訳出 飯塚
戦争:
1944年の4月。ソ連軍は戦闘をくりかえしながら後退していた。
夕闇の中、攻撃に晒された町々の空低く、火災により赤々と照らされていた。黒い灰のかたまりが、
大きな雪粒のようにひらひらと降っていた。鉄板がちぎれ、風が轟音と化した。遠距離砲
の一斉射撃が鳴り響いた。そうした中、人々は穴蔵や地下室に潜み、やつれはてながらじっと待機
していた。生きるも死ぬも、扉が銃床により叩かれた瞬間に、決定された。
その年、私たちは各々生まれ故郷の町に帰り、不思議な見知らぬ通りを歩き、眠気で閉じそうな瞼
を手でこすると、突然白鳥やイラクサの生える小高い丘にいて、そしてそれが子供の頃のお伽の山
と知ると、第一次五カ年計画だとか、隣の中庭にある手回しオルガンの音や、青空をゆった
り飛行する鳩とか、セレンカと呼ぶ周囲憚らない女性の声が次々と思い浮かんだ。
私たちは過去を振り返ることを覚え、もうすっかり大人になっていた。
傷病者輸送列車、いわゆる重傷者用の“クリゲロフ”列車。車両の両側には二段にハンモックが
吊され、中央に狭い通路があった。天井の明かりは消され、夜明け前の光でやっとデッキから第一列
目の各々上下の吊された四つのハンモックのみが見えた。
下段にあるハンモックの一つで、深々とした枕に頭を後ろに反らせ、かさかさになった唇を閉じ、
目をつぶり寝ている男がいた。上級中尉のダヴィド・アブラモヴィッチ・シヴァルツであった。
漠然とした不安に包まれながら眠る負傷者、のたうち、うわ言をいい、歯ぎしりをし、泣き叫ぶ、
そして寝言をくりかえしたいた。突然誰かがわけの分からぬことを喚きだした。「第一火砲発射準備!、
第二火砲発射準備!ファシストの悪党に向け、まっすぐ発射!」
しかし、誰一人その命令に動こうとはせず、武器の音もなく、硝煙の空に轟音と共に爆破された
地面が飛び散ることもなく、汽車は何事もなかったように汽笛を鳴らしていた。車輪がゴトン、ゴト
ンとする音のほか、何も聞こえなかった。ただ時折、ガタガタときしむ車窓の外を戦火を思い起こす
ような蒸気機関車の火花が猛烈の勢いで通過しては、瞬く間に消え去っていった。
ダヴィドのハンモックのそばにある低い腰掛けに、消毒液で黄ばんだ指先をした長くのびた疲れ
た手を膝にのせ、看護婦の白衣と凝った三角巾をかぶったリュドミ−ラ・シュ−トヴァが座り、無言
のまま不安そうにダヴィドを見つめていた。
オデインツオフは咳でむせていた。衛生婦は顔をそむけ、窓ガラスに額を押しつけていた。
ダヴィド:水、水をくれ、リュドミ−ラ!
声:おまえ、何がほしいんだ、ドデイック?
ゆらめく光線の中にアブラム・イリイチ・シヴァルツの姿が浮かんできた。彼はいつかモスクワに
来た時と同じ上等の黒い背広を着て、ダヴィドの方に身をかがめ、腰掛けに座っていた。そしてあ
いかわらず流行遅れのラシャの帽子を膝の上においていた。そしてすべてが以前のままで、頭も周
りの部分もいつものように銀色の柔らかい頭髪をしていた。その柔らかい頭髪はすっかり透き通り
薄くなっていた。ただ弾丸が貫通した左側には、黒い血の固まりの跡が見えた。背広の袖には黄色
い六角形の星とくっきり“ユダ”の文字が書かれた腕章が安全ピンで留められていた。
シヴァルツ:せがれや、元気か? シャロ−ム・アレイヘム!
ダヴィド:父さんなの? どこから来たの?どうしてここにいるの?
父さんは生きているの?
シヴァルツ:(おだやかに、悲しげに)いいや、せがれ、わしは殺された。一年前のことだ。きっか
り一年前だ。おまえは知っていると思った。
ダヴィド:知っていたよ、けど僕には姿が見えた・・・・(突然叫ぶ) 本当に父さんの姿が見える
よ! どうして父さんの姿が見えるんだ? 僕には父さんに思えるけど、そう?
シヴァルツ:そうかもしれん、ドデイック!(笑みを浮かべる)人間はゴキブリじゃあない、常に何
かを想像しているものだ。女は不快な結果が頭に浮かび、男は成功が頭に浮かぶものだ。
ダヴィド:父さん、笑っているの? 父さん、笑うことができるの?
