制形式の文法体系に属する。この体系では、コンテキストや、具体的話者、その発話時点とは関係なく定義している。文法的計算時点に従うと、外的発話(外部言語形式)時点(時制の絶対的用法)及び何らかのその他の時点(時制の相対的用法)に区分される。例えば、合成未来形を用いている“
Z ,ele gbcfnm”という文の場合、話者の発話の時点からみて、“到来(未来)”が表現されている。又“Z j,tifk- xnj ,ele gbcfnm”の文では、行為“j,tifk”の関係する過去の時点からみた“到来(未来)”が表現されている。
各々の時制形式には、時間の定義がある。
現在時制の形式では、文法的計算時点に従うと、時間の定義は“同時性(現在)”である:
Djn bltn Vbif(ほら、ミ−シャが歩いてゆく)過去時制の形式では、時間の定義は“先行(過去)”である:
Njkmrj xnj ctqxfc hfcce;lfkf jgznm- d nhblwfnsq hfp
:rfr [jhjij- xnj z dfv jnrfpfkf b yt ,ele dfitq ;tyjq(私が貴方を拒み、貴方の妻にならないことがよいことなのかどうか、たった今もう一度、30回目になるけど、考えてみた)未来時制の形式(合成未来、単一未来)では時間の定義は“到来(未来)”である:
Jcnfyecm
b ,ele njhxfnm pltcm- gjrf jyf yt pfgkfnbn(彼女が泣き出すまで、ここに残り突っ立っているつもりである)時制の形式は全体として、一定の時間の方向に集約される。この時間の方向性は、“先行”(過去)と“到来”(未来)の関係でははっきりと現れる。これは、計算基準点にたいし、互いに相反する方向である。“同時性”(現在)の場合、時間方向の概念は、特別なより広い意味で解釈される。ここには、“先行”(過去)と“到来”(未来)のような時間の方向はない。従って、現在時制の形式的意味は、発話時点又はその他の時点にたいする行為の同時性だけではなく、より広義の意味では、慣習的、典型的又は恒常的状況の存在する現在として解釈される。この例としては、慣習的、典型的行為の表現に現在形を用いるケ−スである:
−
J,cnjzntkmcndf cdzpsdf.n k.ltq cjdthityyj hfpyjhjlys[ [fhfrnthjd(状況は、全く異なる性格の人々を結束させる);このような場合における、現在時制の形式的意味は、現時点(過去のものとなっていない、未来に到来しない)において現存する、実際の抽象的状況の意味である。抽象的な文法的関係の観点からすれば、このような用法にも、既述した意味での“同時性”の意味も含まれる。
注:今後は表現を簡潔にする為、たんに“過去形、現在形、未来形”と表現する。
不完了体・完了体動詞の過去形は、同じ形式で表現される。この形式には各々の体の動詞が関係する。不完了体動詞の過去形と完了体動詞の過去形の間に、主に体のカテゴリ−と関係する、用法上の相違がある。完了体動詞の過去形は、“完了時制”の用法で用いられる場合、過去の時点と現在の時点を密接に結びつける。これにたいし、不完了体動詞の過去形は、完全に過去に属する行為を表現するもので、現在との繋がりをもたない。完了体及び不完了体動詞の過去形の意味を比較してみる:
Gjghj,eq njkmrj jckeifnmcz- ytvtlktyyj Rkfdlb. Gtnhjdbxe hfccrf;e- rnj gjhnhtn cghznfk======= Z dbltk dxthf- rfr ns tuj ghznfk====(背ならそむいてみろ、すぐさま、クラヴヂイ・ペトロヴィッチに、誰が肖像画を隠したか、述べよう。..昨日私 はそれをおまえがどのように隠していたか見ていた)
これは全く稀のケ−スで、限られた条件の場合だが、不完了体動詞の過去形にも、完了時制の用法がある:
Jyf jnkbxyj j,hfpjdfyyf- evttn vsckbnm====== Yt k.,bkf yb hfpe d ;bpyb
. Ktybdf- k.,bn abkjcjacndjdfnm- xbnftn rybub kt;f(彼女はきわめて教養豊かで、物事を深く思考する能力がある。...人生で一度たりとも人を愛したことがなかった。不精な性格で、哲学思考するのが好きで、寝ころんで読書をする。)このように、完了体動詞の過去形は、不完了体動詞の過去形と異なり、その結果に関し現在の状況と密接に結びついている過去の行為を表現することができる。これは、不完了体動詞の過去形では、例外的にのみ可能性があるだけである。又完了体動詞の過去形は、不完了体動詞の過去形にはない、“転義”用法がある。
合成未来と単一未来の関係:
これは時制の独立した二つの形式である。文法的計算時点に関し、同一の時制形式のカテゴリ−“到来(未来)”に属するが、これらは“時間の解釈”に関しは本質的相違がある。合成未来形の意味は、未来の範囲に限定される:
Pyfxbn- jgznm dc. yjxm ,eltn dsnm cj,frf
(結局、犬はまた一晩中吠えることだろう)単一未来形はこの基本的意味の他に、コンテキストの一定の条件では、現在の反復行為(慣習的、典型的)の婉曲的意味を表現する。場合によっては、叙法的ニュアンスも含まれる。この表現はコンテキストによるが、本質的役割を演ずるのは、その形成タイプが現在形である形式そのものである。コンテキストは、形式の基本的意味と共に形式自体に隠されている(付随的、周辺的意味)意味を決定する。
例:
<sdftn nfr- xnj pf[jxtn dlheu pf,snm ct,z xtkjdtr- −dct pf,snm(人間には突然自己を忘却したい、全てを忘却したい時がある);Pltcm vt;le yt,jv b ptvkt. ;bdtn euh.vfz njcrf
.Jyf b lytv b yjxm. hjtn D gjkz[ gtcxfyst ,euhs- Gjhj. ;fkj,yj pfdjtn B dyjdm evjkrytn − lj gjhs(ここ天と地の間には底知れぬ侘びしさがある。それは昼も夜も砂の小山をほっている。時折悲しげに吠えると、そして再び暫くの間沈黙する)ある場合、反復行為(慣習的)の現在の意味は未来の意味と結びついていない。これは上記の通りである。又他の場合では、反復行為の現在の意味は未来の意味と両立しうる。この二つの意味の両立が特に顕著であるケ−スは、叙法的ニュアンス(可能・不可能・必然・当為)を伴う場合である。この場合、慣習的(恒常的、常に)に起こること、未来にも起こりうることが表現される:
−
Gjckeifq tot:z dtlm yt dpljh ujdjh.+ z dtlm yt dpljh ujdjh.+ z cjukfcty- dj dctv Gtnth,ehut yyfqltim nfrjuj gjxthrf- rfr ndjq gjxthr(もうちょっと聞いてくれ、私はでたらめ言わない。 おまえの筆跡のようなものは、ペテルブルグ中で見つけることができないかもしれないことには私は同意する)(この文では、現在さがすことは不可能であるが、将来の可能性を排除しているわけではない);Kmdjd xtcnty- ghzv b he,bn cgktxf- yt oflz ;bdjnf
.Tckb ye;yj- jy ,hjcbn gjl rfhtne ,jv,e- lfcn gj hske bycgtrnjhe- gecnbn gjlktyf.Jy yb gthtl xtv yt jcnfyjdbncz.Euhsptybq cjdtcnb ybrjulf yt xedcndetn(リヴォフは正直、率直、歯に衣を着せず、死をも辞さない。必要とあらば、彼は郵便馬車に爆弾を投げつけ、検閲官の鼻面を殴りつけ、ろくでなしと呼ぶ。彼はどんなもの対しても躊躇することはない。けっして良心の呵責を覚えることはない。)(この文では、上記の各々の事が一定の条件で起こりうることかつ必ず起こるだろうことが断定的に表現されている。慣習(習慣)行為の未来・現在の意味が両方あり、叙法的ニュアンスがある)時制形式の用法
時制形式の文法的意味は、コンテキストと話しの状況との相関関係において決定される。この相関関係の一定のパタ−ンの基づき、各々の形式の用法が区分される。時制形式の用法には、“直義”用法と“転義”用法がある。下記の文を比較してみる:
(現在時制の“直義”用法)
Djn jy bltn
(ちょっと見て、彼が歩いてゆく)(過去に関するが、時制形式は同じ:“転義”用法)
Ble z dxthf gj ekbwt======
(昨日、わたしは通りを歩いていた)
時制形式の“直義”用法の場合、具体的であり、明確であり、又コンテキストの意味と矛盾しない。“
Djn jy bltn”の文では、現在時制の意味は、話の時点が現在として具体化されている。時制形式の“転義”用法の場合、動詞形態の意味とコンテキストの間に相違が起きる。例えば、“Ble z dxthf gj ekbwt=====”の文では、動詞の形態は現在形であるが、行為が過去に属すること表現している。時制形式の“転義”用法の場合、そのカテゴリ−の定義は失われない
(“ble”は現在形のままである)が、若干の性質の変化がある。コンテキストにより、時制形式の意味は、修辞的・比喩的に表現される。“Ble z dxthf gj ekbwt===”の文では、実際の現在の意味ではなく、あたかも話の時点で行為が行われているかの如く、過去の行為が修辞的に表現されている。現在形の用法
現在形の“直義”用法には主に二つのタイプがある。“現実”的用法(発話時点の具体的現在)と“非現実”的用法である。“現実”的用法では、行為が話の時点に属することを特徴としている:
Rf;tncz- ult_nj pdjyzn-−ujdjhbn Fyz(どこかで鐘がなっているようだ、とア−ニャは呟く)“非現実”的用法では、話の時点における行為は表現されない。
“現実”的用法(話しの時点における具体的現在)は、発話時点における行為を表現する。発話時点と行為の同時性は、コンテキストにより、例えば“
djn”、“djy”や、命令形(gjcvjnhbnt)により強調することができる:Djy rfvtyobrb vjcnzn ekbwe
(ほら、煉瓦職人が通りを舗装している);Gjcvjnhbnt- jy e; pfhz;ftn
(見てごらん、彼は既に弾丸を込めているところだ);発話時点の“具体的現在”の用法では、行為の過程を表現することのできる不完了体のみ用いる。発話時点における行為を表現する場合、不完了体は“具体的プロセス”の用法で用いられている。
“非現実”の用法の主なタイプは、“現在の不変行為”と“現在の抽象的行為”である。“現在の不変行為”とは、時間的制限のない各々の関係を確定するものである:
Vjuexbt gjkyjdjlyst htrb bp rhfz d rhfq gthtgjzcsdf.n ctdthye. ntvye. nfque
(勇壮で水量豊かな河が北の暗いタイガをくまなく取り囲んでいる);Lkz pfgbcb gfhnbq b gjkj;tybq ceotcndetn if[vfnyfz yjnfwbz
(チェスの試合と局面を記録する為に棋譜がある);
現在形で“不変の行為”を表現する場合、“不変の行為(関係)”が発話の時点において現実のことであっても、発話時点の行為過程は表現されない。不変(恒常的)関係を表現する場合、発話時点は特別には強調されない。
注:若干のコンテキストには中間的なタイプがあり、“非現実的”と“現実的”の特徴を兼ね備えているタイプがある:
:bde z nfv ;t- ult ;bk d ghjikjv ujle
.Flhtc vjq rhfnjr:u.Cevs(昨年住んでいたところと同じ場所に住んでいる。私の住所は短い:ス−ムイ市;“現在の抽象的行為”の用法では、発話時点と関係ない広義の意味での現在として表現される反復・慣習・典型的行為を表現する。この場合、不完了体は、“無限・反復”タイプの用法として用いられる:
Ltdeirb xfcnj gkfxen ,tcghbxbyyj(若い娘はよくわけもなく泣く);
Bccktljdfntkm lkz 'njq wtkb j,sxyj bcgjkmpetn cdjb cjlth;fntkmyj−bynebnbdyst ghtlcnfdktybz (研究者はこの為に通常、自己の豊かな直感的想像をはたからせるものである);
Dct- j xtv vtxnftim- ghb[jlbn bkb yt njulf- rjulf yflj- bkb yt d njv dblt- rfr [jxtncz(どんな夢を見ても、実現するのはそれが必要でない時か、或いは夢とは異なる形になって実現してしまう);
“現在の抽象的行為”の用法とは、ある期間に実行される具体的行為を抽象化することである。“広義の現在”には、各々の具体的行為は関係せず、無限の反復行為が関係する。
上記各々の現在形の用法全て、口語や、芸術文、政治・時事に関する文に見られる。“不変(恒常的)及び抽象的”現在形は、主に科学・技術文献や実用文、特に“不変・恒常的関係、法則的なもの、規則等に関して述べる場合、用いられている。“現実”的用法は主に、口語や芸術文に見られる。
以上記述した現在形の主な用法の他に、特別な目的及び範囲に限定した若干の用法がある。“不変(恒常的)及び抽象的”現在形と同様、これらも発話時点の行為とは直接関連せず、“非現実”的タイプの機能的用法である。この用法とは、“記述”及び“解説”の現在形のことである。
現在形の“描写(記述)”用法は、芸術的描写機能を特徴としている。即ち文学・芸術的記述や、詩的描写に用いられる。光景や場面が表現され、行為は著者の眼前に出現する。しかし、これらは発話時点と直接関係ないことである。この場合、“光景”は“直接の視覚”や知覚の外にあり、芸術的普遍化として、発話時点と分離し、この時点の属性から解き放される:
Gjnjr cuecnbkcz b necryttn- B ghzxtncz gjlndthlsv kmljv- B ufcytn wdtn- b pder ytvttn D jwtgtytymt ktlzyjv- −Kbim ;bpym ,tccvthnye. rk.xf Crjdfnm dctcbkmysq [kfl yt vj;tn:Jyf dct kmtncz−b- ;ehxf- Vjkxfymt vthndjt nhtdj;bn (くっきりとした流れはかすんで、固い氷の下に隠れ、色彩を失い、静寂となり、氷となって冬眠する。全能の極寒も不死の泉の生命だけは凍らせることはできない。それは絶えず流れ、さらさらと音をたて、死んだような静けさを乱している);
Cnj.
yf wfhcndtyyjv genb.Uke[fz yjxm- rheujv juyb- −Ytzcyj ntgkzncz jyb- F r enhe yflj dct yfqnb(皇帝の道に立っている。静かな夜、辺りにはぼんやりかすかに燃える火明かり、朝までに全て発見する必要がある)“解説”の現在形は、ト書きや、シナリオ、あらゆる付帯説明文に用いられる。発話時点ではなく、“解説”している状況の実現及び知覚時点と同時である行為が表現される。例えば、ト書きやシナリオの場合、現在形は“舞台(又は画面)”のある時点(期間)に関し同時に行われる行為を表現する:
:fy yf nthhfct c ,ertnjv
wdtnjd.Edbltd Ybye- ghzxtn ,ertn pf cgbyjq- bcxtpftnb d[jlbn e;t ,tp ,ertnf(ジャンは花束を持ってテラスに立っている。ニ−ナを見ると花束を背に隠し、テラスから姿をけし、今度は花束なしで部屋に入る);
Thujkbyf b Keytd cblzn hzljv
.Kjge[by j,jhfxbdftncz r ybv(エゴロニ−ナとル−ネフは並んで座っている。ロプ−ヒンは彼らに話しかける);ゲ−ムに関する解説では、ゲ−ム展開のある時点における同時性が表現される:Xthyst buhf.n ,tp gkfyf b ytpfvtnyj gjgflf.n d nhelyjt gjkj;tybt (黒駒は無計画に動き、いつの間にか窮地に陥っている);
“解説”の現在形と密接に関係しているのは、作品や文献内容を記述する場合の現在形の用法である
%−
Gjvybim ns ≪Vfyahtlf≫?−crfpfk njdfhbi=現在形の“転義”用法には次のタイプがある。これは、“歴史的現在”と“未来の行為を表現する現在”である。
“歴史的現在”の用法では、現在形は過去の出来事を形象的現実化する手段として、過去を記述する場合に用いられる:
Njkmrj- gjybvftim- ds[j;e jn vbhjdjuj- ukzlm
− kjiflrb vjb cnjzn cvbhyt nb[jymrj jrjkj Bdfyf Vb[fqkjdf;(いいですか、私がその世界から出たとたん、驚いたことに私の馬がイワン・ミハイロフのそばでおとなしく立っていたんですよ)“歴史的現在”の用法は過去の出来事の生きたかつ直接的なやり方として(行為があたかも話者の眼前で行われている如く描写される)、話し言葉や登場人物の直接話法に特有のものである。又“歴史的現在”の用法は、著者の語りや、歴史作品及び伝記の記述にも用いられる:
Vfndtq e[jlbn b- ytvyjuj gjujlz- ghbyjcbn yf gktxf[ uhjvflysq lthtdzyysq rheu(マトヴェイは立ち去ると暫くして、大きな木の輪を両肩にのせて運んできた);
Dtcyjq 1812 u= Tdutybz jnghfdkz.n d Gtnthvehu
.Pltcm- d xfcnyjv ytvtwrjv gfycbjyt- jy ujnjdbncz r dcnegbntkmysv 'rpfvtyfv(1812年の春、エヴゲニ−はペテルブルグに送り出された。当地のドイツ人経営の下宿で彼は入学試験の準備をしていた)文学作品において作者が語る場合、“歴史的現在”形は通常、話者(筆者)の前で起こるものとしての過去に関し隠喩的直接表現はしない。話者の語っている時点及び本人と、行為の時点が常にかつ直接関係している生きた口語における“歴史的現在”の用法とは異なり、文学作品における著者の語りに用いられる“歴史的現在”の用法には、このような関係は必ずしも重要ではない。話の中の出来事やそれを実施している人物と、話者(筆者)本人や発話時点とは直接関係ない。この“歴史的現在”の用法は、迫真の描写を行う叙述方法の一つである。
未来の行為を表現する為の現在形には、二つのタイプがある。第一のタイプは、予定されている行為の現在形である。この場合、現在形で表現される行為は、未来において実行されるが、行為を実施する予定や、準備態勢、決意並びに、行為が行われるであろうとする確信は、現在既に現れている。従って、コンテキストによる未来の意味と現在形の意味の相違は、未来と現在を結びつける叙法的ニュアンスにより弱められる:
Z ,eleotq pbvjq etp;f. pf uhfybwe(私は次の冬に外国に出かけるつもりである);
Vfrcbv- z nt,t pfdnhf gfhe pfrfpsdf.