シヴァルツ:(肩をすぼめて)死んだ者は泣かないものだよ、ダヴィド! (少し間を置いて)このわ
しもさ、その最期の日、護送され駅前広場に連れていかれた時、わしがおまえの乗っ
ている汽車を出迎えに出かけているかのように思えたものだよ。
ダヴィド:(きつい調子で) 父さん、どんなふうだったの?
シヴァルツ:(手を振り) いや、別の話をしようじゃないか。
ダヴィド:僕は知っておかなきゃいけない!どうだっだの?
シヴァルツ:せがれや、ごくありふれたことだよ。それはある晴れた日のことだ。ゲット−
全てに掲示があった。わしらをポ−ランドに移住させるから、日曜日に荷物を持
って駅前広場に出頭しろと言うんだ。
ダヴィド:それで、父さん、その意味分かった?
シヴァルツ:もちろん、わかったさ。それでも中には信じていたやつもいたよ..おい、ドデイ
ック、ユダヤ人には馬鹿者はいないってことは、これは全て作り話だ。おまえに断言
する。いるんだよ。どこでもそうだが、一人の賢者にたいし、ちょうど二人半の愚者
がいるもんだ。
ダヴィド:それでその先は?
シヴァルツ:それで日曜日、わしら全員はゲット−の出口前に集合したんだ。人数をチェックし、
隊列を組まされ連れていかれた。(あざ笑う) それでもやはり、これはキエフじゃな
くて、トウリチンだからさ。キエフじゃ、こんな場合、バスを使ったと聞いているよ。
ところがわしらは、引き連れられ...そして、女も、年寄りも子供も歩いたんだよ。
雨が降っていたし、風も吹いていた。それで、わしが歩くのを助けてくれたのは、あ
の靴屋だ。やつの家からは全部で八人だ。ナウム・シュフテルとその女房のマ−シャ、
つまり、フィリモ−ノフの妹とか....
ダヴィド:父さん、病気だったのかい?
シヴァルツ:ドデイック、たいしたことじゃあない!よくある風邪だ、熱もなかったんだ。そうや
って、わしら全員歩いて、歩いて進んだ。雨は降るし、犬は吠えるし、子供は泣くし.
..ところが、どこの通りも人っ子一人いなかった。まったく誰もいないんだ。みん
な家の中に隠れ、ただわしらが通り過ぎる時、窓のカ−テンがかすかに動いたよ。そ
れでさえ、わしは本当に嬉しかったものだよ。
ダヴィド:どうして?
シヴァルツ:(ちょっと沈黙し) いいか、おまえ、わしはトウリチンで生まれ、トウリチンで生き、
ウリチンで死んだんだ。わしはこの町のほとんど全ての者を知っている。それで昔か
らの知合いがその日わしを見て、顔をそむけたり、目を伏せたりしては欲しくなかっ
た...そうやって、とうとうわしらは駅前広場に連れていられた。ここでもう一度
人数を数えなおした。やつらはきわめて几帳面な連中だ。ナチの親衛隊のやつらだ。
もしわしが薬局でもやっていたら、薬剤師に雇いたいぐらいだ。やつらはわしらを数
え終えると、荷物を渡すように命令した。だがわしには渡すものは何もなかった。何
にも持ってこなかったんだ。唯一、おまえの幼い頃のバイオリン、そうおまえの分身
だよ。それでいつだったか、おまえがアウア−の最初の練習曲をひいたやつだよ。持
ってきたのは、そのバイオリンとわしの写真アルバムだけだ。フィリモ−ノフのやつ、
ドイツ人に協力していたんだが、わしが手にそのバイオリンを持っているのを見ると
笑いだし、お−い、くそじじい、カデイッシをひけって叫びやがるんだ。供養の一曲
ひいてくれや、くそじじいって叫びやがったよ。
ダヴィド:下衆野郎! シヴァルツ:ところが後であつは、自分の妹のマ−シャに気づくんだ。そして、妹になんでおまえ
ここにいるんだって言うんだ。おまえロシア人じゃあないか、馬鹿、はやく帰れってど
なってるんだ。しかし彼女は去らなかった。彼女は亭主のナウムに抱きつき、去らなか
ったよ。そしたら、だんな、ああ、マ−シャ、マ−シャ!って呼んでいたよ。
おまえ覚えているか、どんなにマーシャが綺麗だったか、ドデイック? わしはいつだっ
たか一度聞いたことがあるんだ。おまえ、なんだって赤毛のナウムが好きなんだ?
そうしたら彼女笑いだし、こう言うんだ。そのわけ? みんな、私のことマーシャと呼
ぶけど、しかし世間の誰も、どんな人も、うちのナウムが“おーマーシャ”とじょうず
に呟くようには“マ−シャ”のことを言えないの。
ダヴィド:(口ごもりながら)その後は? その後どうしたの?