(マクシム、私は明日お前に一組注文するよ);Pfdnhf- pyfxbn- ,thtn gjlhzl yf jxbcnre gjkz jn pfqwtd
(じゃあ、明日畑からウサギを追っ払う頼まれ仕事をやんるんだね);
この場合、主体の意志に関係する予定行為を表現しうる動詞が用いられる:
例:
blnb、t[fnm、e[jlbnm、etp;fnm、dsktnfnm、jnghfdkznmcz、djpdhfofnmcz、j,tlfnm、e;byfnm、pfdnhfrfnm、gbhjdfnm、regbnm、dcnhtxfnm、ghbcnegfnm、yfxbyfnm、pfrfpsdfnm、,hfnm、gjkexfnm、gjcskfnm;第二番目のタイプとは、想像行為の現在形のことである。話者は眼前で行われてものとして出現する未来の行為を描写する:
Djj,hfpbnt ;t- xnj ds dcnhtxftntcm c ytq gjnjv- xthtp ytcrjkmrj dhtvtyb- d dscitv j,otcndt+ dcnhtxftntcm ult_yb,elm
yf ,fkt==== Jyf nfywetn.Jrjkj dfc km.ncz egjbntkmyst pderb Inhfecf- csgktncz jcnhjevbt dscituj j,otcndf(後に、暫く経ってから上流社会で彼女と貴方が出会うことを想像したまえ。どこかの舞踏会で会ったとする。彼女は踊っている。貴方の回りにはシュトラウスのうっとりとした音楽が流れ、上流社会のしゃれた言葉が聞こえてくる);F gjnjv ,elen cevthrb- jcdtotyyfz wthrjdm- cetnf djpkt gfgthnb======= Gjlrfnsdf.n rfhtns- b otujkm_ghbcnfd ujhzxbncz- xnj,s cj[hfybnm gjhzljr d
'njq wthtvjybb (そしてたそがれになり、教会に明かりがつき、教会の階段のあたりが人々で騒々しくなる。馬車がやってくる。めかしこんだ守衛は、この儀式の秩序を保とうといきりたつことだろう);完了体動詞の過去形の“直義”用法には二つのタイプがある。これは、“完了(ペルフェクト)過去”と“不定(アオリスト)過去”である。
“完了過去”の用法は、体のカテゴリ−の項目で既に触れている。この場合、行為は過去に属しその結果は現在と関係している:
Fktif- ns jpz,- ns d cytue ,sk- [jxtim xf.
?(アリョシャ、お前寒さで凍えている。お前雪の中にいたんだ。お茶をのむか);“完了過去”用法の特別なタイプは、過去の行為の結果が現在に関係なく、過去即ち、叙述している話しの出来事の実行時点に関係する:
Njkmrj b ;bkf ,tlyfz gfvznm. j vbkjv cthlwe===== B cnfzkf dcz
(ただ慈悲について微かに記憶がにあった。...が全て消え去ってしまった)“完了過去”用法のこのタイプは、基本タイプと共通点がある。ここでは、ずっと後の時間において、行為の結果の現実性が表現される。
“不定過去”用法の場合、完了体動詞の過去形は、過去の行為の実際の結果に関係なく、過去の事実を表現する:
Dj Dkflbdjcnjr z ghbt[fk d yfxfkt b.kz 1943 ujlf
(ウラジオストックに1943年の7月始めに到着した)“不定過去”用法は、相互に代替しうる事実に関して述べる場合に通常用いられる:
Gfhfvjy egthcz yjujq d gktntym- lthyek bp gktnyz njyre. cktue- ceyek d jryj b rbyek
(パラモンは籬(まがき)に片足をのせ、籬から細い棒を引き抜く、窓の中に差し入れ放り込んだ);完了体動詞の過去形は、“転義”用法としても使える。この用法の主なタイプを以下に記述する。
1)未来の行為を表現する場合の完了体動詞過去形:
この場合、コンテキストは未来を意味しているが、時制は過去形である。従って、客観的に未来の行為が、あたかも既に実施されたように表現される。特によくこの用法に用いられるのが、動詞“
gjub,yenm、ghjgfcnm”である:Tckb jy yt dthytncz- vs gjub,kb
(vs ghjgfkb)(もし彼が帰って来なければ、我々は死んでいるだろう)稀ではあるが、その他の動詞も用いられる:
<t;fnm- ,t;fnm! Byfxt z evth(逃げろ逃げろ、さもないと私は死ぬだろう)
このような場合、行為の実行に関する話者の確信のニュアンスが表現される。この用法に属するのものとして、情緒的表現をする文型がある:
Nfr z b gjdthbk ?
(私が信じるわけないだろう);Rfr ;t- bcgeufkcz z @
(どうして、私が驚くのだ!)未来における事実の否定は、反語的(懐疑的)行為は既に実行されたものとし、に情緒的に表現される。
会話(口語)には次の用法がある:
Z gjitk
(私は出かけますよ);Vs gj,t;fkb(我々は走ってゆきますよ);
2)“抽象的現在”のコンテキストにおける完了体動詞過去形:
完了体動詞の過去形は、習慣的(慣習的)行為をはっきりと具体化する為に用いられる。一つ事実があたかも既に実行されたように表現される。しかし、コンテキストの意味ではその事実が習慣的(慣習的)であり、又その習慣性(慣習性)は広く現在に存在する場合に用いられる:
Nfrfz gnbxrf===== gjybvftim- xnj xtkjdtr tt k.,bn= Tckb yfgfk yf tt rjhiey- nj jyf relf- levftim- ,hjcftncz* Kb,j d ctzkre- kb,j ghzjvj pf gfpe[e- gjl dfnybr
(そのような小鳥..人が好んでいることを理解したらどうだ。もしトビが襲いかかったら、その小鳥どこへ逃げていけるんだ、考えてみろ。種まき機に逃げ込むか、或いは上着の懐の中にに逃げ込むかだ);<sdftntlm nfr% et[fk xtkjdtr- rjnjhjuj ,jzkbcm- jy e;t yt e dkfcnb- b nen_nj yfxbyftncz- yf eirj% ^Ds pyftnt=======& (皆から恐れられていた者が去る。彼にはもう権力はない。すると、「おまえさん、知っているかい」とどこでささやきが始まることは、よくあることだ)
不完了体動詞の用法タイプにより、過去形は“直義用法”において下記に関する過去の行為を表現することができる:
a)行為のプロセス
b)行為の無限の反復性
c)行為の継続
d)一般的事実としての行為
ここでは通常、過去の範囲に入り、現在と関係ない行為が表現される。
a)
Cthutq ujdjhbk- f Dctdjkjlf Fylhttdbxf pfybvfkb yt njkmrj tuj ckjdf- yj b kbwj(セルゲイは喋っていたが、フセヴォロド・アンドレ−ビッチには彼の話だけではなく、彼の顔にも興味があった)
b)
R gjkeyjxb rjvyfnf dscnsdfkf= Jy ,tcievyj jnrhsdfk ;tktpye. ldthwe gtxb- crkflsdfk rjcnthbrjv c dtxthf ghbujnjdktyyst lhjdf b rjcnthbrjv c dtxthf ghbujnjdktyyst lhjdf b otgrb b- cblyf rjhnjxrf[- gjl;bufk b[(夜半頃、部屋は冷え切っていた。彼は音を立てずに暖炉の鉄の扉を開け、夕方から用意してあった薪や木っ端を積み上げ、しゃがんだ格好でそれに火をつけるのであった)
c)
Ktcf- xnj rhj.n gtcxfyjt Pfdjk;mt- ght;lt cgkjoysv rhz;tv vt;le htrfvb Ey;tq b Dznrjq nzyekbcm lfktrj yf ctdth=(砂のザヴォ−ルジェをおおっている森林は、嘗てはウンジャ河とヴァトカ河に挟まれた連なる山々であり、遠く北に向かったのびていた)
d)
Yf nhtnm. gjckt djqys pbve====== ns ,hfk e ytq rjhjde yf pbvybq ghjrjhv= <hfk*(終戦三年後の冬、お前は彼女の雌牛を冬の食料として盗んだ。盗んだな?)この法則からの稀な例外としては、次の文型の“過去完了時制”の用法がある:
Jy dbltk vyjujt- j,hfpjdfy=不完了体動詞の過去形には、完了体動詞の過去形と異なり、通常“転義”用法はない。きわめて稀な例外として存在するだけである。この場合の“転義”用法としては、次のタイプがある。否定の形をとって、過去の行為の実際の結果(この場合、行為は行われない)を表現するが、コンテキストの意味では“抽象的現在”に属する:
Vbkkbjyjd crjkmrj ,f,- dfc lf ltdjr- f dct- rfr pdthb ktcyst= Rfr dshjckf- nfr b gjvhtn= Ybxtuj yt dblfkf- ybxtuj yt cks[fkf(様々な多くの婦人や、 娘がいるが、全て森の生き物とおなじ。成長し、死をむかえる。なにも見ないで、何も聞かないで);
“反復行為”の不完了体動詞過去形は、過去形用法の大きな特徴である。通常下記の動詞は、過去形で用いられる:
ufobdfk- ujdfhbdfk- tlfk- ;bdfk- gtdfk- cb;bdfk- [f;bdfk- [dfhsdfk=
この主な特徴は、現在と遠くかけ離れた過去における行為の反復や慣習(習慣)を表現することにある:
Nfr b hdtncz- nfr b yfcrfrbdftn yf ytuj Frcbymz Pf[fhjdyf===== F rjulf_nj nfr k.,jdyj jyf djlbkfcm c Vbrtitymrjq- rjulf_nj gtdfkf tve rjks,tkmyst gtctyrb(アクシ−ニャ・ザハロヴナはとめどもなく怒り、しきりに彼にくってかかった。だが嘗ては彼女はやさしくミケシェンカの世話をし、子守歌をうたってやったことがあった)
現代ロシア語ではこのような用法はあまり用いられていない。芸術文において、文体を整える場合に用いられている。
未来形の用法
単一未来形は通常、未来における一つの具体的行為を表現する(完了体の“具体的事実”の用法):
Ctqxfc [jpzqy ghbltn- e;byfnm ,eltv
(今主人が来ます。一緒に食事をしましょう)二人称の単数及び複数形は、補足的に当為のニュアンスを表現する:
Ns ctqxfc ;t- ytvtlktyyj gjpdjybim gj ntktajye jnwe
(おまえ、今すぐお父さんに電話しなさい)きわめて稀だが、未来を表現する場合にも、反復性のある習慣的行為が表現される(完了体の“実物・実例”の用法):
Ukfdyjt ltkj- cnjqnt ct,t egjhyj yf cdjtv==== Gjkj;bv- rf;lsq ltym dfv ghbltncz dsckeibdfnm jnwf bkb vfnm xfcf nhb=
(問題はしっかり自己主張することだ...おそらく貴方は毎日、父や母の話を三時間ぐらい聞かざるえないのだろう)
単一未来形固有の“非現実的現在”の付随的意味は、主に“抽象的現在”として表現される(完了体の“実物・実例”の用法):
Tckb celm,f j,heibncz hfp yf rjuj ,tlj.- nj elfhfv tt b rjywf yt ,sdftn
(誰でも一度不幸の運命に遭えば、その打撃には終わりない)
“抽象的現在”での単一未来の一般的使用条件は、相互に関係する二つ以上の行為があることである。ここに、この用法の文法的制限がある。“抽象的現在”の形は、叙法的ニュアンス、例えば可能性や不可能のニュアンスを伴うことがある:
Ghfdj- gjpfdbletim byjulf xbyjdybrfv
(本当に、時には官吏が羨ましいことがある);
Xnj njkmrj yt dcgjvybn xtkjdtr- ghj;bdibq gjkdtrf@
(半世紀も生きてきた人間に思い出さないことがあろうか)この用例は、上記の文法的制限に関係ない。
否定の場合、単一未来形により発話時点における行為の実行不能を表現することができる:
Ds[jlb gjcrjhtt===== ! Ctqxfc===== Rhskfnrb ybrfr yt yfqle (さっさと出てきて..「いま、...襟巻きマントがどうしも見つからない」);
Z ctqxfc yt vjue dcgjvybnm- rfr gtht;bdfkb jktgbycrbt ;bntkb cfvsq gthdsq edbltyysq bvb abkmv- rfr yt dcgjvy.- j xtv ,sk 'njn abkmv=
(アレピンの住民が初めて見た映画をどのように体験したのか、私は今思い出すことができないし、どうしてもこの映画の中身を思い出せない)これは、“現実的現在”の用法でない。発話時点に関係するのは、行為実行不能の意味だけであり、行為の経過は関係していない。この場合、コンテキストの意味からすると程度の差はあるにしても、叙法的ニュアンスは発話時点だけに限らず、より広義の意味で“不定の現在”にも関係している。従ってこのような場合は、“非現実的現在”の用法の一つといえる(又これは、“潜在的現在”の用法とも呼ばれる)
コンテキストが行為の時間的枠を過去と限定する場合、単一未来形は、“転義”用法である:
Ltytu lf;t lfdfk- rjulf gjl gmzye. here ghbtltn=
(酔っぱらって来たときでさえ、金をやったものだ)これは、過去時制のコンテキストで表現される“非現実的現在”の用法である。
単一未来の“転義”用法の特殊タイプとして、単一行為(非反復行為)を表現する際、過去又は“歴史的現在”の意味で、助詞“
rfr”を使用しているタイプがある。これは主に口語に見られるもので“突然の行為”の発生を表現する。Cnj.- ckeif. ! b dlheu xnj_nj rfr gjks[ytn xthtp dct yt,j= Ukz;e!vtntjh= xthtp dct yt,j= Ukz;e!vtntjh= (立って聞いていると、突然空全体が光った。見ると流星であった)
動詞“
,snm”の単一未来形は、現在の意味で、“転義”の用法として用いられる。この用法に二つのタイプがある。一つは口語・俗語的用法で、疑問文で用いられる:
! Ds rnj ,eltnt (あなたは何ものですか);
! Jyf cfvf_nj rn,eltn* ! Ldjhybxb[f(彼女自身はいったい何ものなんですか。屋敷番の妻です)
コンテキストは“不変の現在”の意味であり、単一未来形には未だ確認されていない事実のニュアンスがある。
第二タイプは、大凡の数量を表現するもので、“
,eltn”の形で用いる:Crjkmrj ujcgjlbye Vjirbye ktn* Ktn gznmltcznm- z levf.- ,eltn
!
Fuf- cfvrf- fyujhcrfz= Gjukzlb- rfrfz jyf ;bhyfz- gjkgel,eltn正確の数量がはっきりしないこのような場合、数量は未来に確定されるように表現する。この場合、状況全体が現在に属するとするコンテキストの意味は失われない。
合成未来形は通常、“直義”用法で用いられる。しかし、この形式にも“転義”用法がある。
a)仮定のニュアンスの表現:
Z- yfghbvth- d ljhjut cgfnm yt vjue- ! [jnm e,tqnt- f yt pfcye====== Z jlye- lheue.- nhtnm. yjxm yt ,ele cgfnm- f dct_nfrb yt pfcye
(例えば私は旅の 途中で眠ることはできない。どうしても寝入ることはない。一晩でも、二晩でも三晩も眠らなないでも、それでも寝 入ることはないだろう);Hfpdt ; jlby j[jnybr- lf tot c jlyjcndjkmrjq- vj;tn e,bnm vfnthe. djkxbwe* Ytn= Vtczw ,eltn [jlbnm- f yt e,mtn=(はたして一人の狩人と単身銃で百戦錬磨の雌狼を撃ち殺すことができるだろうか。できっこない。一ヶ月歩いても、殺すことはできないだろう)
この場合、仮定の話が表現されている。即ち、行為がさらに継続されようとも、その目的は達成されないのである。
b)主体の不変の行為の表現:
Regws yfib ! xbcnst dfhdfhs===== Gthdsv ltkjv tve ye;yj uybkjq njdfh ghjlfnm- nhb ujlf ,eltn dhfnm- ,j;bnmcz- gkfrfnm ! gjlcjdsdfnm uybkjt- gjrelf b cdt;tt e ytuj yt cuybtn=
(我が国の商人はまったくの野蛮人だ...先ず商人は腐った品物を売る必要があり、新鮮な物も腐るまでは、腐った物をつかませておいても、三年間は騙し続け、神にかけて誓うと言い、そして嘆き悲しむ);Wtksq ltym vfhf,e ,eltn lt;ehbnm e ,jqyb- xnj,s gjkexbnm recjr vzcf= Gjtlftn b jn,hjcs e [b;by
(コウノトリは、肉片をとろうと一日中屠殺場からはなれない。バラックのゴミだって食べる)この場合、叙法的ニュアンスは時間の長さを表現する言葉で強調される:
,bnsq xfc(まるまる一時間)、nhb ujlf(三カ年間)、wtksq ltym(一 日中)
c)“習慣的(慣習的)”、“典型的”行為が必ず実施されるべき(又はし て
はいけない)ことに関する“確信”のニュアンスを表現する場合:D kbnthfneht- rfr b d ;bpyb- ye;yj gjvybnm jlyj ghfdbkj- xnj xtkjdtr ,eltn nsczxe hfp hfcrfbdfnmcz d njv- xnj ujdjhbk vyjuj- yj ybrjulf- xnj vfkj= (文学においては、日常生活と同様、人は饒舌に関しては幾度も後悔するが、語り足りなかったことに関してはけっして後悔しないという、一つの法則を覚えておく必要がある);
Dthyedibcm bp lfktrjuj gentotcndbz- j,zpfntkmyj ,eltn [dfcnfnmcz- hfccrfpsdfnm lbrjdbyyst dtob
(長旅から帰ると、きまって自慢話をし、珍しい話をする ものだ)この場合、常に起こること、必ず未来に生ずることが強調されている。
2)若干のケ−スでは、合成未来形は過去に行われた“習慣的(慣習的)”行為を表現する文において用いられる:
J, fhbavtnbrt b gjvbye yt ,skj% dhzl kb b cxbnfnm_nj evtk- yj pfnj kf_ rjvbnmcz- ahfynbnm ! vfcnth@ Wtkjt enhj ,eltn cbltnm b yt gjitdtkbnmcz- njkmrj pfdtq tve djkjcs
(数学はまったくやらなかった。勘定することもできなかったのだろう。だがそのかわりに、うまい物を食べたり、めかし込んだりする名人だった。朝はずっとすわったままで、微動たりともしない。髪でも触ったらたいへんだ);D ctkt yfxfkfcm rjhjnrfz- yj 'ythubxyfz gjhf===== Yfpsdfkfcm jyf yfdjpyjq= Njulf yt ,eltim hfpkbxfnm- jnrelf yfyjcbn wdtnfvb- f jnrelf yfyjcbn gfctrjq- njulf dct pfukeibn b jljkttn b jlby ,eltn ujcgjlcndjdfnm wtke. ytltk. byjq gj cbkt b rhtgjcnb- byjq gj cfvjq jrhfcrt cdjtq ytgthtlfdftvsq
b rhtgjcnb- byjq gj cfvjq jrhfcrt cdjtq ytgthtlfdftvsq fhjv(村では短いが活気に満ちた季節が始まった。堆肥の 季節とよんでいる。花のもたらすものも、林のもたらすものも、区別できない。全てをかき消し、凌駕する。ある言い表しがたい芳香が強く濃く、或いはその独特の彩りをもって、まる一週間支配した)