シヴァルツ:わしらは立っていた。そして雨が降っていた。どこか遠くで汽笛がなっていた。ド
イツ人は明らかに誰かまっていた。上官をまっていたんだろう。その時またフィリ
モーノフは、おい、くそじじい、カデイッシ弾けよって叫びやがった。ドデイック、
わしはその時突然おそろしく腹がたったよ。おまえのバイオリン、おまえがアウア
−の練習曲を稽古したおまえの分身を振り挙げて、フィリモーノフめがけて突進
し、そのバイオリンでやつの顔を殴りつけてやったよ。そして怒鳴りつけた。わし
らの仲間が戻ってきたら、狂犬のようにおまえは絞首刑にしてやるからなって!
ダヴィド:(怒りながら)その次は? その後はどうだったの?
シヴァルツ:(ちょと間を置いて)これでおしまいだ。わしには、どのような“その後”もなかっ
た。その後は、せがれや、おまえの“その後”が始まるんだ。
ダヴィド:(感情をおさえて) たぶん、そうだよ。
シヴァルツ:その後はどうだったんだ、ダヴィド?
ダヴィド:(少し起き上がって)いま話す。いいですか、聞いていてね。その後何があったか聞い
ていてね。その後は、七昼夜も続いたものすごい戦闘の後、僕らはトウリチンを奪回した。
シヴァルツ:おまえ達は戻ったのか?
ダヴィド:僕らは戻ったんだよ、父さん。ある時、僕らはファシストをチュカーリン湖の向こうに
撃退し、八日目の夕方近くトウリチンに入ったんだ!かっては、父なる大地という言葉
が何を意味しているのかなぜか考えてみたこともなかった。しかし僕らの先頭車がデカ
ブリスト広場に止まった時、ぼくはトウリチンの匂いを感じ、そしてトウリチンの土地
や、石や空が視界に入った。空には飛行機はいない、曳光弾のあとはどこにもなかった。
そのかわりに僕らを祝してルイバコフ窪地から少年が放った最初のカワラバトが飛来し
ていた。そして、僕の運転手は振り返り、上級中尉殿、やっと貴方の故郷に帰れました
ね、と呟いたよ。
シヴァルツ:(驚き、歓喜する)おまえ、上級中尉になったのか、ドデイック?
ダヴィド:そうです、父さん。
シヴァルツ:おーお、なんてことだ、おめでとう!上級中尉か、これはたいへんな地位だ。
ダヴィド:そんなたいした地位じゃあないよ、父さん。
シヴァルツ:いや、そうじゃあない。わしは知っているよ。ミーチャ・ジュチコフのところに、
ほら覚えているだろう、倉庫番のミーチャだよ、あいつところの息子での弟のワー
シャが中尉だったんだ。それでミーチャがの弟のこと、まるで総指令官とワーシャ
はほとんど同じぐらいの調子で語っていたよ。(にやって笑う)ごめん、せがれ、
おまえの話中断してしまった。それで後はどうだったんだ?
ダヴィド:翌朝、僕の部下が隊にフィリモーノフを連れてきた。僕らはある程度、彼の悪行を聞
いていた。彼は逃亡しようとしていた。しかし僕の部下は彼を捕らえて隊に連れてきた。
シヴァルツ:おまえ、やつを見たか?
ダヴィド:見た。
シヴァルツ:それで、やつもおまえを見たか?
ダヴィド:見た。かれは僕一人だけを見ていた。それもじっと僕をみつめていた。誰なのかはっき
りさせたかったのだろうが分からなかったらしい。それで、僕が誰であるか、彼に思い
出させてあげたよ。そう、そのとおり、僕だ、ダヴィド・シヴァルツだ、ルイバコフ窪
地のアブラム・イリイチ・シヴァルツの息子だと言ってやった。
シヴァルツ:ドデイック(ゆっくりと)、それでその後は?
ダヴィド:(意地悪い笑みをうかべて)後は、父さんが彼に予言したとおりそのものになったよ。
シヴァルツ:(小声で)おまえたちがやつを...。
ダヴィド:(うなずく)そうです。駅前広場で。ある晩、全てが終った時、僕のところに彼の妹マー
シャが訪ねてきた。
シヴァルツ:妹は生きていたのかい?
ダヴィド:彼女は生きていた。負傷しただけですんだ。二昼夜彼女は濠のなかに父さん達と共に放
置され、三日目の晩、そこから抜け出し家まで這って帰った。彼女を順番にかくまった。
ミーチャ・ジュチコフのところ、タチヤ−ナの両親シイチョフのところ、といった具合
いに。そのうちに彼女は僕のところに来た。二人で鉄道の向こうにある待避駅のところ
に行った。
シヴァルツ:(やさしく)そのことはいいよ、ドデイック!