この用法は、項目1)の“抽象的現在”の用法と似ている。
従って、文法的計算時点から見た同時性(現在)、先行(過去)、到来(未来)とは、言語形態学における時制形式固有の文法的定義のことなのである。時制形式が機能すると、この定義は拡大され、具体化し、又変化する。これは、時制とコンテキストや、その他の条件、例えば動詞の体との相互関係により決定される。文法的計算時点との関係に基づく時制の定義と、話の状況や外的発話(外部言語形式)時点、その他の現実的時点とは相関関係にある。この場合重要な位置を占めるのが、話者の観点や、客観的に発生した現実的時間にたいする話者の定義や評価である。
人称のカテゴリ−
人称のカテゴリ−とは、行為が話者に属するものか、そうでないものかを表現する一連の形式体系のことである。各々の人称形式は、行為と話者(一人称)、対話者(二人称)又は、話者でも、対話者でもない者並びに、不活動体(三人称)との関係を表現する。話の参加者と行為の関係を表現する一人称及び二人称と、この関係を表現しない三人称は対置している。三人称形のこの特性は、人も物にも関係しない行為を表現できる三人称の能力と結びつくものである。
人称のカテゴリ−は動詞の各々のカテゴリ−(法、時制、数)と密接の関係にある。直説法では、現在及び未来(単一、合成)に関する形式表現は人称形と関係している。一人称、二人称又は三人称の意味を表現するものは、単数又は複数の意味を同時にもっている変化語尾である。命令形は、直説法の人称形の体系と構成上異なる人称形の体系により表現される。仮定法や直説法過去形では、人称形は用いられず、この場合、人称形ではなく、性(単数の場合)の相違が表現される。
動詞の人称形は、人称代名詞と意味上相関関係にある:
単数:z、ns、jy(jyf、jyj)
複数:vs、ds、jyb
代名詞を使用するか、しないかは、コンテキストや話しの状況に多く左右される。人称形は、次の動詞形を基本としている:
直接法の場合:
1)単数・複数一人称形:
,the- ujdjh.- ghble+ ,the- ujdjh.- ghble+ ,thtv- ujdjhbv- ghbltv2)単数・複数二人称形:
,thtim- ujdjhbim- ghbltim+ ,thtim- ujdjhbim- ghbltim+ ,thtnt- ujdjhbnt- ghbltnt3)単数・複数三人称形:
,thtn- ujdjhbn- ghbltn+ ,thtn- ujdjhbn- ghbltn+ ,then- ujdjhzn- ghblen
命令形の場合:
1)二人称形(単数・複数):
,thb- ujdjhb- ghblb+ ,thb- ujdjhb- ghblb+ ,thbnt- ujdjhbnt- ghblb2)“共同行為”の形式:
djpmvtv(nt)- ,eltv(nt) ujdjhbnm- lfdfq(nt) ujdjhbnm人称形
各人称形は各々個別の形成方法により形成される。この形成方法は次の通りである。
1)直説法現在及び未来の人称・数による語尾変化形並びに命令法単数二人称形
2)命令法において複数を表現する接尾辞“
_nt”3)助詞“
lfdfq(nt)”(命令法における、“共同行為”の合成形)(助詞“
gecnm、gecrfq”に関しては他の章参照)
現在及び単一未来の人称形は、“人称”及び“数”の意味を同時に表現する変化語尾を現在形の語幹に結合して形成される(正書法):
一人称単数形:
_e、_.;複数形:_/v、_tv、_bv;二人称単数形:
_/im、_tim、_bim;複数形:_/nt、_tnt、_bnt三人称単数形:
_/n、_tn、_bn;複数形:_en、_.n、_fn、_zn
一人称単数形以外の語尾変化は、動詞の語尾変化式により決定される。
変化語尾“
_/im- _tim+ _/im- _tim+ _/n- _tn+ _/v- _tv+ _/nt- nt- _en- _.n”は、動詞の第一変化式に属する。変化語尾“_bim- _bn- _bv- _bnt- _zn”は、動詞の第二変化式に属する。 合成未来形の変化語尾の場合、人称・数の形は、助動詞“,snm”の語幹に結合される:,el_e- ,el_tim- ,el_tn- ,el_tv- ,el_tnt- ,el_en xbnfnm- ujdjhbnm=若干の動詞では、人称形の語尾変化の異なるものがある。これに属する動詞としては、例えば、“[jntnm- ,t;fnm- xnbnm”があり、部分的に第一変化であり、又部分的に第二変化でもある。動詞“tcnm- lfnm- cjplfnm- yfljtcnm- elfnmcz”の場合、変化語尾“_v(一人称)、_im(二人称)、_cn(三人称)”により、単数人称形が形成される:t_v- t_im- t_cn+ lf_v- lf_im- lf_cn
動詞“
tcnm- yfljtcnm- lfnm- cjplfnm- elfnmcz”の場合、単数形の形成に母音語幹の参加を特徴としている。
人称形はあらゆる動詞から形成することができる。しかし、ここには一定の制限がある。各々の人称形の形成及び活用を制限するものとしては、第一に単数又は複数一人称及び二人称形の意味と相容れない語意がある。第二番目としては、不調和音がある。第三番目としては、同音異義語がある。
動詞の語意は、行為の実行者としての一人称及び二人称の意味と一致しないことがある。
例:
ntkbnmcz- ytcnbcm ntkbnmcz- ytcnbcm (j gnbwf[)- ptktytnm- jcsgfnmcz- ntxnfznm-rbgtnm- crdjpbnm- ufcyenm- vthxfnm- h;fdtnm+ - vthxfnm- h;fdtnm
これは、動詞が転義(隠喩的表現)の性格のある場合や、
Z njvk.cm- z evbhf.- Ufcye gkfvtyyjq leijq
ジョ−クやアイロニ−を表現する文の場合、
! X 'nj e dfc zqwf yfgjkjdbye ,bnst* 'nj e dfc zqwf yfgjkjdbye ,bnst* ! Gjxtv z f.@ ! dtctkj jnjpdfkfcm ghjlfdobwf= ! Z dtlm cfvf yt ytcecm@ jnjpdfkfcm ghjlfdobwf= ! Z dtlm cfvf yt ytcecm(どうしておまえさんのところの卵は半分割れているんだね。「何故だか、知らないわよ。だってあたいが産むわけじゃあないから」と売子は明るく反応した)
人称形の形成及び使用にたいし制限をあたえるものがある。
一時的意味に限り、無人称動詞の人称形を使用することができる:
Dlheu ! z
Dlheu ! z | dj dc. cdtnf. vjxm ! b cyjdf ltym nhtpdjybncz“単独行為者”の意味と語意が相容れない動詞の場合、単数一人称・二人称形は用いられない:
njkgbnmcz- cgjkpnbcm- gthtgflfnm- gthtvthpyenm- yf,t;fnm- gjgflfnm- gjvthpyenm
不調和音や発音困難により制限されるものは、主に語幹に、
|n|- |l|- |c|- |p|のある動詞である:;tknbnm- ufkltnm- udjplbnm- gj,tlbnm- e,tlbnm(cz)- itktcntnm- itktcntnm- rjktcbnm- uhtpbnmこのような動詞から、単数一人称形は事実上形成されない。又動詞“pfnvbnm- cnjyfnm”の一人称形も用いられない。
動詞“,jktnm”(痛みを覚える)の単数・複数一人称及び二人称形は、特殊の場合に限り用いることができる。
命令法の人称形は、単数・複数の人称形と“共同行為”の形式である。単数・複数二人称形は“単独(綜合)”形式である:
cvjnhb- ujdjhb- rhbxb- gtrb- rbym- ceym- ,hjcm- cnfdm+
cvjnhb- ujdjhb- rhbxb- gtrb- rbym- ceym- ,hjcm- cnfdm,cvjnhbnt- ujdjhbnt- rhbxbnt- gtrbnt- rbymnt-ymnt- ,hjcmnt- cnfdmnt+ cvjnhbnt- ujdjhbnt- rhbxbnt- gtrbnt- rbymnt-ymnt- ,hjcmnt- cnfdmnt共同行為の命令形には単独形式(
regbv-gjxbnftv- csuhftv+ bltv- ,t;bv- ktnbv)と合成形式(lfdfq(nt) lfdfq(nt) regbv- lfdfq(nt) buhfnm- lfdfq (nt) ,ektv buhf)がある。人称形のカテゴリ−と用法
直説法の人称形の定義:
単数一人称の場合、行為は話者に属する:(z) ujdjh.- [j;e- execm- xbnf.+
複数一人称の場合、行為は話者を含めたグル−プに属する:
(vs) ujdjhbv- [jlbv-
(vs) ujdjhbv- [jlbv- exbvcz- xbnft
単数二人称の場合、行為は対話者に属する:
(ns) ujdjhbim- [jlbim- exbimcm- xbnftim+
複数二人称の場合、行為は対話者を含めたグル−プに属する:
(ds) ujdjhbnt- [jlbnt- exbntcm- xbnftnt+
(ds) ujdjhbnt- [jlbnt- exbntcm- xbnftnt
単数三人称の場合、行為は話者でも、対話者でもない者に属する:
(jy) ujdjhbn- [jlbn- exbncz- xbnftn+ exbncz- xbnftn+ (jy- jyf- jyj) rbgbn- ,ehkb
ptktyttn- h;fdttn+
ptktyttn- h;fdttn複数三人称の場合、行為は対話者を含まないグル−プ又は不活動体グル−プに属する:
(jyb) ujdjhzn- [jlzn- exfncz- xbnf.n+ (jyb) ujdjhzn- [jlzn- exfncz- xbnf.n+ (jyb) rbgzn- ,ehkzn- ptktyt.n- h;fdt.nカテゴリ−の定義の他に、直説法の人称形には一定の文に限る一連の用法がある。拡大・転義用法は、単数・複数全ての人称形に見られる。
単数一人称形は、拡大用法において、諺、名言、格言に用いられる。行為の主体は、普遍化したものとして表現されるが、行為が話者に属する意味は失われない:
Tle_tle yt cdboe- f yftle ! yt cgeoe+
Xe;e. ,tle ! herfvb hfptle+
Z vsck.- cktljdfntkmyj- ceotcnde.+
複数一人称形は、拡大用法において、話者を含め、又対話者を除外しないで、行為が多数の者と関係する文で用いられる:
Gj;bdtv ! edblbv
(いまに分かるさ);Xnj bvttv ! yt [hfybv- gjnthzdib ! gkfxtv+
複数一人称形の用法は、代名詞“
vs”の用法と密接に関係している。複数一人称形は、論文において話者(筆者自身)を指す:Vs ghblth;bdftvcz
lheujq njxrb phtybz(筆者自身は他の見解を支持する);”
njn djghjc vs hfccvfnhbdftv d lheujq cdjtq cnfnmt(この問題は、筆者の他の論文で考究している)この“筆者”の用法と区別する必要があるのは、話者とその話し相手が何らかの行為に共同参加することを表現する一人称複数形の用法、即ち報告や講義、教科書において、話者があたかも聴取者を考察や思考の発展に参加させるような用法である:
Ntgthm hfccvjnhbv (c dfvb) crjhjcnm ldb;tybz
J,hfnbv
dybvfybt yf cktle.obt cj,snbz(次の出来事に注意しましょう);Djpmvtv
hfdyj,tlhtyysq nhteujkmybr(二等辺三角形を取り上げてみましょう);Ghjdtltv
djj,hf;ftve. kbyb.(虚線を引いてみましょう)
複数一人称形のこのような用法は、通常芸術文や評論文にもみられる:
Djn jyf- yfif Ukfdyfz Gkjoflm===== Jnc.lf vs yfxytv gentitcndbt gj cnhfyt
(ほら、それが中央広場です.ここから国内の旅を始めましょう)
注:話者と対話者(又はグル−プ)が行為に共同参加する意味は、助詞“
lfdfq(nt)”を用いた“共同行為”の表現方法でよく表現されている:lfdfqnt ghtlcnfdbv- lfdfqnt hfccelbv:複数一人称形は、話者が参加しないで、それ以外の者又はグル−プの行為を表現する場合に用いられる。あたかも行為に話者が参加しているかのように表現される(寛大、同情、アイロニ
-):F xnj vs xbnftv- ltnjxrf- xtv pfybvftvcz*
(ぼうや、何を読んでいるの、何をやっているの);
F vs dct [fylhbv @
(やはり、気分がすぐれないようだね)(医師が患者に向かって);Jnkbxyj= Vs- rf;tncz- eks,ftvcz@ <elmnt lj,hs- cj,kfujdjkbnt tot hfp eks,yenmcz@
(素晴らしい。 笑っているようですな! おそれいるが、もう一度笑ってみてください)
単数二人称形は普遍人称文において用いられる:
:bnm b cujhfnm e dct[ d j,sxft- Yj ;bpym njulf kbom j,tccvthnbim- Rjulf tq r cdtne b dtkbxb. Cdjt. ;thndjq genm ghjxthnbim=
(生き、そして死するのが万物のならわしである。だが自己犠牲をもって光明と尊厳を得れば、人生は不滅のものである);Vfkj kb xtuj yt ,sdftn d ;bpyb @ Hfpdt dct pfgjvybim- xnj ckexbkjcm c nj,jq ujlf yfpfl @
(人生ではたいしたことは起こらない。一年前に起きたことでさえ、はたして覚えているだろうか);Xnj gjcttim- nj gj;ytim
(自業自得);
完了体単数二人称形を用いての普遍人称文には、明確に否定して、可能・不可能・必然のニュアンスをしばしば伴う:
Ce;tyjuj rjytv yt j,]tltim+
Egecnbim jujym ! yt gjneibim+
Rnj eitk- njn eitk ! yt dthytim+
Dtlm tckb ltdxjyrf yfxtn ,jknfnm- tt yt eqvtim+
普遍人称文における二人称形は、コンテキストによっては話者自身を表現する場合もある:
Dtxyj nt,z ;ltim@ Yfghjnbd- z dfc ;le
:bkf z hfljcnyj- gj_ltncrb- ghjcytimcz enhjv b pfgjtim+
(幼年時代は楽しい生活でした。朝目を覚まし、そして歌をうたったものだわ)
普遍人称文において代名詞“
ns”を用いることができる:Lkz nt,z yf[jlbncz eujkjr e jrjirf- b ns dblbim cyfxfkf djle- ptktye. d ,tks[ bcrjhrf[- gjnjv jlbyjrbt ytanzyst dsirb- f gjnjv e;t dct 'nj= Ns ghjcbim ktnxbrf cltkfnm rheu- xnj,s gjkexit hfpukzltnm b pfgjvybnm+
rheu- xnj,s gjkexit hfpukzltnm b pfgjvybnm(窓辺にコ−ナがある。最初に白い斑点模様の中の緑色の水が目に入る。その後、幾つもの 同じ石油採掘塔が見える。それでお終いだ。もっとよく見え、心に残るように操縦士に旋回するように頼み込んだらいい)Lf b djj,ot ybxtuj yt pf,sdftncz- yt ghj[jlbn ,tccktlyj= Rfrbt_nj rktnrb evbhf.n d nt,t- b[ e;t yt djccnfyjdbim- ns yjcbim d ct,t 'nb vthndst rktnrb= (だが全く忘れ去られることはなく、痕跡もなく終わることはない。ある細胞は死に、それは復活しないが、人はこの死んだ細胞を内部にはらんでいるものだ)
拡大、普遍人称文にたいし、三人称単数の無人称文と三人称複数の不定人称文がある。
複数二人称形は、一人の者にたいする敬語表現の場合に用いられる:
Bdfy Bdfyjdbx- ds pyftnt 'ne hf,jne*
Njdfhbo- yt cvj;tnt kb ds gjlj;lfnm ytcrjkmrj vbyen
;複数二人称形は、単数二人称形と同様、普遍人称文においても用いられる。この場合、単数二人称形との相違は、複数二人称形では行為が対話者に属している意味があることである:
E vtyz yf [enjht gznyflwfnm ltcznby keuf rfr yf kfljyb% e rfrjuj jryf yb cnfymnt- jnjdc.le edblbnt rjcfhtq
(うちの農場は15デシャチ−ナの広さで、手に取るようによく見える。どこの窓からも、刈り取り作業をしている農夫をみることができるはずだ);J,dtlbnt dpukzljv cnhjtybz ! b ds gjxedcndetnt% rfvyb dct gjvyzn
(一目構造を見れば、貴方は全ての石に見覚えがあると感ずるはずだ);二人称複数形(通常不完了体動詞)を用いる普遍人称文の場合、一人称にも行為が関係することもある:
”nj ,skf bvtyyj nf rhfcjnf- cjpthwfybt rjnjhjq- ,ju dtcnm jnrelf- dctkztn d dfc edthtyyjcnm- xnj ds dblbnt xthns ghfdbkmyst= (これはまさに美そのものであり、それを観照すると、どこからともなく、端正なものをみているような確信を抱く)単数三人称形は、一人称形や二人称形に対置するもので、行為は任意の主体に属する(不活動体も含む)が、話者や対話者は関係ない。又単数三人称形は、無主体の行為を表現することもできる。即ち、活動体(人物や物体)と無関係な行為を表現するすることができる:
cdtnftn
(夜が明ける)- cvthrftncz(日が暮れる)- pyj,bn(悪寒がする) ytpljhjdbncz(気分がすぐれない);
単数三人称形のこのような用法は無人称用法と呼ばれ、語意が行為の実行者と相容れない動詞が主に用いられる。次に無人称動詞の実例を下記にかかげる:
1)接尾辞“
_cz”のない動詞:a)自然の状態を表現する動詞:
dtxthttn
(夕方である)- dspdtplbn(空が星におおわれる)- vjhjpbn(すごく寒い)- hfccdtnftn(夜があける)- cdtnftn(夜明けと共に明るくなる)- [jkjlftn(寒い);b)生き物の物理的又は精神的状態を表現する動詞:
pyj,bn(悪寒がする)- gthibn(いがらっぽい(喉が))-hdtn(むかつく、吐き気がする、嘔吐させる)-cflybn(ひりひりする、痛がゆい)- njiybn(吐き気がする、胸がむかつく)- gjktuxftn(気が軽くなる、痛みが軽くなる)-hfpytctn(膨らます、腫らす、太らせる)- dtptn(運がよい、ついている)- dpjhdtn(かっとなる、激怒する)- nzytn- gjlvsdftn(〜をしたい気持ちに駆り立てる)-ghbcgbxbn(〜をする必要に迫られる)- eujhfplbn(〜をする気にさせる);
c)有無又は不足を表現する動詞:
[dfnbn- [dfnftn- cnfytn- ljcnfytn
(十分である、足りる)- ytljcnftn(足りない、不十分である);d) 当為を表現する動詞:
cktletn- yflkt;bn- gjlj,ftn
(〜にふさわしい、似つかわしい);
2)接尾辞“
_cz”の付いた動詞:a)希望、可能性を表現する動詞:
dplevftncz