ダヴィド:いいや!(目を細める)メイエル・ヴォリフは、”嘆きの壁”を訪れようと生涯金を貯め
ていた。その時僕はその壁を見た。それは鉄道線の外側にある待避駅「トウリチン貨物駅」
にあった。それはただの防火壁だった。機関銃の弾痕によりでこぼこになった煉瓦作りの
防火壁だ。この壁に毎晩通って来ては泣くロシア女がいた。それが裏切り者の妹、正直で
赤毛の靴屋のシェフテルの妻、美人のマーシャ・フィリモーノバだったんだ!
シヴァルツ:それで!その後は何があった、ダヴィド?
ダヴィド:翌日、僕は爆風をうけけがをしたんだ、父さん。負傷したんだ。
シヴァルツ:(ゆっくりと、返事を恐れながら)おまえ、どこをやられたんだ?
ダヴィド:肩だよ。僕を許してください!僕は父さんには何度となく悪いことをしたと思っている。
特に父さんがモスクワに来た晩は....。
シヴァルツ:(やさしく)もうわしは忘れたよ、その件は、ダヴィド。
ダヴィド:(叫ぶ)だけど僕は覚えている! そしてその中で最もよくないことは、もうけっして
僕は燕尾服を着て音楽院の大ホールの舞台に立つ機会はないし、美しい婦人や紳士が
僕に拍手することもない、笑みを浮かべたり、アンコールを何度も要求されることも
ないんだ。父さん、ごめんね!父さんが夢にまで見ていたことが叶えられなくて!
シヴァルツ:(頭を振る)ばかなやつだな、それはもう叶えられたんだ!ほら、わしのポケットに
新聞の切り抜きがある。全部おまえに関すること、おまえの演奏に関し書かれたもの、
全部だ!。夢は叶ったんだ。もう、ヴィエニアフスキ−のマズルカやヴィヴァルデイ
のコンチェルトをもう一度おまえや、おまえの弟子とか、それともおまえの小さな息
子が演奏するかは重要ではないんだ。おまえの息子はどんなにおまえを誇りにおもう
だろうか、ドデイック! そして、おまえの息子はこう人々に言うだろう。これが僕
のお父さんだ、今日僕があるのもこのお父さんお陰なんだとな。そして、僕の父さん
は上級中尉で、大祖国戦争の英雄、勲章やメダルをいっぱいもらった人間だというだ
ろう。おい、おまえを恥しいなんて思いもよらないぞ! それとおまえも、息子に幸
せに見せようとして、嘘をついたり、うまく立ち回ったりするんじゃない! もしか
したら、せがれや、わしはくだらん事を言っているかもしれないが、しかしわしの考
えだが、おまえがその為に戦ったソヴィエト権力はまさにそのとおりじゃあないか。
どうだ? そうじゃあないか?
ダヴィド:そうだね、父さん。
シヴァルツ:ついでだが、わしは長いこと一つの疑問に悩まされていた。ある時、わしのアルバムか
ら三枚の絵はがきがなくなっていた。おまえがわしにそれをとっていないと言っても、
おまえを信じられなかった。
ダヴィド:僕は父さんに嘘をついていた。それは僕がとったんだ。
シヴァルツ:(しばらく沈黙し、厳しく)もう二度とやらないことを望むよ、ドデイック!わしにと
って、嘘とはこの世で何よりも恐ろしいもんだよ。(寂しそうな笑みを浮かべて)おそ
らくそれは、わし自身が余りにも長い間嘘をつき続けたせいだろう。
シヴァルツ:(彼のみ聞こえる何かに耳をすました。 そして立ち上がった。)わしはそろそろいかん
と、ダヴィド。
ダヴィド:父さん、もう帰るの?
シヴァルツ:わしはもう時間だ。
ダヴィド:そんなに早く! でも、また会えるよね、そうだよね?
シヴァルツ:いいや。もう会うことはないんだよ。あそこからは汽車はでていない、手紙も電報も
運んでこないんじゃ。もうわしらは会うことはないよ。もしかしたら、おまえ、わし
の夢をみるかもしれんよ。だがわしはすかんよ。自分の見た夢を思いだしたり、人に
話して聞かせるのは。人が見る夢なんと、どうでもいいことじゃないかね! さような
ら、せがれよ。
ダヴィド:父さん!
シヴァルツ:別れだ。
ダヴィド:父さん、待ってよ、父さん!
しかし、もうそこにはアブラム・イリイチはいなかった。腰掛けに差し込んでいたゆらめく光の円
も消えていった。列車の汽笛がなった。車輪の打つ音が大きくなった。デッキの扉が開いたせいだ。
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