(〜をしたくなる、したい気分になる)- ljdtltncz(〜をする機会がある)- ghbdtltncz(〜をすることのなる:ghbqnbcm- ckexbnmcz)- [jxtncz+ - [jxtnczb)主体の状態を表現する動詞(通常生き物):
(yt) dthbncz(信じられるられない)- lhtvktncz(眠くなる、うとうとする)-levftncz(〜と思われる、〜のような気がする)- lsibncz(息をする、息ができる)- ;bdtncz(〜という生活状態だ、暮らせる) (yt) kt;bncz(寝ていたい、寝ていられる)- ytpljhjdbncz(体の具合があるい、気分がわるい)- ytvyj;tncz(気分がわるい)- gkfxtncz(嘆く、泣ける)- yt cblbncz(じっとしていられない)- (yt) cgbncz(眠れる)
c)自然の状態を表現する動詞:
cvthrftncz- cvthrytncz
(日が暮れる、たそがれる)
人称動詞の場合、単数三人称を用いる無人称文は語意やその用法と関係する:
yt elftncz (gjt[fnm)
((出発)できない)- ckexftncz (dcnhtnbnmcz)((会う)機会がある)- ghbltncz (hfccrfpfnm)((話す)はめになるだろう)- jcnftncz (njkmrj eqnb)((ただ去りゆく)ほかない)+ yt ujlbncz (nfr gjcnegfnm)(そんなことはしては)いけない)+ ntvyttn(暗くなる)+ leltn (jn jryf)((窓から)冷たい風が入る)+ yf ekbxt vjhjpbn(外はひどい寒さだ)+ d ujkjdt ievbn(頭ががんがんする)+{
jnz b gfhbn- b gtxtn- Tot ytltkb wtkst Ljhjub crjdsdftn ktl Rjhj. gjxthytkj.(蒸気が立ち上ろうが、日が照りつけようが、未だ数週間も道は黒ずんだ表面の氷で凍っていることだろう);Z etle- z etle Gj jnrhsnb. djls @ ======= Yt bob vtyz gj cktle! Cvjtn ,tukst cktls
;(私は出発する、水を探しに出発する!私の跡を追って探すな!すばやい足取りは消えてしまうものだ!
複数三人称形は、不特定多数の主体又は不特定の個人により行われる行為を表現する不定人称文において用いられる:
Yf ctkt gjujdfhbdf.n- ,elnj jyf cjdctv tve yt hjlcndtyybwf
(村では、あたかも彼女は全く彼の親戚でないと、噂されている);
Tuj pjden e;t ghjcnj Bjysxtv
(彼は、最早単にイオヌイッチと呼ばれている);D 'njv bvtyb ! jctyybq Cvjkmysq- <fknbrf- ^Fdhjhf&-
Gtnhjuhfl= ”nj bvz njq ;tktpyjq djkb- J rjnjhjq ubvyjv ujdjhzn(秋の“スモリヌイ”、バルチッ ク、 「オ−ロラ」、ペトログラ−ド:この名は、国歌に唱われている鉄の意志を表現している)+
! d j,]zdktybz[Ghjczn yt rehbnm
(掲示:喫煙はご遠慮してください);
Pltcm ghjlf.n ,bktns yf rjywtyns
(ここでコンサ−トの切符が売られています)
不定人称文では、コンテキストにより、普遍性を表現することができる。この場合、不定人称文は普遍人称文に近いものになる:
Wsgkzn gj jctyb cxbnf.n+
(ひなは秋に数えるもの:捕らぬ狸の皮算用);
Gj gkfnm. dcnhtxf.n- gj eve ghjdj;f.n
(人は見かけより、頭と心が大事);
注:一人称単数形、稀に三人称単数・複数形の特別の用い方として、慣用語法がある:
例:
Z nt,t gjcgjh.@;Z nt,t gjuekz.@;Jy nt,t gjcgjhbn@;Jyb nt,t gjuekz.n@ このような構文は、禁止と脅迫の感情的表現として用いられる。Z nt,t gjcgjh.@ この意味には二通りあり、“z pfghtof. nt,t cgjhbnm”と“yt cktletn cgjhbnm”である。Jyb nt,t gjuekz.n@ この意味は“ns yt ,eltim- yt gjcvttim uekznm$と“jyb yt lflen- yt gjpdjkz.n nt,t uekznm”の意味である。既述したように、命令法では二人称単数形の場合、対話者(第二人称)にたいする命令を意味している:
(ns) ujdjhb- blb- exbcm- xbnfq- rbym;二人称複数形では、
(ds)ujdjhbnt- blbnt- exbntcm- xbnfqnt- rbymntとなる。共同行為の形の場合、対話者(達)及び発話者にたいする命令の意味がある:
gjqltv(nt) dvtcnt relf_yb,elm
;lfdfqnt ujdjhbnm j ltkt;Lfdfq- cnfhbr- gjtltv@ ! ghtlkj;bk vjq lheu;Lfdfq Lfdfq yt ,eltv hfpdjlbnmcz= Vj;tn ,snm- dct tot yfkflbncz=
注:共同行為の形は、何かを実施しないための命令表現の場合にも用いることができる。この場合、コンテキストにより明らかであるが、この命令の意味は発話者には及ばないものである:
Lfdfqnt yt ,eltv hslfnm
- uhf;lfyrf-!cgjrjqyj crfpfk gthdsq=(お前さん、泣くのはおやめ、と落ち着いた調子で一番目の者が呟いた)
命令法二人称単数形は、普遍人称文において用いられる。特に慣用文や諺において用いられる:
rfr yb dthnbcm
(何をしようと);xnj yb ujdjhb
(何と言おうと、何はともあれ);relf yb ceymcz
;[jnm e,tq(どうしても);[jnm ,hjcm
(何の役にもたたない);普遍人称文は、慣用句以外においても用いることができる:
B z ,s- ghbpyf.cm-,jkmit ,s ybxtuj b yt nht,jdfk- rfr njkmrj jrfpsdfq vyt ghtlfyyjcnm b edf;tybt- edf;tybt b ghtlfyyjcnm
(だが正直なところ、私に忠誠心と誠意、誠意と忠誠心を表するのであれば、それ以外は何も要求しないだろう)Ye z ljgecrf.- he,b ktcf bp ye;ls- yj pfxtv bcnht,kznm b[ *
普遍人称文で用いられている第二人称は、コンテキストによっては、発話者自身を表現する場合がある:
<tpevtw z @ xtuj ; z bcgeufkcz* Yf ghbphfr ctq
gjleq ! b ytn tuj;
命令法二人称単数形の普遍人称文は、命令の意味の表現ではなく、当為・願望・許容・可能・不可能・強制の意味を表現する場合にも用いられる:
Ljrnjhf yfghjgbcsdf.n dczrb[ ktrfhcnd- f ,jkmyst gtq
Dct uekz.n- f z exbcm
(皆は遊んでいるが、私は勉強せねばならない)数のカテゴリ−
動詞の数のカテゴリ−とは、行為と一つの主体又は複数の主体との関係を表現する相互に対応している一連の形式体系のことである。即ち、行為とその遂行者の単数及び複数の関係を表現するものである。数の形態論的カテゴリ−とは、単数及び複数の意味を有す、二つの対応する一連の動詞形態のことである。単数形は行為が単数の遂行者に属することを表現し、又複数形は行為が複数の遂行者に属することを表現する。行為の遂行者は、人物(一人称・二人称・三人称単数・複数形)及び物体(三人称単数・複数)である。
形態(人称形又は性の形)により、単数及び複数の意味は二つの方法で表現される:
人称形の場合(現在形、命令形)、数の属性は変化語尾で表現される。
,thtu_e- buhf_.- ,tht;_tim- buhf_tim- ,tht;_tn- buhf_tn+
,thtu_e- buhf_.- ,tht;_tim- buhf_tim- ,tht;_tn- buhf_tn+ ,tht;_tv- buhf_tv- ,tht;_tnt- buhf_tnt- ,thtu_en- buhf_.n;
性の形態(過去形、仮定法)の場合、単数の意味は性を表す語尾で表現される:
付加語尾なし、
_f、_j:,thtu- buhfk- ,thtuk_f- buhfk_f- ,thtuk_f- ,thtuk_j複数の意味は、最後の子音|k|を軟化させ、語尾“_k”により表現される:,thtu|k?_b|- buhf|k?_b|
複数の意味は単数と比較すると、より明確なものである。それは実際上の複数と密接に関係している。例えば、直説法複数一人称形及び二人称形には事実上、その基本的定義と大きく異なる転義や用法はない。例外としては、複数一人称形の中立的用法がある。複数三人称形はその全ての意味及び用法において、行為の主体が複数であることを意味している。単数形は、より不確かなものである。その意味は、時に実際の単数と関係ない場合がある。単数二人称・三人称の意味は、普遍人称文(二人称)や無人称文(三人称)のように、意味上単数とかけはなれる場合もある。又命令法の単数二人称では、装飾文(芸術文)の場合、複数の人物にたいし用いることができる:
Cnjq
- ,hfnws- cnjq @ ! rhbxbn Vfhnsirf= ! Gjujlbnt@ (みんな!とまってよ、とまって!ちょっとまってくれ、とマルトウイシュカは叫んだ);>yrthf@ Ckeifq vj. rjvfyle% chsdfq gjujys- rjrfhls- gjlcevrb- ,hjcfq jhe;bt@
(下士官諸君!私の指示に従いなさい!肩章、記章、弾薬盒を外し、武器を捨てなさい!);Rhbryek d hegjh vfnhjcfv vfnhjc% ! Ds,bhfq zrjhz @
(水兵は、通話筒から水兵達に向かって叫んだ。錨を上げろ!);d rjvfylf[% Cnhjqcz @ Yf gthdsq_dnjhjq hfccxbnfqcz@
(号令:整列!番号!)
複数形は文体的に中性又は装飾的になる。文体的に中性であるものとしては、不定人称文における、三人称複数形及び複数過去形がある。この場合、行為は不特定な人物によって遂行されるもの(漠然と思考されるもの、不明のもの、不確定のもの、故意に不確定にするもの)として、表現される:
D ljvt buhf.n (buhfkb) yf hjzkt
(家ではピアノを弾いている(いた));D ,jkmybwt ht,tyre chfpe gjvjuen (gjvjukb)
(病院では、直ちに赤ん坊の手当をするだろう(した));Tve pdjybkb (pdjyzn) gj ntktajye
(彼に電話があった(電話がかかっている));R nt,t ghbikb (ghblen)
一人の人物にたいする、直説法及び命令法二人称複数形並びに、複数過去形(丁寧表現)は、文体上中性である:
Ds yfpyfxftntcm lthe;ysv
(あなたは、当直に任命される);Ghb[jlbnt ctujlyz jlby% yfv ye;yj gjujdjhbnm
(今日、一人で来て下さい。我々は話し合う必要があります);{
jhjij- xnj Ds ghbikb(あなたが来たことはいいことだ);
いわゆる“謙譲・謙虚”さを表現する為に、単数一人称形の代わりに、複数一人称形及び複数過去形を用いて、文語特有の文体表現を行う場合がある:
Vs gbitv+
Vs gbitv+ Vs endth;lftv+ Rfr vs e;t crfpfkb ds;しかしながら、一人称単数形の代わりにこの形式を会話で用いると、打ち解けたニュアンスや横柄な調子も表現される:
Cltkftim r chjre* ! Cltlftv
(期日までにできますか。−やりましょうとも);Cjdtne. Dfv ghjxtcnm 'ne rybue= ! Gjxbnftv
($gjxbnf.$の代わり)(この本を読むことをあなたにすすめる。−読んで見るか)Ds- njdfhbo- jib,kbcm= ! Ytn- yt jib,kbcm
(同志、あなたは間違えました。−いいや、間違ってるもんか)一人称複数形は、一人の人物にたいし、同情・寛大・皮肉のニュアンスをもって用いることができる。
三人称複数形及び過去複数形は、行為の主体が発話者であり、「
rfr ujdjhzn nt,t(dfv)+ rfr ujdjhzn nt,t(dfv)+ ghjczn nt,t (df」のケ−スでは、一人の人物の行為を表現することができる: Rnj ns*[cnfhbr] 「おまえは、だれだ」(老人)Z pltiybq djhjy=======
[Ryzpm]「おれはここの烏だ」(支配者)<tlysq vtkmybr @
[cnfhbr]「貧しい粉挽き屋か」(老人)Rfrjq z vtkmybr- ujdjhzn nt,t- Z djhjy- f yt vtkmybr======
「どうしておれが粉挽き屋なんだ、おまえにいったろう、おれは烏だって、粉挽き屋じゃあない」俗語では、三人称複数形や複数過去形は、かしこまった又はへつらい、或いは敬意を表現する場合に用いることができる。これは主に人称代名詞“jyb”を用いて表現される:
Djkjlz ghbt[fk @ ! rhbryek rnj_nj yf ldjht= ! Djkjltxrf ghbt[fkb@ ! pfdjgbkf Yfnfkmz- d,tufz d cnjkjde.
(「ヴォロ−デヤが来た」と中庭で誰かが叫んだ。「ヴォロ−デヤさまが来た」と、食堂にかけ込みながらナタ−リヤは大声を上げた。);Ithdbycrbq%
]F ult ;t jy* [Kfrtq]Yt vjue pyfnm= C gjkxfcf yfpfl dsikb({シェルヴインスキ−}「ところで彼はどこだ?」{下男}「知るすべもありません。半時間前にお出かけになりました」)性のカテゴリ−
動詞の性のカテゴリ−とは、男性名詞、女性名詞又は中性名詞と呼ばれる人物(物体)と行為の関係を表現する過去単数形又は仮定法単数形の一連の形式体系のことである。動詞の性のカテゴリ−には、女性、男性及び中性がある。これらは、下記のことを表現する:
a)女性又は男性と行為の関係
(z buhfk ! z buhfkf+ z buhfk ! z buhfkf+ ns gbcfk ! ns gbcfkf+ jy ghbitk ! f ghbikf+ yfi pf,bzrf gjlhfkcz ! yfif pf,bzrf gjlhfkfcm)
b)名詞の文法上の性と一致すべき人物の性と行為の関係
(cneltyn dthyekcz ! cneltynrf dthyekfcm)
c)名詞の文法上の性と一致する物体の名称(名詞)との統語関係(cnjk cnjzk-
rybuf egfkf- vjht ievtkj)“Lbnz buhfkj- Gjzdbkjcm xeljdbot”のような文は、名詞と動詞形の統語関係を表しており、人物の性を表現しているものではない。
性の特徴は、語尾により表現される:男性形(語尾なし)、女性形(
_f)、中性形(_j);性表現の形式は同時に単数を意味する。この場合、人称の意味はない。動詞の複数形には、性の表現はない。
中性形は、無人称の行為を表現できる形式でもある:
Vbksq ,hfn@ Pfdtxthtkj- Xenm cksiys rjkjrjkf
(愛する兄弟!鐘が聞こえたと思ったら、日が暮れていた);F nfr rfr vyt ,evfub yt [dfnbkj- Z yf ndjtv gbie xthyjdbyt
(紙がなかったので、わたしはお前の書き古しに書くことにします);Yjxm hfcwdtnfkf= Nzyekj e;t r enhe- b gjuht,tyysq gjl vj[yfnsv cytujv cgfk ljv
:
注:中性形はコンテキストにより(特に詩文)、行為の主体を暗示・不明確に表現することができる(
xnj_nj、ytxnj):Ghjpdexfkj yfl zcyjq htrj.- ghjpdtytkj d gjvthritv keue- ghjrfnbkjcm yfl hjotq ytvj.- Pfcdtnbkjcm yf njv ,thtue(輝く川の上で鳴り響き、暗がりの草原で轟音がし、音一つ無い林の上で轟き、対岸で閃光がはしった);Ckjdf* ! B[ yt ,skj= ! Xnj ; ,skj* ! Yb cjy- yb zdm= Dlfkb- dlfkb Pdtytkj- ufckj-e[jlbkj B jnltkzkjcm jn ptvkb======= B evthkj=====
(喋ったか?いや。 いったい何があったんだ!夢でも現実でもない。 遠くで音を響かせ、消え去り、地上から離れた。そして死んだ)ペイジのトップ↑ 索引